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上代・漢の詩人




上代・漢の詩人




       〜前1766 
夏      前2205〜前1766
殷〔商〕  【詩】『詩經』雅・頌等
西 周   前1020〜前 770

■ 東周春秋戦国 前770〜前221
ID 詩人名  / 事項 よみかな 作品名
【詩】『詩經』雅・頌等
管仲・鮑叔  「詩経」
  01 孔子   (前551〜479)
 本名は孔丘。字は仲尼。魯の昌平郷陬邑の人。父母は不詳。『史記』によると、父は叔梁?、母は顔氏。魯に仕え、委吏・司職吏を歴任した。南宮敬叔の推薦で周の都に赴き、礼について学んだ。このとき老子と対談したともいう。 論語
  02 孟子
前372年 -前289
 本名は孟軻。字は子輿、または子車、子居ともいう。鄒の人。子思の門人に学び、孔子の学問をきわめた。  
  03 屈原 (くつげん) 前340頃〜前278
中国、戦国時代の楚(そ)の政治家・詩人。名は平。原は字(あざな)。楚の王族に生まれ、懐王に仕え内政・外交に活躍したが、汨羅(べきら)に身を投じたという。 「楚辞」に約20編
の詩がある。「離
騒」「九歌」「天問」
「九章」
  04 伯夷 (はくい)   未詳
伯夷・叔斉  孤竹国の王子。伯夷は父の意を察して弟の叔斉に譲位して出奔した。民衆の存在を無視した行為はあったが、孔子・孟子・司馬遷らからは至徳の賢人として絶賛された。 采薇歌
  05 宋玉 (そうぎょく)   未詳
中国、戦国時代、楚(そ)の文人。楚王に仕え、のち落魄の生涯を送ったといわれるが、生没年・伝記ともに未詳。屈原の弟子とされる。 「九弁」(「楚辞章
句」所収)「高唐
賦」「神女賦」「対
楚王問」
  06 荊軻 (けいか) (  未詳-前227)
 中国、戦国時代の刺客。衛の人。燕(えん)の太子丹の命で、秦の亡命将軍樊於期(はんおき)の首と燕の地図を携えて秦の都咸陽に赴き、秦始皇帝の暗殺をはかったが失敗して殺された。 易水歌
 呉越の戦い    西施ものがたり





■  秦 前漢  
秦    前221〜前206   始皇帝   万里の長城増築
鴻門の会: 前206年
 咸陽占領に関して項羽と劉邦の咸陽城外講和会議。懐王はかって咸陽を陥落させた者を関中王とすると宣していた。咸陽を開城させた劉邦は項羽の接近に対して関門を閉じた。交戦直前、張良・項伯の周旋で鴻門での和睦となる。途中、項羽の軍師の范増は劉邦暗殺を謀ったが、項伯・樊?・張良の機転で果たせず、散会後に項羽を「豎子、ともに図るに足りず」と罵り、これが後の項羽と范増の不和の最初になった。
10
 
項籍(項羽)  (こうそく・こうう) 前232〜前202
中国、秦末の武将。宿遷(江蘇省)の人。名は籍。叔父項梁とともに兵を挙げ、漢の高祖(劉邦)と協力して秦を倒し、楚王となった。のち、劉邦と天下を争うが、垓下(がいか)の戦いに敗れ、烏江(うこう)で自殺。謡曲。五番目物。唐の烏江の野辺の草刈り男の前に、項羽の霊が現れ、回向を頼み、激戦の模様を語る。 垓下歌
11 虞美人 (ぐびじん) 未詳〜前202
秦末から楚漢戦争期の女性。項羽の愛人。正確な名前ははっきりしておらず、「虞」は姓である(『漢書』)とも名である(『史記』)ともいわれ、「美人」も後宮での役職名であるともその容姿を表現したものであるともいわれる。 虞美人歌 (漢兵
已略地)
前漢  前202〜 8   前154 呉蘇七国の乱
12 王昭君   生没年未詳
中国、前漢の元帝の宮女。名は(しょう)。昭君は字(あざな)。のちに明妃(めいひ)・明君ともよばれる。匈奴との和親政策のため呼韓邪単于に嫁がせられた。その哀話は、戯曲「漢宮秋」などや、人物画「明妃出塞図」の題材となった。   王昭君ものがたり 昭君怨 王昭君
13 高祖(劉邦)  (こうそ・りゅうほう) 前247〜前195
前漢の初代皇帝。在位、前206〜前195。字(あざな)は季。廟号(びょうごう)は高祖。沛(はい)県(江蘇省)の人。始皇帝没後の前209年、陳勝・呉広の乱を機に挙兵。前202年、項羽を垓下の戦いに破って天下を統一、長安を都として漢朝を創始 大風歌
14 枚乘( ばいじよう ).   220-前140
枚乘 ( ばいじよう ).枚乗(?-前140)。漢の時代、淮陰(わいいん=現在の江蘇省淮陰県東南)の人。字(あざな)は叔。初め呉王劉助Aに仕え、上書して諌めたが納れられず、去って孝王劉武に仕えた  
15 東方朔  (とうほう さく) 前154- 前92年
東方 朔(とうほう さく、紀元前154年-紀元前92年)は、前漢・武帝時代の政治家。字は曼倩。平原郡厭次県(現在の山東省陵県神頭鎮、もしくは山東省恵民県)の人。後の歴史書などには、彼の知略知己に富む様子がしだいに神格化され始め、ついには下界に住む仙人のように描かれることとなった。詩仙として有名な李白は彼のことを「世人不識東方朔、大?金門是謫仙」といって彼を褒め称えた。  
16 漢-武帝(劉徹)  りゅうてつ 前156〜前87
前漢第7代の皇帝。在位、前141〜前87。廟号(びょうごう)、世宗。名は劉徹。高祖劉邦の曾孫。儒教を公認し、中央集権体制を強化。外征を行って領域を拡大し、東西交渉を盛んにした。 秋風辭
17 劉細君  (りゅうさいくん ) 生没年不明:
 字:前漢・武帝の時の江都王・劉建の娘。前105年、公主として西域の烏孫国(天山山脈の北)の王に嫁がされ、「悲愁歌」を作って身の悲しさを述べた。烏孫公主とも言う。王昭君の事と共に有名。 悲愁歌
18 李 陵  (りりょう) 未詳- 前74年
中国前漢代の軍人。匈奴を相手に勇戦しながら敵に寝返ったと誤解された悲運の将軍。司馬遷が宮刑に処される原因を作った人物である。字は少卿。 與蘇武詩 別歌 
與蘇武詩其二 ;詠
懷詩 其十
19 蘇武  (そぶ) 前140〜前60
中国、前漢の武将。杜陵(とりょう)(陝西(せんせい)省)の人。字(あざな)は子卿(しけい)。匈奴(きょうど)に使節として行き、19年間抑留されたが、節を守りとおして帰国した。 詩(留別妻一首) 
  留別妻一首  
別詩



 ;   8〜23
新(8年 - 23年)…外戚の王莽が前漢皇帝から帝位を簒奪し建国。
ID 詩人名  / 事項 よみかな 作品名
21 卓文君 (たくぶんくん) 未詳
前漢の蜀(しよく)の富豪の娘。文人の司馬相如(しようじよ)と知り合い、成都に駆け落ちして辛苦をともにした。のち相如が心変わりした際、「白頭吟」を作って決別の意を示した。後世、戯曲などの題材とされる。 白頭吟(皚如山上
雪)
22 楊雄 (ようゆう) 前53〜 18年
 蜀郡成都の出身。字は子雲。40余歳で上京して大司馬王音に文才を認められ、成帝に招されて黄門侍郎とされた。司馬相如の賦を尊崇して自身も名手と謳われたが、やがて文学を捨てて修学して多くの著作を行ない、『楊子法言』は『論語』に、『太玄経』は『易経』に倣って作られた。好学博識だが吃音で論・議を好まず、言説に対する批判には著述で応じた。王莽の簒奪後、門弟が符命の禁を破ったために自殺を図って果たせず、不問とされて大夫に直された。  
23 班彪 (はんひょう)  A3〜54
 扶風郡安陵(陝西省咸陽市区)の出身。字は叔皮。名儒として知られ、王莽の敗死で長安が混乱すると安定に移ったが、隗囂に失望して竇融の幕下に加わると師友の礼を執られ、その章奏は光武帝からも嘉された。『史記』の欠を補うと称して『史記後伝』数十篇を著し、未完に終わったこの書は、後の『漢書』の基礎となった。班彪(はんひょう、3年-54年)、字は叔皮。後漢の歴史家。祖父の班况は成帝の時代に越騎校尉に任じられて、父である班稚は哀帝の時代広平太守に任じられた。また子に班固、班超、班昭がいる。
班彪は扶風安陵(現在の陝西省咸陽市)の儒家の子として生まれる。前漢末に戦火を避け竇融の庇護を受けていた。その後光武帝による後漢政権建設に功績があったことから徐県令に任じられた。しかし間もなく病気を理由に官を辞し、その後は『史記』の補充を行い『史記後伝』65編を編集、後に子である班固による『漢書』成立の基礎を築いた。『後漢書』に列伝が掲載されている。
 




■ 後漢
 後漢(ごかん、25年 -220年)は中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は?陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢と紛らわしいので、現在では東漢と言うことが多くなってきた(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。
ID 詩人名  / 事項 よみかな 作品名

 後漢  25〜220
31 李延年(りえんねん)  (生没年不詳)
前漢の人。漢の武帝に仕えた楽人。妹は武帝の寵姫李夫人だが彼女の死後李延年への寵愛も衰え、武帝は李延年や兄弟、宗族を誅殺した。 歌(北方有佳
人)
 黄巾の乱 184 〜 185頃
  三国志の歴史が幕開けしたきっかけは、中平元年(184)に突如勃発した黄巾の乱でした。約四百年あまりもの長きにわたり中国の大地を支配してきた漢王朝、しかしこの時代には、宦官による専制政治、民衆に課せられる重税、加えて旱魃(かんばつ)・疫病・凶作といった天変地異が重なって、民衆は苦しみのどん底をさまよっていました。

 太平道の教祖・張角は、ここに目を付け、各地の流民を呼び集めて黄巾賊を結成しました。「蒼天すでに死し、黄天まさに立つべし」、後漢王朝の時代は終わり今こそ我ら民衆が立ち上がる時だ、張角はこう主張したのです。このスローガンは苦悩の日々を過ごしてきた民衆の間で爆発的なヒットとなり、中国各地で黄巾の乱が勃発。瞬く間に巨大な勢力になっていきました。

  後漢打倒のために立ち上がった黄巾賊、しかしながら、彼等の当初の目的はいつの間にか消え失せていったのです。気が付けば、彼等は各地の町村を襲って強盗略奪を繰り返す暴徒となっていました。人々は更なる事態の悪化に混乱をきたし、中国の大地に大いなる暗雲が垂れ込んだのです。
32 張角(ちょうかく)  〜184
中国、後漢末の道士。鉅鹿(きょろく)(河北省)の人。太平道の教祖で冀州鉅鹿(現在の河北省平郷県)の人。黄老の道を説いて太平道を創始。184年、数十万の信徒を従えて黄巾(こうきん)の乱を起こしたが、病没。張角らの一党は「黄天」すなわち黄色をイメージカラーとし、黄色い布を頭に巻きつけた為「黄巾賊」と呼ばれた。張角が起こした反乱を「黄巾の乱」と呼ぶのはこれが由縁である。 蒼天已死
33 蔡邑(さいよう)  (132 -192)
後漢代の政治家、儒者、書家。清廉潔白な人物で、宦官に嫌われて官職を追われたこともある。董卓が後漢王朝の実権を掌握したとき、董卓に気に入られ侍御史治中、尚書、侍中、左中郎将と異例の昇進をした。彼は歴史家でもあり、後世に評価される史書をいくつも書き残している。王允が董卓を誅殺したとき、その死を惜しんだため、それを怒った王允によって殺害されたという。 ・翠鳥 諸葛亮&
#160;・梁甫の
吟 馬良&#
160;・白眉
34 趙壹(ちょういち)  卒年不詳
趙壹(生卒年不詳)字元叔,主要事迹見於漢靈帝年間(168年一189年),東漢漢陽郡西縣人(今山西省禮縣大堡子山東)。中國辭賦家、書法評論家。其代表作《刺世疾邪賦》直抒胸臆,對後世賦體的風格有很大影響  
35 禰衡(でい こう、;ねい こう)  173−199年
禰 衡(でい こう、あるいは「ねいこう」とも、173年−199年)は、中国後漢末期の人。字は正平。平原の人。  




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