紀頌之の中国詩文研究のサイト


  韓愈の生涯  

6-5 潮州へ (三度目嶺南)


潮州への道 元和一四(819)年《52歳》 

6- 5 潮州への道 (三度目の嶺南)   (1)
 元和十四年(819)、愈は五十二歳。長安の西方の鳳翔に法門寺という寺があり、そこの塔には釈尊の指の骨が一本、おさめてあった。三十年ごとに開帳があって、その年は天下無事、五穀豊穣と言い伝えられていたが、この年がちょうどその開張に当った。正月、憲宗は勅使を立てて仏骨を迎えさせ、内裏へ入れ、三日間留めおいてから、長安の諸寺へ廻すことを命じた。王公から庶民に至るまで、こぞって来世の至福を祈り、喜捨をしすぎて破産する者さえ出たという。
 韓愈は人々の狂態を見て、苦々しいことに思った。儒教の道を守ろうとする彼が、皇帝以下の仏教尊信を見過ごすことはできない。ただちに長文の建白書、「仏骨を論ずる表」(韓文三九)を書いて奉皇した。
 韓愈の意見の要点は、二つにまとめることができる。第一に、仏教が中国に入る以前、上古の帝王たちはすべて長命であった(神話時代をも含むので、長命は当然なのだが、韓愈の時代に神話などという観念はない)。しかるに漢の明帝の時(これも現在では否定されているが、韓愈の時代には史実と信じられていた)、仏法が伝来してからはどうか。明帝は在位わずかに十八年であった。六朝になり、仏教への信仰が広まるにつれ、王朝や帝王の寿命は短かくなっている。梁の武帝は三度も「捨身施仏」を行い、精進を守ったけれども、最後は反逆者のために餓え死にさせられ、やがて国も亡んだ。「此に由りてこれを観れば、仏の事ふるに足らざること、亦知る可し」。

 第二に、「夫れ仏は本夷狭の人、中国と言語通ぜず、衣服は製を殊にす。口に先王の法言を言はず、身に先王の法服を服せす、君臣の義、父子の情を知らず」。釈迦とはそのような人だから、かりに披が今の世に生きていて、中国に来朝したとすれば、陛下は一度の謁見を陽い、下賜品を与えて、木国へ送り返す処置をとられるだけのことであろう。まして彼は久しい前に死んでいる。その汚らわしい骨などを宮中に入れるとは、何事であるか。
 陛下かそのように仏を信するから、臣民もまた仏骨のあとを追って大騒ぎをするのだ。この骨を水火の中に投じ、迷信の根本を絶つべきである。「仏に如し霊有って、能く禍崇を作さば、凡有る侠咎は宜しく臣が身に加ふべし。上天、竪臨したまふ。臣、怨悔せじ」。

 この表を読んだ憲宗は、激怒した。宰相たちに回覧させた上で、韓愈を死刑にせよと命じた。宰相は裴度たちである。韓愈を弁護して言った。韓愈の言葉は、たしかに怪しからぬ。しかし、もとはといえば忠誠の心から出たものである。それを死刑にしては、将来、諌言をする者が出なくなるであろう。すると憲宗は答えた。朕が仏教を信仰しすぎるという意見だけなら、まだよい。仏教が中国に伝来してから帝王がみな短命になったとは、人臣たる者の口にすべき言葉だと思うか。
 憲宗もそうは言ったものの、結局は裴度たちの命乞いに動かされたと見えて、韓愈を潮州剌史に任ずることとした。潮州は今の油頭に近く、広東省の東端、福建省との境に近い海岸の町で、当時ではむろん未開野蛮の地とされていた。剌史は州の長官であるが、そのような土地の剌史に転出を命ぜられたとは、流罪を意味する。
 発令は正月十四日、罪人のことだから出発に猶予は許されぬ。護送の役人たちに囲まれて、彼はあわただしく巡かな旅に出で立つ。そのあとで、彼の家族も都から追放の処分を受け、ちょうど病中だった十二歳になる四番目の娘までが追い立てられた。家族は愈のあとを追い、同じ道を南へと旅することになる。
 道は長安から東南へ、盛唐の詩人王維がいとなんだ帽川荘のある藍田を過ぎれば、秦嶺の山深く分け入ることとなる。これから藍関・武関の二つの関を越えて、河南の平野へと下るのである。千メートル級の秦嶺の山々は雪をいただいて、行く手にそびえていた。
 その藍関にさしかかった時、韓愈のあとを追って来た人物があった。若くして死んだ十二郎老成の子、韓湘である。あるいは韓愈の家族とともにあとを追って来て、ここで追いついたのかと思われるが、伝説では藍関の雪の中で、湘がふらりと現れたことになっている。韓湘の事跡については神秘的な話が多く伝えられ、後世では韓湘子と呼ばれて仙人の仲間に入れられた上に、『韓湘子全伝』という小説までできた。この時の出会いについても、韓湘が以前にこのたびの配流を予言したという話も残っている。

 それはともかくとして、韓湘は(そして、たぶん韓愈の家族たちも)ここから韓愈に同行し、潮州に至った。
 途中の湘江に向って、韓愈は一首の詩を示した(韓文一〇、「左遷至藍關示姪孫湘」左遷せられて藍関に至り、姪孫湘に示す)。
   

左遷至藍關示姪孫湘
(左遷され潮州に赴く途中、長安東南の初めての関、藍田関に到着したので姪孫韓湘にこの詩を示す)
〔湘,愈姪十二郎之子,登長慶三年進士第。〕
姪孫は、兄弟の孫。湘は、その名。韓湘(794−未詳)は、韓愈の次兄韓介の孫、十二郎韓老成(未詳−803年)の子である。長慶三年(823年)進士になった。

一封朝奏九重天,夕貶潮州路八千。
朝に上奏文を一通、九重おく深い天子さまの宮居にたてまつった。すると夕べには八千里も路程のある潮州に流されることになった。

欲為聖朝除弊事,肯將衰朽惜殘年。
聖明な天子さまのために悪弊を除きたいと思えばこそで、衰えはてた身なのに、今さら老いぼれの年を惜しもうとは思わない。

雲秦嶺家何在,雪擁藍關馬不前
雲は秦嶺山脈にたなびき、わたしの家はどこにあるかもう分からない、雪は藍田関をうずめつくして、わたしの馬は進まない。

知汝遠來應有意,好收吾骨瘴江邊。
おまえがはるばるやって来たのはきっと何かのつもりあってのことだとわたしには分かる、それならわたしの骨を瘴気たちこめる大江のほとりでとり収めてくれればよいのだ。

(左遷されて藍關に至り姪孫【てつそん】湘に示す。)
〔湘は,愈の姪十二郎の子なり,長慶三年の進士に第し登るもの。〕
一封 朝に奏す 九重の天、夕べに潮州に貶せらる 路八千。
聖明の為に弊事を除かんと欲っし、肯えて衰朽を将って残年を惜しまんや。
雲は秦嶺に横たわって家何くにか在る、雪は藍蘭を擁して馬前まず。
知んぬ 汝が遠く来たる 応に意有るべし、好し 吾が骨を瘴江の辺に収めよ。
 朝、一通の意見書を朝廷にさし出したと思ったら、夕方にはもう、八千里の道を潮州まで流されることとなった。でも、聖明の天子のために、悪弊を除去してさしあげようと思ってしたことだ。
自分はもう老衰の身、いまさら余生が惜しいこともない。とは言うものの、いま秦嶺には雲がかかって、ふりかえるわが家のかたも見えぬ。藍関に雪がつもって、駒の歩みもとどこおりがちの、難儀な旅だ。湘よ、おまえが自分のあとをはるばる追って来たのは、自分へのあつい志があるからだろう。それならば、くれぐれも頼む。潮州を流れるという、療気の立ちこめる名もおそろしい湘江のほとりに、おまえの手で自分の骨を埋めてくれ。


 韓愈が配流の身となったのは、さきの陽山のときと合せて、これが二度目である。ただ、陽山は潮州より都に近く、罪もさほど重大なものではなかった。それに何よりも、当時の彼はまだ三十六歳、流罪とはなっても一時のつますきと考え、再起になお希望をつなぐことができた。しかし、今度はすでに老境に入った身に生じたことである。潮州ははるかな、癘痍の気に満ちた土地である上、死一等を減ぜられての流非だから、容易に赦免か得られるとは考えられない。彼はほんとうに、南海のはてに骨を埋める覚悟だったであろう。


 藍関を過ぎてさらに武関を越えようとする時、愈は吐蕃人と一所になった。聞けば、やはり湖南の地方へ流されて行く途中なのだという。愈はわが身に引きくらべて、七言絶句二首を作った。
全唐詩819-30 819-30の 《韓昌黎集巻十37 武關西逢配流吐蕃》(韓文一〇、武関の西にて
配流の吐蕃に逢ふ)。


 嗟爾戎人莫慘然,湖南地近保生全。
 我今罪重無歸望,直去長安路八千。

嵯 爾戎人 惨然たること莫かれ、湖南は地近うして生を保つこと全けん。
我 今 罪重うして帰る望み無し、直去長安路八千  直に長安を去ること路八千。

 ああ、吐蕃人よ、そう悲しそうな顔をするな。おまえの行く湖南は都から近く、生命も保全し
やすいであろう。自分はいま、重い罪ゆえに、都へ帰る希望もない。ひたすら長安から離れて行
く、その道のりは八千里。


 武関から阿南の平野へと下りかかる途中、層峰という小さな宿場まで来た時、四女の撃が死んだ。雪の山越えが病身の少女にこたえたために違いない。もちろん葬儀をいとなむ余裕もなく、道ばたに仮埋葬をして、一行はまた旅を続ける。後にまた書くが、愈が披女のために墓を作り、銘を書いてやったのは、四年後のことであった(韓文三五、女摯摘銘)。


 河南の平野を通りぬけて今の湖北省に入り、漢江を舟で下って襄陽から宜城に着いたのが二月二日。さらに現在の武漢市へ出て、湘江をさかのぼり、今では専漢線の鉄道が通る道に沿って広東省に入った時には、三月も半ばとなっていた。
 広東へ入ったばかりの所に楽昌という県があり、昌楽と呼ばれる急摺がある。韓愈はその土地の役人との対話の形で、「滝吏」(韓文六)と題する長い五言古詩を作った。
 詩は急流を下る舟から、愈が土地の役人に発する質問によって始まる。潮州まで、あと何里ぐらいあるか。何日ぐらいかかるだろうか。土地の様子はどんなだろう。すると役人は、笑って答える。
つまらぬことをお尋ねになるものではない。

嶺南行(4) 瀧吏
南行逾六旬,始下昌樂瀧。
南へ南へと行くこと六十日あまりくると、やっと昌楽滝を下ることになった。
險惡不可?,船石相舂撞。
その危険さは口にもいいあらわせないほど、船は岩石にぶつかりあってくだる。
往問瀧頭吏,潮州尚幾里。
急流を下る途中で、わざわざ瀧のほとりの役人に聞いてみた、「これから、私の任地である潮州までまだどのぐらいきょりがあるのでしょうか。」と
行當何時到,土風復何似。
「それから、わたしたちが任地に着くのはいつことになるだろうか、南蛮の異民族の風習があると聞いたが、土地の風俗はどんなだね。」と。
瀧吏垂手笑,官何問之愚。
瀧川役人はあいさつもせずに笑い出した、都の高官の御主人は何とおろかなことをお聞きになりますね。
譬官居京邑,何由知東?。
御主人がみやこにいらっしゃるとき、南蛮の東呉の地方を御存知ではなかったでしょう。

東?遊宦?,官知自有由。
東呉は地方官として赴任する土地だから、ご主人が御存知になるおりももちろんあったのではないでしょうか。
潮州底處所,有罪乃竄流。
だが潮州とはどんなところなのでしょうか、わたしは罪あるものとしてはじめてそこに流されるのです。
儂幸無負犯,何由到而知。
わたしは幸いに何の法にそむいたり、罪もおかすことなどなかったもので、どうしてそんなところへ行くことがありましょう。したがってそこを知るはずがありません。
官今行自到,那遽妄問為。
御主人はこれから自分でその地においでになるんでしょうから、ここでみだりにお聞きになることなど及ばないのではないでしょうか。
不虞卒見困,汗出愧且駭。
まったく思いがけなくもやりこめられたので、冷汗を流し、恥じ入り、且つ、驚きもしたのである。
吏曰聊戲官,儂嘗使往罷。
瀧川の役人は気の毒に思ったのか言う、「ええちょっとご主人をからかってみたんですよ、じつはわたしは或る時、役所の使いで行ったことがあるんです。」
嶺南大抵同,官去道苦遼。
五嶺山脈を越えるとその南の土地はたいてい同じ様な感じであります、ご主人のいらっしゃるところまで、一旦滝川を下って廣州まで南下し、今度は東に循州という大きな州を横切って潮州にはいります。はいってからもまだ随分道のりがあるのでございます。
下此三千里,有州始名潮。
ここからいうと三千里ほどになり、それだけ行って初めてそこにやっと潮州という名の州があるのです。
惡溪瘴毒聚,雷電常洶洶。
途中、谷にはマラリヤやデング熱やツツガムシ病など熱帯地方の風土病がこもり、突然の雷と稲妻がたえずさわざ立てています。
?魚大於船,牙眼怖殺儂。
水中には?魚(ワニ)がいて、その体は船よりも大きく、その牙や眼玉は恐ろしいので、私はただ恐ろしくて腰を抜かしました。
州南數十里,有海無天地。
潮州の南方数十里には、海ばかりがあって天地がありません。
颶風有時作,掀簸真差事。
大あらしがときたま吹きおこることがあると、海を高くまきあげて、それこそ口で表現ができないくらいひどいものでございます。
聖人於天下,於物無不容。
天子さまは天下じゅうのものに対して、どんなものでも包容なさらないものはございません。
比聞此州囚,亦在生還儂。
近ごろ聞くところでは此の州の流人でも、生きて還るやつがあるということです。
官無嫌此州,固罪人所徙。
御主人は比の州をおきらいになってはなりません、もとより、そここそは罪人として流されるべき土地ということなのでございます。
官當明時來,事不待?委。
御主人は乱世ならともかく、今の時代、政治が公明に行われているということではありませんか、その事情はおわかりのとおり、ここで詳しくいうまでもないでしょう。
官不自謹慎,宜即引分往。
御主人は自分でその言を慎まなかったのだから、さっさと責任を取ってお行きなさるがよろしかろう。
胡為此水邊,神色久?慌。
どうしてこの川辺のようなところで、長らく気のぬけたような顔で、締まらない体でいらっしゃるのですか。
缸大??小,所任自有宜。
缸は大きく?と?とは小さくで、それぞれ任務としてそのカメにはそれ相当のところがあるというものです。
官何不自量,滿溢以取斯。
御主人が自分の許容量がどれだけのものか、その分量をはからず、あふれ出してしまったあげくこんなことを招いたとはいったいどうしたことですか。

工農雖小人,事業各有守。
工人や農民は庶民ではございますが、仕事としてめいめい自分のすべきことをしっかりやっております。
不知官在朝,有益國家不。
そうはいっても、御主人は朝廷のお勤めで、国家のためになることをなさったのでしょうか。
得無虱其間,不武亦不文。
朝廷のおえら方の間にシラミのように悪徳官吏としてまざれこみ、武芸もなければ文才もないという。
仁義飭其躬,巧姦敗群倫。
仁義で自分のうわべの学識で飾り、言葉巧みに媚びて自分ひとり世渡りをうまくやり、ついてくる仲間をめちゃくちゃにしたのではございますまいかね。
叩頭謝吏言,始慚今更羞。
私は、あたまを地につけてこの瀧川の役人にお礼をいった、最初からおはずかしいと思っていましたが今やまた一そうはじ入ってしまいました。
?官二十餘,國恩並未酬。
私は、あたまを地につけてこの瀧川の役人にお礼をいった、最初からおはずかしいと思っていましたが今やまた一そうはじ入ってしまいました。


(瀧吏)
南行 六旬を逾え,始めて昌樂瀧を下る。
險惡 ?【たと】う可からず,船と石と相い舂撞【しょうとう】す。
往きて瀧頭の吏に問うらく,潮州 尚お幾ばく里ぞ。
行きて當に何れの時にか到るべき,土風 復た何似【いかん】。瀧吏【ろうり】手を垂れて笑い,官 何んぞ問うことの愚【おろか】なるや。
譬【たと】えば官の京邑【きょうゆう】に居るときは,何に由ってか東?を知らん。
東?は遊宦の?なり,官の知ること自ら由し有り。
潮州は底【なん】の處所【しょしょ】ぞ,罪有るもの乃ち竄流【ざんりゅう】さる。
儂【われ】幸にして負犯【ふはん】無し,何に由って到って知らん。
官 今行いて自ら到らん,那ぞ遽【にわか】に妄【みだり】に問うことを為さんと。
虞【はから】ざりき卒【にわか】に見困しめられんとは,汗出でて愧じ且つ駭【おどろ】く。
吏曰く聊【いささ】か戲官に【たわむ】る,儂【われ】嘗って使いして往いて罷【や】む。
嶺南 大抵同じ,官の去る道は苦【はなは】だ遼【はるか】なり。
此こを下ること三千里,州有り始めて潮と名づく。
惡溪 瘴毒聚り,雷電 常に洶洶たり。
?魚【がくぎょ】は船より大に,牙眼【ががん】儂【われ】を怖殺【ふさつ】す。
州南 數十里,海有りて天地無し。
颶風【ぐふう】時有りて作【おこ】り,掀簸【けんぱ】して真に差事なり。
聖人 天下に於ける,物に於いて容れずということ無し。
比【このご】ろ聞く此の州の囚も,亦た生きて還える儂【もの】も在るなりと。
官 此の州を嫌うこと無かれ、固【まこと】に罪人の徙【うつ】さるる所なり。
官 明時に当たって来たる、事 説くことの委【つまび】らかなるを待たず
官 自ずから謹慎せざりしかば、宜しく即ち分を引きて往くべし。
胡【なん】為れぞ此の水辺に、神色 久しく?慌【とうこう】たるや。
缸は大にして??【へいえい】は小なり,任ずる所自ら宜しきこと有り。
官 何ぞ自ら量らず,滿溢【まんいつ】以て斯れを取るや。
工農は小人なりと雖も,事業 各おの守ること有り。
知らず 官 朝に在りて,國家に益すること有りや不しや。
其の間に虱【しらみ】で得るや無しか,武あらずか亦た文あらずか。
仁義もて其の躬を飭【かざ】りしか,巧姦【こうかん】もて群倫【ぐんりん】を敗りしか。
頭を叩きて吏に謝して言う,始めて慚じて 今 更に羞ず。
官を?ること二十餘,國恩 並らびに 未だ酬いず。


 ここから川を下って三千里進むと、ようやく潮と名づける州がある。おそろしい谷川に岸痍の毒気がむらがり、雷がいつもおどろおどろと鳴っている。船より大きいワニザメがいて、ふるえあがらせるような牙と眼をむき出す。州の南方は数十里にわたって、ただ一面の海があるだけ、天も地も見えない。そこに大風がときどき起って、ふるいを動かすように波立たせるありさまは、まったく大変なことだ。……

そんな場所でも、聖天子の治める土地の内には違いない。流された罪人の中には、生きて帰れる者もあるという。あなたも罪を犯したからは、文句を言わすに潮州へ行きなさい。そう告げてから、
役人はさらに言葉を続ける。

 あなたはわが身を慎ます、罪を犯したのだから、その本分に従って配所へ行くがよい。なにもこの川べりで、いつまでもがっかりした顔つきをしていることはなかろう。甕は大きく、瓶は小さい。それぞれ、水を入れる適量があるものだ。あなたは自分の適量を考えす、水をあふれさせてこんな目にあったのではないか。工人や農夫は身分の低い者だが、それぞれに本分とする仕事を持っている。いったいあなたは朝廷にいたとき、国家のお役に立ったのか。しらみのように朝廷に巣くって、武でもなく文でもなく、仁義でわが身を飾りながら、陰謀をめぐらして同僚たちを害することがなかったといえるか。……

 この言葉に対し、愈は叩頭して答えた。そう言われると、査すかしい。

 二十年あまりも役人ぐらしをしてきたが、国家の恩にはいっこうに報いていない。総じてあなたに叱られた点は、たしかに、かなりそのようなことがあったと認める。斬罪にもあわず傑にもならずにすんだのは、朝廷のご恩と悟らずにはいられない。潮州がいくら遠くても、住めないほどひどい所だとしても、自分にとってはもう十分にありがたいことなのだ。これをめでたいことと思いこまなくてはなるまい。



 昌楽の急流で、愈が土地の小役人に道をたすねたのは、事実であったかもしれない。しかし、小役人の言葉の、特に最後の部分は、架空の対話と見てよかろう。愈はこの形をとって、彼の反省を
記したのである。旅を続けるにつれて、「聖明のために弊事を除く」といった見得を切る態度は、しだいに薄れていた。

 楽昌を出れば、ほどなく曲江に着く。韓愈にとっては思い出の地である。四十一年前、兄の韓会が罪を得て流されたのが、この曲江であった。十歳の韓愈も兄に随って、わずかの期間ではあるがこの地に住んだ。だがそれも、おぼろな記憶の中に沈んでいる。韓愈は七言絶句二首を作って感慨を記した。
(韓文一〇、姶興の江口に過る感懐)
過始興江口感懷 (始興江口を過ぎての感懷)
〔大?十四年,起居舍人韓會以罪貶韶刺史,愈隨會而遷,時年十?。至是貶潮州,道過始興,有感而作。〕
〔韓愈の兄韓會は大?十に年起居舍人から罪によって韶州刺史に貶められ,韓愈は大?十四年,韓會に隨って左遷の任地行ったのである,その時歳は十?であった。是に至って潮州に貶られ,道を始興を過ぎる,感有っての作。(i―23)〕

憶作兒童隨伯氏,南來今只一身存。  
始興江口に来て、韶州というところを思い出してみると子供のころ長兄にしたがってこの地に来たのである。今またこうして南に遣って来たのは、その頃のものは誰もいなくてわたし一人だけになっている。
目前百口還相逐,舊事無人可共論。
こうして私のこの旅のお供をして面前を行ったり来たり、旅を一緒にする人が大勢いるけれども、昔のことを語り合えるものは誰もいないのだ。

(始興江口を過ぎての感懷)
〔大?十四年,起居舍人韓會は罪を以て貶められ韶刺史とし,愈は會に隨いて遷とす,時に年十?なり。是に至て潮州に貶れ,道は始興を過ぎて,感有って作る。〕
憶う 兒童たりし作り伯氏に隨いしを,南に來って今 只だ一身存するのみ。  
目前の百口 還た相い逐えども,舊事 人 共に論ず可きもの 無し。

 子供のころ、兄についてここへ来たことを思い出す。だが今は、南へ来たこの身だけが生きてい
る。目の前では家族たちが、やはり連れ立って旅するのだが、あのころのことを共に語りあえる者
は、一人もない。
 舟は北江の流れを下って、現在の広州に出る。風景はいよいよ索漠と、かつ異様になってくる。彼は五言古詩二首を作って旅路のありさまを描いたが(韓文六、曾江の口に宿りて姪孫湘に示す)、その第一首には、日暮れになって民家に泊ろうとすると、どの家も水上に建っており、水が扉の中ほどまでひたした家もあったと述べている。

そして第二首には言う。
宿曾江口示姪孫湘,二首之一
(この詩は潮州に赴く途中、曾江の合流点近くに投宿し洪水氾濫のようすを見るに及んで、賦
して従行の姪孫韓湘に示したもの。二首の一)

〔湘,字北渚,老成之子,愈兄?之孫。此赴潮州作也。〕
〔姪孫湘は、韓湘、字は北渚、老成の子、韓愈の兄韓?【かんえん】の孫である。この詩は潮
州に赴く途中で作ったものである。〕

雲昏水奔流,天水?相圍。
雲は暗く垂れこみ河口の洪水は凄まじく奔流している。天から降る雨水量は河水と一緒になっ
て氾濫して宅地をとりかこんでいる。

三江滅無口,其誰識涯圻。
ここで合流する三江はそれぞれの河口は全く消え果てなくなっってしまう。何処が岸なのか、
誰であっても全く分からないほどである。

暮宿投民村,高處水半扉。
暮れかかってきてここにきて、これ以上は動きも取れず、宿を探して、民村を探し当て、そこ
に行き着くと、そこは随分高い所にあるのに洪水は門扉の中ほどにも及んでいる。

犬??上屋,不復走與飛。
そこに飼っている犬と鶏は難を避けてみんな屋根の上に上がっている。走り回ることも飛び上
がることもできないで困ったものである。


?舟入其家,暝聞屋中唏。
やがて船をまわし、棹さしてその家に入ることが出来たが、夕暮れ時の暗い中で、その家の隅
の方で悲しげに人の泣く声が聞こえてくる。

問知?常然,哀此為生微。
どうしたのかと様子を尋ねてみると、こういう洪水は毎年のようにあることで、この悲しい様
な出来事は、この地方住民の生活状態を極めて貧困にするもので気の毒な事としか思えない。

海風吹寒晴,波揚?星輝。
そうしている間に今度は海からの強風が吹き寄せ、この寒空の晴れた部分からの薄明かりで、
波しぶきが上がったのが星空の輝く星があつまったように見えてくる。

仰視北斗高,不知路所歸。
仰ぎよくよく見つめてみると高い所にあるのが長安の都を示す北斗七星だというものの全くわ
かりはしないので、これではゆくべき道もわからないものが、帰るべき道までもわからないと
いう痛嘆することしかないというものだ。



曾江の口に宿し、姪孫湘に示す,二首の一
〔湘は,字を北渚とし,老成の子であり,愈の兄?【えん】の孫である。此れは潮州に赴むくときの作なり。〕
雲昏くして 水 流れを奔り,天水 ?【よう】として相い圍む。
三江 滅して口無く,其れ誰か涯圻【がいき】を識らむ。
暮れに民村に投じて宿し,高處 水半ばにして扉ず。
犬? ?に屋に上り,復た走と飛とをならず。

舟に?【さお】さして 其の家に入り,暝【くれ】て屋中に唏【な】くを聞く。
問うて知るは ? 常然たるを,此れを哀むは 生を為すの微なるを。
海風 寒晴に吹き,波揚 星輝に?る。
仰ぎて 北斗の高きを視,路 歸える所を知らず。


宿曾江口示姪孫湘,二首之二
〔湘,字北渚,老成之子,愈兄?之孫。此赴潮州作也。〕
(この詩は潮州に赴く途中、曾江の合流点近くに投宿し洪水氾濫のようすを見るに及んで、賦
して従行の姪孫韓湘に示したもの。二首の二)

舟行忘故道,屈曲高林間。
今まで通ってきた街道を離れて舟に乗っていくと両岸に高い林の間を折れ曲がって進んでゆ
く。

林間無所有,奔流但潺潺。
よく見ると林間には人が住んでいないようだけれど、林間の澗水からさらさらと小川の水が、
舟が進むいきおいのはげしい流れに注ぎ込んでいる。

嗟我亦拙謀,致身落南蠻。
こうした景色を見るにつけても、ああ、私がしでかした「佛骨を論ずる表」は下手を打ってし
まったことだろう、その結果が自分の身に降りかかって、こうした南蛮の地に貶められたの
だ。

茫然失所詣,無路何能還。
詣でるところのなくなってしまった今の自分は漠然として、つかみどころのない状態であり、
こうして進んでいるけれど長安に帰る道がなくどうして又帰ることが出来るのだろうか。


曾江の口に宿し、姪孫湘に示す,二首の一
〔湘は,字を北渚とし,老成の子であり,愈の兄?【えん】の孫である。此れは潮州に赴むくときの作なり。〕
舟は行く 故ある道を忘れて,屈曲せる 高林の間。
林間は所有する無し,奔流 但だ潺潺とす。
嗟あ我は亦た拙謀し,身 南蠻に落つるに致す。
茫然として 所詣を失い,何ぞ能く還る路無し。

 舟旅は、すでに定まった道筋もない。高い林の中を、屈曲しつつ進む。林の中には何もない。た
だ波だって去る奔流ばかり。ああ、自分はやはり人生の計劃を立てるのが下于で、わが身を南蛮ま
で落してしまった。茫然として、行く先も見定められぬ。道筋とてないのだから、いつになったら
都へ帰れることだろうか。


818年元和十三年(三月勅命で「平淮西碑」を著わす。李愬が不平であったため、詔して段文昌に重ねて文を撰して石にきざましめた。)

・碑誌 平淮西碑
・碑誌 唐故相權公墓碑
・碑誌 進撰平淮西碑文表
(詩)
・讀皇甫G公安園池詩書其後,二首之一【案:一本為一首。】
・讀皇甫G公安園池詩書其後,二首之二【案:一本為一首。】
・送李員外院長分司東都
・獨釣,四首之一【獨酌,四首之一】
・獨釣,四首之二【獨酌,四首之二】
・獨釣,四首之三【獨酌,四首之三】
・獨釣,四首之四【獨酌,四首之四】

819年元和十四年(正月、憲宗佛骨を迎える。公極諌する。三月、潮州刺史に貶遷される。?魚の害を救う。十月、袁州刺史に量移される。)

・書説 論佛骨表
・書説 去?自刑部侍郎以罪貶潮州刺史乘驛赴任其後家亦譴逐小女道死殯之層峰驛旁山下蒙恩還朝過其墓留題驛梁
・書説 潮州刺史謝上表
(詩)
・書説 鰐魚文
・琴操十首

琴操十首:將歸操【案:孔子之趙,聞殺鳴犢作。(趙殺鳴犢,孔子臨河,歎而作歌曰:「秋之水兮風揚波,舟楫顛倒更相加,歸來歸來胡為斯?」)】


琴操十首:猗蘭操【案:孔子傷不逢時作。(〈古琴操〉云:「習習谷風,以陰以雨。之子于歸,遠送于野。何彼蒼天,不得其所。逍遙九州,無有定處。世人闇蔽,不知賢者。年紀逝邁,一身將老。」)】


琴操十首:龜山操【案:孔子以季桓子受齊女樂,諫不從,望龜山而作。(龜山在太山博縣。〈古琴操〉云:「予欲望魯兮,龜山蔽之,手無斧柯,奈龜山何?」】


琴操十首:越裳操【案:周公作。(〈古琴操〉云:「於戲嗟嗟,非旦之力,乃文王之コ。」)】


琴操十首:拘幽操【案:文王?里作。(〈古琴操〉云:「殷道溷溷,浸濁煩兮。朱紫相合,不別分兮。迷亂聲色,信讒言兮。炎炎之虐,使我愆兮。幽閉牢?,由其言兮。遘我四人,憂勤勤兮。」)】


琴操十首:岐山操【案:周公為太王作。(本詞云:「狄戎侵兮土地遷移,邦邑適於岐山。烝民不憂兮誰者知,嗟嗟奈何兮,予命遭斯。」)】


琴操十首:履霜操【案:尹吉甫子伯奇無罪,為後母譖而見逐,自傷作。(本詞云:「朝履霜兮採晨寒,考不明其心兮信讒言。孤恩別離兮摧肺肝,何辜皇天兮遭斯愆。痛歿不同兮恩有偏,誰能流顧兮知我冤。)】


琴操十首:雉朝飛操【案:牧犢子七十無妻【沐?子七十無妻】,見雉雙飛,感之而作。(本詞云:「雉朝飛兮鳴相和,雌雄群遊兮山之阿。我獨何命兮未有家,時將暮兮可奈何,嗟嗟暮兮可奈何。」)】


琴操十首:別鵠操【案:商陵穆子,娶妻五年無子,父母欲其改娶,其妻聞之,中夜悲嘯,穆子感之而作。(本詞云:「將乖比翼隔天端,山川悠遠路漫漫,攬衾不寐食忘?。)】


琴操十首:殘形操【案:曾子夢見一貍,不見其首作。】


・華山女
・路傍?【案:元和十四年出為潮州作。】
・食曲河驛【案:驛在商ケ間。】【案:元和十四年出為潮州作。】
・過南陽【案:元和十四年出為潮州作。】
・瀧吏【案:元和十四年出為潮州作。】
・贈別元十八協律,六首

贈別元十八協律,六首之一【案:元十八集?,見《白樂天集》。桂林伯,桂管觀察使裴行立也。】


贈別元十八協律,六首之二【案:元十八集?,見《白樂天集》。桂林伯,桂管觀察使裴行立也。】


贈別元十八協律,六首之三【案:元十八集?,見《白樂天集》。桂林伯,桂管觀察使裴行立也。】


贈別元十八協律,六首之四【案:元十八集?,見《白樂天集》。桂林伯,桂管觀察使裴行立也。】


贈別元十八協律,六首之五【案:元十八集?,見《白樂天集》。桂林伯,桂管觀察使裴行立也。】


贈別元十八協律,六首之六【案:元十八集?,見《白樂天集》。桂林伯,桂管觀察使裴行立也。】


・初南食貽元十八協律
・宿曾江口示姪孫湘,二首之一【案:湘,字北渚,老成之子,愈兄?之孫。此赴潮州作也。】
・宿曾江口示姪孫湘,二首之二【案:湘,字北渚,老成之子,愈兄?之孫。此赴潮州作也。】
・答柳柳州食蝦蟆
・別趙子【案:趙子名コ,潮州人。愈刺潮,コ攝海陽尉,督州學生徒,愈移袁州,欲與?,不可,詩以別之。】
・題楚昭王廟

【案:襄州宜城縣驛東北有井,傳是王井,井東北數十?,有昭王廟。】


・元日酬蔡州馬十二尚書去年蔡州元日見寄之什
・左遷至藍關示姪孫湘【案:湘,愈姪十二郎之子,登長慶三年進士第。】
・武關西逢配流吐蕃【案:謫潮州時途中作。】
・次ケ州界

・題臨瀧寺

?次宣溪辱韶州張端公使君惠書敘別酬以?句二章,二首之一【?次宣溪,二首之一】


?次宣溪辱韶州張端公使君惠書敘別酬以?句二章,二首之二【?次宣溪,二首之二】


過始興江口感懷【案:大?十四年,起居舍人韓會以罪貶韶刺史,愈隨會而遷,時年十?。至是貶潮州,道過始興,有感而作。】
從潮州量移袁州,張韶州端公以詩相賀,因酬之【案:時憲宗元和十四年十月。】







   ページの先頭へ  


15の漢詩総合サイト
















漢文委員会


紀 頌之