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  韓愈の生涯  

8- 2 国子祭酒


国子祭酒 長慶元(821)年《54歳〉 ……………‥…………………… 173

第八章


8.-1. 長安への道 元和一五(820)年《53歳》 


8.-2. 国子祭酒 長慶元(821)年《54歳〉 


8.-3. 吏部侍郎 長慶二(822)年《55歳〉 


8.-4. 京兆の尹 長慶三(833)年《56歳〉 


8.-5. 晩 年 長慶四(834)年《57歳》


8-2 国子祭酒
 明けて改元され、長慶元年(821)、韓愈は五十四歳になった。すこしは言動を慎しむつもりだと言ったのではあるが、都に入るとまた地金が出るのである。すでに前年、国子祭酒として着任したばかりの時から、それはもう始まっているのである。
 国子監に一人の有能な教官がいたが、貧乏で、貧弱な男であった。ほかの教官には豪族の子弟が多く、馬鹿にしてつきあわない。教官の会食の席にも呼ばないしまつである。すると韓愈は、わざわざその貧相な男を招き、いっしょに食事をした。国子祭酒に陪食できるのは、一介の教官としてはたいへんな名誉である。以後、その教官は同僚から軽蔑されなくなったという。
だが、この程度はまだ序の口で、三月には、大きな政治問題が発生するのである。
この月に施行された科拳には、裴度の息子や中書舎人李宗閔の婿などが及第した。試験前に高官の口ききで受験生の名を試験官に吹きこんでおくのは、前にも述べたが、当時の通例である。翰林学士の李紳なども試験官に吹きこんだ受験生を持っていたが、その人は落第した。事件はそれだけのことであるが、背景に入りくんだ人間関係がからんだため、たいへんなことになったのである。

李紳と同僚の翰林学士に、李徳裕と元狽の二人があった。李徳裕は憲宗時代の宰相李吉甫の子で、父の勲功のおかげで科挙を経すに役人となった。このように無試験で採用された役人を任子といい、科挙によって選抜された役人を挙子という。徳裕は成り上り者の拳子の連中がとかく党派を組んで勢力をふるいたがるのに、憤慨していた。しかも李宗閔は挙子である上、以前に父の吉甫を非難したことがある。その婿を始め、挙子の一派の関係者が多く合格した今度の試験には、がまんができない。もう一人の元狽は挙子であるが、宦官と関係をっけ、その力を利用してここまでのし上った人物である。しかも同じ挙子の李宗閔を、出世の競争相手と見ていた。

 翰林学士は学問についての皇帝の相談役である。ただ、学問は空疎なものであってはならないので、それに関連して時事を論することもさしつかえないばかりか、時には重視される。李紳・李徳裕・元狽の三人は皇帝の前で、今度の試験には不正があり、李宗閔らと試験官とが結託して自己の利益を求めたと訴えた。穆宗は宦官の力によって即位した皇帝である。学士たちの訴えを却下する力はない。四月、李宗閔も試験官たちも全部流罪となり、試験は初めからやり直しと決定された。
あらためて任命された試験官の中に、白居易の名がある。親友の元根の推薦に違いない。挙子の一
人で、元槇ほどの政治性を持たぬ白居易は、この任命に板ばさみとなって苦しんだようである。
 科挙は礼部で施行され、国子監は礼部とは離れた、独立の機関である。したがって、この事件は愈と直接の関係はなかったが、以前の彼ならばとうてい黙って見過ごしてはおれぬはずのものであった。披が挙子党の先輩であり、李宗閔は彼がかつて裴度に従って淮西の鎮定に赴いたとき、同僚として募下にあったというよしみばかりではない。
 だいたい、今度の裁決は不公平である。試験官に対して運動した点では、任子党も同非であった。試験官の一人であった銭徽の乎もとには、李紳たちからの依頼状が証拠晶として残っている。それを皇帝に示して、逆に李紳たちの不正を訴えるがよいと、銭徴にすすめる人もあった。しかし、徴は承知しない。人の私信を皇帝の前まで持ち出すなどとは、士君子のなすべきわざではないと言吋依頼状を焼きすて、いさぎよく処罰を受けた。
 このような事態を見て、愈はむろん憤慨した。だが、うかつに口出しはできない。所管の違うことだし、李宗閔や銭徴の一党と見られては、せっかくの国子祭酒の地位をまた棒に振らねばならぬこととなろう。昔の愈ならば、それでもかまわずに発言したところであった。しかし今度は、そこに気を配るだけの世間なみの知恵ができていた。といって、全く沈黙していたわけでもない。怒りをごく婉曲に表現した五言古詩「南山有高樹行」(韓文六)を作って李宗閔に贈った。


 「南山有高樹行」は、次のような内容の詩である。南山の高樹に鳳凰が棲む。その周囲に群鳥がむらがって来るが、黄鵠が鳳凰に次ぐ席を占めている。そこヘー羽の美しい鳥が来て、仲聞に加わった。すると「丸を挾む子(児)」、つまり弾丸を持った若者が来て、その鳥をねらって撃った。なぜ撃たれたのか、わからない。「或いは言ふ 黄鵠に由ると、黄鵠 壹これ有らんや。慎しみて衆鳥を猪ふ勿れ、衆烏は清ふに足らす。」その鳥が地に落ちると、黄鵠は羽をのばして舞い、衆鳥はその鳥の欠点を言いだす。「汝 豈朋匹無からんや、口有るは肯えて開く莫れ。」。汝、すなわちその美しい鳥は雑草の中に落ち、飛ぶことができない。連れ出してやりたいが、自分にもそれだけの力がない。
 一首の詩意はほぼ明瞭である。ただ、表現はあまり婉曲すぎて、何が誰をさしているのか、よくわからない。「美しい鳥」が李宗閔であることは確実だし、「鳳凰」はたぶん裴度であろうが、「黄鵠」と「丸を挾む子」は誰のことか。ここに李紳や元棋が隠されているには違いないが、その辺はあとから任子党の連中に文句をつけられても、自在に申し開きのできる仕組みと見うけられる。
 結局、愈の仲間は都から追われたが、愈の地位は安泰であった。七月には軍政を管掌する兵部の次官、兵部侍郎に任ぜられている。この前後に彼が奉呈したいくつかの意見書は、朝政の大綱に格別の異議をとなえる性質のものではない。

 安史の乱を平らぐため、国費の増大に対し安易に貨幣の発行を増大させることで、経済は混乱してきた。こうした背景に、経済問題を論じた「銭重物輕状」(韓文三七)も、このころのものといわれるが、あるいはもう少し後になるかもしれない。徳宗の治世に、新たに両税法が公布された。これは従来の租庸調の制度を廃して、もっと経済の実情に即した徴税法を企図したものである。ただ、一つ不便な点があった。両税法はこれまでの物納制を改め、原則として金納の建前をとっている。それを一拳に実施したから、貨幣の絶対量が不足になった。当然、貨幣価値が上って、デフレーション現象が起る。このころには、物価は以前の三分の一にまで下落していたという。そこで商人は貨幣を集めて投機に出るし、農民は相対的に重税を課せられることとなった。
 韓愈の意見書は、この点を論じたものである。彼の主張は、第一に物納制を復活し、第二に銅の私有を禁じて貨幣の量を増し、第三に品位を落した新銭を鋳造して貨幣価値を下げ、第四に官吏の減俸を断行し、俸給には新銭を支給せよというにあった。
 これは、さほど独創的な意見ではない。デフレは徳宗の時代からすでに始まっており、その対策はいろいろと議論されてきた。韓愈の師にあたる宰相陸贄も意見書を提出して、韓愈よりも詳しく両税法の改正を論じている。だいたい両税法は「祖宗の遺制」である租庸調の制度を否定したものだから、保守的な人々には評判が悪い。また「先王の法」でもないため、儒学に凝り固まった連中にも嫌われる。ただ経済の大勢には適合しているので、廃止すればさ'らに大きな混乱が予想される。結局、新法の大綱は守りながら、実施の面で手心を加えるほかはない。韓愈の意見もその線に沿ったものであり、経済官僚たちの考えと対立するような点はなかった。
 この年あたりから、彼の文章にはまた碑銘・墓誌の類が多くなってくる。ただ、彼のとなえる古文が世間に認められるようになったためとは、必ずしも断言できまい。国子祭酒という肩書だけを見て依頼に来る人も多かったと思われるからである。



(821)  
1.南山有高樹行贈李宗閔【案:初度伐蔡,引宗閔為彰義觀察判官。蔡平,進知制誥。長慶初,錢徽典貢舉,宗閔托所親於徽,コ裕及紳、?共發其事,宗閔坐貶劍州刺史,俄復為中書舍人,由是嫌怨顯結。縉紳之禍,四十餘年不解。此贈詩,宗閔初貶時作也。】
2.猛虎行【猛虎行贈李宗閔】【案:初度伐蔡,引宗閔為彰義觀察判官。蔡平,進知制誥。長慶初,錢徽典貢舉,宗閔托所親於徽,コ裕及紳、?共發其事,宗閔坐貶劍州刺史,俄復為中書舍人,由是嫌怨顯結。縉紳之禍,四十餘年不解。此贈詩,宗閔復入後作也。】
3.南?朝賀歸呈同官【案:唐長安有三?,皇城在西北隅,謂之西?;東?曰大明宮,在西?之東;南?曰興慶宮,在東?之南。】
4.朝歸
5.杏園送張徹侍御歸使【杏園送張徹侍郎歸使】
6.雨中寄張博士籍、侯主簿喜
7.奉和兵部張侍郎【案:賈。】酬,?州馬尚書【案:總。】祗召,途中見寄,開緘之日,馬帥已再領?州之作





穆宗の822年長慶元年、韓愈は五十四歳の正月を国子祭酒として長安で迎えた。

この年に行なわれた科挙に不正があると、翰林学士の李紳が同僚の李徳祐・元?とともに訴えた。この年の科挙は銭徽が知貢挙(試験委員長)で、裴度の息子や中書舎人の李宗閔の婿などが合格した。

当時では、受験生の名をあらかじめ試験官に吹きこんでおくのは誰でもやっていたことで、かくべつ違法とも意識されていなかった。李紳も合格させたい受験生があり、名前を錢徽に吹きこんでおいたが、落第した。問題はここにあるわけで、李紳・元?・李徳裕の三人は穆宗皇帝の前で、銭微と李宗閔たちとが結託して不正をはたらいていると意見を述べた。しかし事実は錢徽に頼みこんでいたのは宗閔だけではなかったわけで、李紳からの依頼の手紙も錢徽の手もとに残っていた。

それを皇帝に見せて身の潔白を証明すべきだとすすめる人もあったが、錢徽は、私信はあくまでも公開すべきではないといって焼き捨て、いっさい申し開きをしなかった。結局この年の四月に天子の裁定が下って、銭徽・李宗閔は流罪となり、科挙は最初からやり直しということになって、新しい知貢挙も任命された。

これは一科挙の問題ではなく、当時の政治問題を背景とした事件である。すなわち、科挙によって任官した挙子と父祖の功によって任官した任子との争いがこの時期よりしだいに表面化してくる。李徳裕は任子派、李宗閔は挙子派のそれぞれ中心人物であったが、これが抗争の一つのはしりとなった。

国子監諸学の学生はそれだけで科挙の受験資格はもつものの、国子祭酒は制度上科挙とはかかわりをもたない。

韓愈は直接のかかわりのないものであったが、李宗閔に同情したのである。それは@韓愈自身が挙子の出身であるということ、A宗閔の人格をわかっていた。B李宗閔はかつて淮西の乱のとき、韓愈とともに招かれて裴度の幕下に入ったという仲間意識があったためである。ただ、宗閔は朝廷からお咎めを受けた身であるから、同情を露骨に表わすことはできなかったので、遠まわしな表現の詩を作るほかはなかったということなのだ。贈った先の相手、宗閔には完全に韓愈の思いは理解できればよかったのだ。

南山有高樹行贈李宗閔(「南山に高樹有る行」李宗閔に贈る)
南山有高樹,花葉何衰衰。南山に高樹有り,花葉 何んぞ 衰衰たる。
上有鳳皇?,鳳皇乳且棲。上に鳳皇の?有り,鳳皇 乳して 且つ棲む。
四旁多長枝,群鳥所托依。四旁に 長枝多く,群鳥 托依する所なり。
?鵠據其高,?鳥接其卑。?鵠 其の高きところに據り,?鳥 其の卑きに接す。
  
不知何山鳥,羽毛有光輝。知らず何れの山鳥ぞ,羽毛 光輝有り。
飛飛擇所處,正得?所希。飛飛として 所處を擇び,正に?希【こいねが】う所を得たり。
上承鳳皇恩,自期永不衰。上は鳳皇の恩を承り,自ら期す 永く衰えざるを。
中與?鵠群,不自隱其私。中は?鵠と群し,自ら其の私を隱さず。
  
下視?鳥群,汝徒竟何為。下は?鳥の群を視る,汝が徒 竟に何為れぞ。
不知挾丸子,心默有所規。知らず 挾丸子,心に默して規る所有るを。
彈汝枝葉間,汝翅不覺摧。汝を枝葉の間に彈ず,汝の翅 摧くを覺えず。
或言由?鵠,?鵠豈有之。或は言う 「?鵠に由る」と,?鵠は豈に之に有らんや。
  
慎勿猜?鳥,?鳥不足猜【?鳥不足疑】。慎んで?鳥を猜う勿れ,?鳥を猜うに足らず。
無人語鳳皇,汝屈安得知。人 鳳皇に語る無く,汝が屈 安んぞ知ることを得んや。
?鵠得汝去,婆娑弄毛衣。?鵠 汝が去るを得て,婆娑 毛衣を弄す。
前汝下視鳥,各議汝瑕疵。前に汝が下視せし鳥,各の汝が瑕疵を議す。
  
汝豈無朋匹,有口莫肯開。汝 豈に朋匹無からんや,口有るは肯えて開く莫れ。
汝落蒿艾間,幾時復能飛。汝 蒿艾の間に落ち,幾時か 復た能く飛ばん。
哀哀故山友,中夜思汝悲。哀哀たり 故山の友,中夜 汝を思い悲しむ。
路遠翅?短,不得持汝歸【不能持汝歸】。 路 遠く 翅?短く,汝を持して歸えるを得ず。

銭重物輕状
右,臣伏準御史台牒:準中書門下帖奉進止,錢重物輕,為弊頗甚,詳求適變,可以便人。所貴緡貨通行,里閭ェ息。宜令百寮隨所見作利害?者。臣愚以為錢重物輕,救之之法有四。一曰在物土貢。夫五穀布帛,農人之所能出也,工人之所能為也。人不能鑄錢,而使之賣布帛穀米以輸錢於官,是以物愈賤而錢愈貴也。今使出布之?,租賦悉以布;出綿絲百貨之?,租賦悉以綿絲百貨;去京百里,悉出草;三百里以粟;五百里之?,及河渭可漕入,願以草粟租賦,悉以聽之。則人益農,錢益輕,穀米布帛益重。二曰在塞其隙,無使之泄。禁人無得以銅為器皿,禁鑄銅為浮屠佛像鍾磬者。蓄銅過若干斤者,鑄錢以為他物者,皆罪死不赦。禁錢不得出五嶺,買賣一以銀,盜以錢出嶺,及違令以買賣者,皆坐死。五嶺舊錢,聽人載出,如此則錢必輕矣。三曰更其文貴之。使一當五,而新舊兼用之。凡鑄錢千,其費亦千;今鑄一而得五,是費錢千而得錢五千,可立多也。四曰扶其病,使法必立。凡法始立必有病。今使人各輸其土物以為租賦,則州縣無見錢。州縣無見錢,而穀米布帛未重,則用不足;而官吏之祿俸,月減其舊三之一。各置鑄錢使新錢一當五者以給之,輕重平乃止。四法用,錢必輕,穀米布帛必重,百姓必均矣。謹?奏聞,伏聽敕旨。謹奏。









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