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詠懐詩,白眼視,幽憤詩



      六朝時代の詩人





建安の詩人


詠懐詩 白眼視 阮籍 幽憤詩 ケイ康


李白60宣州謝眺樓餞別校書叔雲で「蓬來の文章 建安の骨、中間の小謝 又 清發。」と李白の時代と建安の武骨者の時代その中間に小謝、謝?の存在影響を述べている。中間にあたる小謝、大謝については7月7日のブログで謝?6首、謝霊運1首を挙げた。



 建安の武骨者は、竹林の七賢であるが、この7人は一緒に清談をしたのではないことは周知のことと思う。建安の思想的背景は道教にあると考えている。道教と老荘思想と関係ないという学説もあるが、儒教国学から嫌気を老荘思想に映っていく時代背景に戦国時代があり、道教に老荘思想が取り込まれ、また変化している。一般に老荘思想はものの生滅について「生死は表層的変化の一つに過ぎない」と言う立場を取るとされが、不老長寿の仙人が道教において理想とされることは、老荘思想と矛盾しているように見える。しかし、道教の思想において両者は矛盾するものではない。

 老荘思想の「道」は道教にも、仏教にも取り込まれて行ったのである。思想は時代によって進化し、衰退するものである。
 李白が影響受けたのは自由奔放だった阮籍と反骨のケイ康である。
戦国の世、交代が進む世にあっては、いつ何時政争に巻き込まれ、諫言、策略、陥れあらゆることが身を危険にする時代である。阮籍は「仙人」「佯狂」を装うことによって危険から距離を置いた。李白は影響受けたであろう。

詠懐詩  阮籍
夜中不能寐、起坐弾鳴琴。
薄帷鑒明月、清風吹我襟。
孤鴻號外野、朔鳥鳴北林。
徘徊将何見、憂思独傷心。

深夜を迎えたというのに眠ることができない、床より出て座して琴を弾く、帳には名月が影を落とし、涼しい風が我が襟を吹く
孤鴻は外野に叫び、朔鳥は北林に鳴く、その声に誘われてあたりをうろうろと歩き回っては、悲しい思いにふけるのだ

夜中 寐(い)ぬる能はず、起坐して鳴琴を弾ず
薄帷に明月鑒(て)り、清風 我が襟を吹く
孤鴻 外野に號(さけ)び、朔鳥 北林に鳴く
徘徊して 将に何をか見る、憂思して独り心を傷ましむ
 
酒を飲む場所が、酒場でなく野酒、竹林なのは老荘思想の「山林に世塵を避ける」ということの実践である。お酒を飲みながら、老子、荘子、または王弼の「周易注」などを教科書にして、活発な論議(清談、玄談)をしていた。談義のカムフラージュのためである。
この思想は、子供にからかわれても酒を飲むほうがよい。?山の「涙堕碑」か、山公かとの選択(李白襄陽曲四首)につながっていく。
また仙人思想につながっていくのは、

【晋書・巻四十九・阮籍伝】
籍又能為青白眼、見禮俗之士、以白眼對之。
〈籍、又 能(よ)く青白眼を為(な)し、禮俗(れいぞく)の士に見(まみ)ゆるに、白眼を以て之(これ)に對(たい)す。〉

 阮籍は、青(黒)目と白目を使い分ける事ができ、礼儀作法にとらわれている俗人と会う時には、白目をむいて向かい合った。(儒教は国に盲従する思想である。老荘思想を正面切っては語れない時代であった)白眼とは人を正面からまともに見ない、視線をそらす、ということが実際にはしたらしい。
まともに目をあわせると、黒目がしっかりと見える。これが青眼で、顔はむけけてても視線をそらせると、相手に自分の白目を多くみせることになる。これが白眼である。視線をそらすとか相手の目をちゃんとみないというのは、不誠実のあらわれであることは今でもいわれることだ。

つまり、阮籍は世俗人には実に自由奔放に、気の無い冷たい態度で接するということで自分の意思を示したのである。
 仙人思想は、隠遁を意味するわけであるが、宗教につてすべての宗教上のすべてのこと、すべての行事等も、皇帝の許可が必要であった。一揆、叛乱の防止のためであるが、逆に、宗教は国家運営に協力方向に舵を切っていったのである。その結果道教は、不老長寿の丸薬、回春薬を皇帝に提供し、古苦境にまで発展したのである。老荘思想の道教への取り込みにより道教内で老境思想は矛盾しないものであった。
 李白は直接的には反骨精神を示してはいないが、心情的には、容認していた。建安文学の中でのケイ康についてみていこう。





幽憤詩 ケイ康
 ケイ康(けいこう、224〜262)は、三国時代の魏の文人。竹林の七賢の一人で、曹操(155〜220年)の曽孫の長楽亭を妻とし、魏の宗室の姻戚として中散大夫に任じられたので、?中散とも呼ばれる。子に?紹(253〜304年)がいる。非凡な才能と風采をもち、日頃からみだりに人と交際しようとせず、山中を渉猟して仙薬を求めたり鍛鉄をしたりするなどの行動を通して老荘思想に没頭した。友人の山濤(205〜283年)が自分の後任に?康を吏部郎に推薦した時には「与山巨源絶交書」(『文選』所収)を書いて、それまで通りの生活を送った。この絶交書は自らの生き方を表明するために書かれたものである
当時の陰惨な状況では奔放な言動は死の危険があり、事実、?康は讒言により死刑に処せられている。彼らの俗世から超越した言動は、悪意と偽善に満ちた社会に対す憤りと、その意図の目くらましであり、当時の知識人の精一杯で命がけの批判表明とされる。
呂安の異母兄呂巽(りょせん)が呂安の妻と密通し、発覚を恐れてかえって呂安を不孝の罪で告発した。

 ケイ康は友人のために弁護したが、当時の権臣鍾会(しょうかい、225〜264年)の怨みを買われていたで、彼自身も有罪となり死刑に処されることになった。「幽憤詩」は呂安の事件で入獄中に作ったという。四言の長編に悶々の情と共に彼の精神史を書き綴っている。

「幽憤詩」
嗟余薄?,少遭不造  哀?靡識,越在繦?

母兄鞠育,有慈無威  侍愛肆姐,不胴不師

爰及冠帯,馮寵自放  抗心希古,任其所尚

託好老荘,賤物貴身  志在守撲,養素全眞
曰余不敏,好善闇人  子玉之敗,?増惟塵

大人含弘,蔵垢懐恥  民之多僻,政不由己
惟此褊心,顕明臧否  感悟思愆,怛若創?

欲寡其過,謗議沸騰  性不傷物,頻致怨憎
昔慙柳恵,今愧孫登  内負宿心,外?良朋

仰慕厳鄭,楽道閑居  与世無営,神気晏如
咨予不淑,嬰累多虞  匪降自天,寔由頑疎

理弊患結,卒結囹圄  對答鄙訊,?此幽阻
實恥訟冤,時不我與  雖曰義直,神辱志沮
澡身滄浪,豈云能補  

??鳴鳫,奮翼北遊  順時而動,得意忘憂
嗟我憤歎,曾莫能儔  事與願違,遘茲淹留

窮達有命,亦又何求  古人有言,善莫近名  
奉時恭默,咎悔不生  萬石周愼,安親保榮
世務紛紜,祗攪予情  安衆必誡,乃終判貞
煌煌靈芝,一年三秀  予獨何為,有志不就
懲難思復,心焉内疚  庶勗将来,無馨無臭

采薇山阿,散髪厳岫  永嘯長吟,頤性養壽


*区切りは韻によって便宜上わけた。


ああ、私は倖(しあわ)せうすく 幼い時に父を失い 憂い悲しむことを知らず 褓繦(むつき)の中にくるまっていた 母と兄とに養い育てられ 慈(いつく)しまれるも厳しさを知らず 愛に甘えて傲(おご)り高ぶり 訓(さと)されず師にもつかなかった

成人して出仕するに及んでも 恩寵を頼んで恣(ほしいまま)に振舞い 心を高ぶらせて元古の世を慕い よしと思う道をひたすらに追い求めた 老荘の教えをこよなく愛し 外物をいやしんでおのれ一身を尊び 自然のまま飾らぬことを志し 本質をつちかい真実を貫こうとした

だが私は愚かであったため 善意ばかりで世事に疎く 子文(しぶん)が子玉(しぎょく)の失敗を責められたように 窮地に陥ったこともしばしばであった 
大人物は度量が広く 清濁をあわせのむものだが 悪事を働く人民が多い時に 責任のない地位にありながら 狭い心を持ったばかりに さしでがましくも事の善悪を弁別した それを過失(あやまち)と悟った時には 打身のように胸は疼(うず)き 
過失(あやまち)を犯すまいと努めても 非難の声はすでに沸きあがる 人を傷つけようとは思わなかったのに しきりに怨みと憎しみを招いてしまった 昔の人では柳下恵(りゅうかけい)に面目なく 今の人では孫登(そんとう)に会わす顔なく 内にかえりみてはかねての志に背(そむ)き 外に対しては良友に恥ずかしく思う 

かくして厳君平(げんくんぺい)や鄭子真(ていししん)のように 道を楽しみひっそりと暮らし 世間との交際(まじわり)を絶ち 精神を安らかに保とうと考えた  ああ私がいたらぬばかりに 煩(わずら)わしい ことに巻きこまれ心配が絶えぬ それは天のなせる業ではなく 実にかたくなで疎漏(そろう)な性格(さが)による 

道理は崩れ災禍(わざわい)は動かぬものとなって ついに囚獄(ひとや)につながれる身となり いやしい獄吏の訊問に答えつつ 奥深く隔てられ捕らわれている 訴えが理由(わけ)なくとも恥ずかしいことだが 時勢は私にみかたせぬようだ 真実はこちらにあるとはいえ 魂は屈辱にまみれ 志は挫(くじ)け 蹌踉(そうろう)の水に身を清めても もはや汚濁(おじょく)はぬぐいきれぬ

雁はなごやかに鳴きかわし 大きく羽ばたいて北に飛び 季節に従って移り行き 満ち足りて思いわずらうこともない ああ私は嘆きまた憤(いきどお)る まったく雁とはくらべられぬ 事態は願望とくい違い 囚人としてここに留めおかれている 人生が天命に左右されるものであれば 何を求めようと詮無いことだ 古人も言ったではないか 「善行はつむとも名声をえてはならぬ」と 時の流れに従いつつましく生きれば 後悔などしなくともすむ 万石君(ばんせきくん)父子は慎み深かったゆえ 親は安らかで繁栄を保ったのだ 世の中はごたごたと用務が多く わが心をひたすらに乱すが 安楽であっても警戒を怠らなければ 順調にまた正しく生き抜けよう

光り輝く霊芝(れいし)は 一年に三度花開く この私だけが何ゆえに 志を抱くも遂げられぬか 災禍(わざわい)に懲り本来に戻ろうと思うが 遅きを恐れ心ひそかに憂慮する 願わくは望みを将来に託し 名誉もなく非難もなく 薇(のえんどう)を山かげに摘み ざんばら髪のまま岩山に隠れ 口笛を長く吹き詩を長閑(のどか)に吟じ 天性を養い寿命を永く保ちたいものだ


嗟余薄?,少遭不造  哀?靡識,越在繦?
ああ、私は倖(しあわ)せうすく 幼い時に父を失い 憂い悲しむことを知らず 褓繦(むつき)の中にくるまっていた 

母兄鞠育,有慈無威  侍愛肆姐,不胴不師
母と兄とに養い育てられ 慈(いつく)しまれるも厳しさを知らず 愛に甘えて傲(おご)り高ぶり 訓(さと)されず師にもつかなかった

爰及冠帯,馮寵自放  抗心希古,任其所尚
成人して出仕するに及んでも 恩寵を頼んで恣(ほしいまま)に振舞い 心を高ぶらせて元古の世を慕い よしと思う道をひたすらに追い求めた 

託好老荘,賤物貴身  志在守撲,養素全眞
老荘の教えをこよなく愛し 外物をいやしんでおのれ一身を尊び 自然のまま飾(かざ)らぬ を志し 本質をつちかい真実を貫こうとした

曰余不敏,好善闇人  子玉之敗,?増惟塵
だが私は愚かであったため 善意ばかりで世事に疎く 子文(しぶん)が子玉(しぎょく)の失敗を責められたように 窮地に陥ったこともしばしばであった 
○子玉 子文は楚の宰相で、子玉を信頼して大任を委譲したが、子玉がその器でなかったため失敗した.楚の?賈(いこ)は子玉の人間を見抜き失敗を予言して、子文を責めた。

大人含弘,蔵垢懐恥  民之多僻,政不由己
大人物は度量が広く 清濁をあわせのむものだが 悪事を働く人民が多い時に 責任のない地位にありながら 

惟此褊心,顕明臧否  感悟思愆,怛若創?
狭い心を持ったばかりに さしでがましくも事の善悪を弁別した それを過失(あやまち)と悟った時には 打身のように胸は疼(うず)き 

欲寡其過,謗議沸騰  性不傷物,頻致怨憎
過失(あやまち)を犯すまいと努めても 非難の声はすでに沸きあがる 人を傷つけようとは思わなかったのに しきりに怨みと憎しみを招いてしまった 

昔慙柳恵,今愧孫登  内負宿心,外?良朋
昔の人では柳下恵(りゅうかけい)に面目なく 今の人では孫登(そんとう)に会わす顔なく 内にかえりみてはかねての志に背(そむ)き 外に対しては良友に恥ずかしく思う
○柳恵 柳下恵は春秋魯の賢人、3度仕えて3度退けられても怨みに思うことなく、直道を貫いた。○孫登 孫登は?康と同時代の隠者。中山の北に居り、?康も修業を志して共にいたが、?康にはものも言わず、?康が去るに際して「子(きみ)は才多く、識寡(すくな)し、今の世に免れること難たし」と言った。

仰慕厳鄭,楽道閑居  与世無営,神気晏如
 かくして厳君平(げんくんぺい)や鄭子真(ていししん)のように 道を楽しみひっそりと暮らし 世間との交際(まじわり)を絶ち 精神を安らかに保とうと考えた
○厳鄭 厳君平も鄭子真もともに漢代の隠者。出仕せず、身を修め性(さが)を保った。厳君平が成都で売卜し、必要な収入をあげると店をたたんで、『老子』を説いたという。


咨予不淑,嬰累多虞  匪降自天,寔由頑疎
ああ私がいたらぬばかりに 煩(わずら)わしい ことに巻きこまれ心配が絶えぬ それは天のなせる業ではなく 実にかたくなで疎漏(そろう)な性格(さが)による 

理弊患結,卒結囹圄  對答鄙訊,?此幽阻
道理は崩れ災禍(わざわい)は動かぬものとなって ついに囚獄(ひとや)につながれる身となり いやしい獄吏の訊問に答えつつ 奥深く隔てられ捕らわれている 

實恥訟冤,時不我與  雖曰義直,神辱志沮
澡身滄浪,豈云能補
訴えが理由(わけ)なくとも恥ずかしいことだが 時勢は私にみかたせぬようだ 真実はこちらにあるとはいえ 魂は屈辱にまみれ 志は挫(くじ)け 蹌踉(そうろう)の水に身を清めても もはや汚濁(おじょく)はぬぐいきれぬ


??鳴鳫,奮翼北遊  順時而動,得意忘憂
雁はなごやかに鳴きかわし 大きく羽ばたいて北に飛び 季節に従って移り行き 満ち足りて思いわずらうこともない

嗟我憤歎,曾莫能儔  事與願違,遘茲淹留
 ああ私は嘆きまた憤(いきどお)る まったく雁とはくらべられぬ 事態は願望とくい違い 囚人としてここに留めおかれている 

窮達有命,亦又何求  古人有言,善莫近名
人生が天命に左右されるものであれば 何を求めようと詮無いことだ 古人も言ったではないか 「善行はつむとも名声をえてはならぬ」と 

奉時恭默,咎悔不生  萬石周愼,安親保榮
時の流れに従いつつましく生きれば 後悔などしなくともすむ 万石君(ばんせきくん)父子は慎み深かったゆえ 親は安らかで繁栄を保ったのだ 
○萬石 万石君は漢の石奮(せきふん:生年未詳〜BC124年)のこと。石奮及びその子四人はともに二千石の大官となったので、景帝は「万石君父子」と呼んだという。ともに極めて謹直であって一門は栄えた。儒教の教え。

世務紛紜,祗攪予情  安衆必誡,乃終判貞
世の中はごたごたと用務が多く わが心をひたすらに乱すが 安楽であっても警戒を怠らなければ 順調にまた正しく生き抜けよう


煌煌靈芝,一年三秀  予獨何為,有志不就
光り輝く霊芝(れいし)は 一年に三度花開く この私だけが何ゆえに 志を抱くも遂げられぬか 

懲難思復,心焉内疚  庶勗将来,無馨無臭
災禍(わざわい)に懲り本来に戻ろうと思うが 戻れないもどかしさに恐れ心ひそかに憂慮する 願わくは望みを将来に託し 名誉もなく非難もなく 
○内疚 心の病。やろうとおもうができない○庶勗 勗:? 務める。努力する

采薇山阿,散髪厳岫  永嘯長吟,頤性養壽
薇(のえんどう)を山かげに摘み ざんばら髪のまま岩山に隠れ 口笛を長く吹き詩を長閑(のどか)に吟じ 天性を養い寿命を永く保ちたいものだ

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