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  韓愈の生涯  

第四章 永貞革新、韓愈一門


06 第四章 永貞革新、韓愈の一門
  韓愈の生涯
第一章 科挙への道と挫折   大暦三(768)年 〜 貞元十一(795)年
   〈1〜2歳》家 系 / 〈3〜6歳》父の死 / 〈7〜18歳》兄の死 / 〈19歳〉科挙への道
   《19〜20歳》衣食の道 / 《20〜23歳》最初の挫析 / 〈24〜25歳〉進士及第
   〈25〜27歳》第二の挫折 / 《28歳〉自負と失意と
第二章 幕僚生活から四門博士  貞元十二(796)年 〜 貞元一八(802)年
   《29〜32歳》幕僚生活 / 《33歳〉再び幕僚生活 / 〈34歳》四たび吏部の試 / 《35歳》四門博士
第三章 陽山貶謫と中央朝廷復帰と、韓愈一門 貞元一九(803)年 〜 元和元(806)年
   《36歳》監察御史 / 第三の挫折 / 荊蛮の地
第四章 永貞革新と韓愈一門     永貞事件  永貞元(805)年八月 
   永貞革新とその経緯 / 永貞革新集団と春秋学 / 『春秋』と大中の説 / 大中の説と堯・舜の治績
   順宗実録
第五章 中央朝廷へ復帰    元和元(806)年 〜 元和九(814)年
   《39〜41歳》国子博士 / 《42〜43歳》河南県令 / 《44歳》送 窮
 / 《45〜46歳》進学の解 / 《46〜47歳》処世の術

第六章 「平淮西碑」から「論佛骨表」 元和一〇(815) 〜 元和一四(819)年

  《48歳》淮西の乱 / 《49歳》太子右庶子 / 《50〜51歳》栄達への道 / 《52歳》平淮西碑
   《52歳》論佛骨表 / 《52歳》潮州への道

第七章 潮州左遷から袁州刺史 元和一四(819)年 〜 元和一五(820)年

      《52歳〉潮州にて  /  《53歳〉袁州刺史

第八章 ふたたび長安へ、そして晩年 元和一五(820)年 〜 慶四(834)年

   《53歳》長安への道 / 《54歳〉国子祭酒 / 《55歳〉吏部侍郎 / 《56歳〉京兆の尹 / 《57歳》晩年





第四章 永貞革新、韓愈の一門

4-1永貞革新

 啖助・趙匡・陸淳らによっで創められた唐代の新春秋学は,学術史的に見た場合,これまでの「春秋公羊伝」「春秋穀梁伝」『春秋左氏伝』の「春秋」三伝に依存する「春秋」の解釈を排除して,いな,というよりは積極的にそれら三伝の解釈の人情とそぐわない部分を摘出してこれを批判する,極めて主観的な解釈学であることを特色とする。
そしてその意義は,『春秋』を読む者であればいかなる者であれ,白己の主観的判断によって独自の「春秋」解釈を示し得る可能性を開いた点に見出すことができる゛1)。けれども,『春秋』を解釈することの意義がこの方面に見出されるようになるのは,実は北宋の孫復以後のことであって,唐代におけるそれは,特に陸淳から弟子の呂温や柳宗元に至る経過で順宗朝の王叔文が領導する永貞革新の政洽運動に応用され,革新政策の指導理念として展開した点に求めることができよう。本稿の目的は,そうした意昧での陸淳らの春秋学がどのようなものであったかを,主に当時の唐王朝の政治との関わりで確認することである。


  一 永貞革新とその経緯

 貞元二十一(八〇五)年の正月契巳(二十三日),二十六年間の長きにわたり唐王朝に君臨してきた徳宗がみまかると,翌日太子となって久しかった李誦が柩前即位した。これが順宗である。順宗はその折り,痛凰を患って物も満足に言えぬ有り様であったが,即位するとすぐさま吏部郎中の傘執誼を尚書左丞,同中書門下平章事に任じ宰相の任に当たらせ,順宗が太子として永く東宮で過ごした折りに太子侍読を務めた王叔文は翰林学士のまま起居舎人として相に任じられ,同じく太子侍読として若き順宗に仕えた王任は散騎常侍に任じられ翰林待召を兼ねることになった。
王叔文・王イ五の二人は翰林学士・翰林待召として順宗に仕え,そのうち王叔文は相の任も兼ね,以後順宗の臨朝下で断行される一連の政治改革はこの王叔文・王任によって領導されることになる。ただし,この二人は永貞革新が失敗すると,両者が猟官に成功したきっかけが正規の科挙試によるものではなく囲碁や書を善くしたことの呪懇によったことから特に「二王」と呼ばれ,革新政策の破綻が全て彼らの身に科されることになった。また二王のうちでも王叔文の方が順宗からの信任の情が厚く,彼は太子侍読であった折りから親交を得ていた陸淳・呂温・李景倹・韓嘩・韓泰・陳諌・凌準・程異・柳宗元・劉両錫らを自らの傘下に招き入れ,改革の断行に踏み切るのであるが,けれどもその改革は順宗が即位したハ箇月後に順宗が子の憲宗に「内禅」することで,途絶することになる。

 さて,王叔文が順宗を後ろ盾として,柳宗元ら新進気鋭の若手官僚を擁して断行した諸政策は,一言でいえば,当時宮廷内に巣くって絶大な権力を振るっていた宦官の勢力を一掃し,これを正常で健全な行政組織に立ち戻らせることであった〔以下,王芸生氏の所論(注2)を参考にする〕。順宗が即位したその日の内に宦官の郭忠政ら十九人に対する俸禄の支給を停止し,その貪欲を民に鄭楡された京兆尹の李実を通州長史に左遷させているが,これらはそれまでの宦官や大官の専横を封ずることを革新の目標に据えでいることを示していよう。王叔文らの改革の様を逐次列挙してゆけば,(1)大赦を行って「大肺」以下の者を赦免した。(2)有能者の捜出とその登用を図った。(3)苛斂を廃し,民衆に負わせた不当な債務を帳消しにした。(4)正規の税以外の雑税を廃した。(5)民衆の皇室に対する供奉の義務は常例以外を廃止した。(6)民の年齢が九〇歳以上の者,及び百歳以上の者に対しては米・絹・綿・羊・酒等を下賜し,九〇歳以上の者に対しては「上佐郡県」,百歳以上の者に対しては「剌史郡県」との名目上の官職を与えた。(7)宮市を廃止した。(8)「五坊小児」を廃止した,等の通りである。この内,(7)の「宮市を廃止した」,なかんずく「宮市」というのは,宮廷内に生活する宦官や貴族の生活物嗇を供給するために宮廷内に設けられた市場のことで,そこに並べる物資を取り揃えるに当たっては民間からただ同然で徴発したために,宮市を営む行為は朝廷の民間に対する略奪行為にも等しく,それを「廃止した」というのは,宮市を怨望する民の怒りを取り除くことであった。(8)の「五坊」とは喬坊・鎬坊・鷹坊・狗坊・勃坊をいい,「小児」とはそこに仕える若年の輩をいう。彼らは五坊のいずれかに所属して捕鳥を生業とする者たちであったが,いつしか役所の権威を嵩にきて民衆を脅し,金品を巻き上げる有り様であった。その様子を韓愈の「順宗実録」(巻二)には「貞元末,五坊小児張捕鳥雀于関里,皆為暴横以取銭物(貞元の末年,五坊の小児たちは鳥を捕らえるための網を関里に張り,横暴をなして民から銭物を取り上げた)」と記される。それ故に,五坊の小児を廃止したというのは,彼ら若輩の横暴から民を解放することであった。

 こうした改革を手初めに,王叔文らの改革は続行される。以下,その主だったもののみを挙げれば,塩鉄使が毎月皇帝の私用に供する費用として「羨余」と呼ぱれる金品を皇室に納めていた悪習を廃止して,それらを正規の通り国庫の収入とした。当時,忠州剌史の陸贅,祁州別駕の鄭慶余,杭州剌史の韓皐,道州刺史の陽城の四人一彼らはいずれも徳宗代に廉潔や有能がみこまれて宰相や他の要職についた者たちであったーを都に帰還させた(ただし,陸費と陽城は帰還の報が届く前に現地で死没している)。又,王叔文は時を移さず家宰の任にある杜祐を度支及諸道塩鉄転運使に任じ国家財政を掌る名目的な官職を与え,自らはその副使となってその実質上の責任者となり,国家財政を掌握している。又,軍事権についても右金吾大将軍の苑希朝を検校右僕射兼左右神策・京西諸城鎮行営兵馬節度使に任じ,これまで宦官に牛耳られていた兵権を奪取した。そうして,絶大な力を有する各地の藩鎮の勢力を削減する計画を進める段階になって,宦官の倶文珍は藩鎮の車皐らの旧勢力と手を組んで二王らの改革政策に対する巻き返しを図ったのであり,倶文珍は順宗の皇太子となった李純を抱え込んで,病身の順宗になりかわって李純が国政に当たるというのを口実にして,積極的に王叔文らの追い落としを図ることになった。その最中,王叔文はたまたま病気が重くなった母のために全ての任を解いて帰郷せざるをえないことになり,彼が職から離れると皇太子の李純が国政に当たり,李純はほどなくして順宗の内禅を得て即位。これが憲宗である。憲宗の臨朝が始まると,順宗という後ろ盾を失った王叔文ら革新派の官僚たちは全てこれまでの職務を解かれ,改革を領導した王叔文は瀧州司戸に既された後に死が下賜され,盟友の王任は開州司馬に既されてその地で死没。その他の改革に従事した官僚たちも地方の剌史に既さ
れることになるが,それでは軽すぎるとする朝議によって,その後改めて彼らは韓泰が虔州司馬,韓嘩が饒州司馬,柳宗元が永州司馬,劉高錫が朗州司馬,陳諌が台州司馬,凌準が連州司馬,程異が祁州司馬に既されることになった。
これを世に「八司馬事件」と呼ぶことになる。またこの時,永貞革新に深く関わっていた呂温はたまたま吐蕃の地に使節として派遣されていたことから,彼ら八人に連坐することを免れていた。
 こうして王叔文によって領導された革新の事業は着々とその成果を積み重ねていたにも拘わらず,わずか8箇月で潰え,その改革に従事した者たちは永く罪人の汚名に甘んずることになるのである。



二、永貞革新集団と春秋学

 永貞革新の理想に共鳴し,その事業に積極的に参加した人々の名を改めて掲げると,二王・ハ司馬と呼ばれる王叔文・王任・章執誼・韓嘩・韓泰・陳諌・凌準・程異・柳宗元・劉萬錫等の都合十人。更に,当時吐蕃に使節として出向いていた呂温,王叔文と情誼を交わし給事中・皇太子侍読として李純の教導に当たっていた陸淳の名も,ここに書き加えなければならない。彼らはいずれも順宗の治世が聖世となって成就することを念願して,順宗の信頼をー身に集める王叔文の下に参集した者たちであるが,その彼らが形成した集団には一種特異な特色が付帯している。それは彼らの大半が当時興った啖助らの新春秋学を学んだ者,もしくはその影響を蒙ってそれをその集団の性格として際立たせた者たちである,ということである。具体的に言えば,陸淳は啖助を師としてその啖助と共にこれまでにはなかった新しい春秋学を唐王朝に興した立役者であり,呂温はその直弟子。韓嘩・韓泰・凌準・柳宗元もやはり陸淳の講廷に連なってその声咳に接した者たちであり,劉爾錫や他の者たちも,この革新集団に加わってそこに立ち込める春秋学上の教義を多分に汲み取っていて,『春秋』からもたらされる教義が彼らの革新の理念になってyyたことを思わせている,ということである。そこで,「春秋」とこ9集団の関係を考察する前に,まず彼らの経歴中に「春秋」がどのように関わっていたかを見て置くことにする。
 陸淳。呉郡の人。後に憲宗の譚「純」を避けて「質」に改めた。早年に,啖助の下で十一年間「春秋」を学び,啖助亡き後は啖助と啖助の友人趙匡の「春秋」説をまとめ『春秋啖趙集伝纂例』『春秋集伝弁疑』『春秋微旨』の三著を著わした。当時,揚州刺史であった陳少遊が彼の才を愛し従事に召し,その後やはり陳少遊の推薦で左袷遺を拝することになった。後,太常博士に転じ,郎中に累遷するが維放に連坐して国士博士に改められ,ほどなくして信州・台州の剌史となった。後に師弟の関係を固く結ぷことになる呂温が彼に師事したのはこの折りのことであるらしい。徳宗がみまかって順宗が即位すると,陸淳は傘執誼と仲が善かったことから再び朝廷に召され,給事中・皇太子侍読となった。皇太子侍読として若き李純に講義していた折り,たまたま盟友王叔文からの依頼を受けて他事に言及したためいたく李純の感情を害し,激しく叱責を蒙り,それがもとで陸淳は病に罹り,ほどなくして没している。この時の陸淳の発言がいかなるものであったかを史書は伝えていないが,小論の,コンテキストでいけば,宦官の倶文珍らの接近に注意して,彼らとの接触は極力避けるよう促す内容のものであった,ということになろう。陸淳の臨終を,吐蕃から戻ったばかりの呂温が見取っている。

 呂温。字は和叔,一に化光。代宗の七(七七二)年に生まれ,青年期に陸淳に師事して『春秋』を学び,貞元十四 (七九八)年に進士の第に登り,翰林学士に合格。章執誼と親交を持つ。また王叔文からは最も重んじられ,左拾遺を拝することになった。貞元二〇(ハ○四)年,吐蕃の賛普が崩御したことから弔問の使節の一員として吐蕃に赴くことになり,吐蕃滞在中に徳宗がみまかり,順宗が即位。呂温の帰国は結局出発してから二年が経った元和元(ハ○六)年のことで,王叔文が亡くなり,かつての盟友柳宗元らは全て地方の司馬に左遷させられた後であった。帰国後は,戸部員外郎となって同じく春秋学を修めていた賓群や羊士鍔(注4〉らと交わっていたが,たまたま宰相の李吉甫が宦官らと肛争を起こしたのを機に,蜜群らと組んで李吉甫の追い落としを画策した。だがその謀事は失敗し,道州剌史に既論された。元和五(ハ一〇)年,衡州剌史に転任し,任期を全うして都に帰任。ほどなくして病を発し,他界した。

 韓嘩。字は宣英。『旧唐書』には宰相の韓滉の族士で傘執誼に依付したことから尚書司封郎中に累遷したこと,及び王叔文が改革に失敗して以後は池州剌史から饒州司馬に左遷され,汀州刺史を経て永州剌史に転じて卒したことを伝えるのみである。彼が陸淳に師事して「春秋」を学んだ者であろうことは,柳宗元が元饒州(元典)に差し出した手紙「答元饒州論春秋書」(『柳宗元集』巻三一)の出だしに「往年…又聞韓宣英【亡友】(゛5)呂和叔輩言他義,知春秋之道久隠,而近乃出焉(過ぐる年…韓宣英と亡友の呂和叔が『春秋』に見える他の大義を述べているのを聞いたとき,私は久しく隠れていた『春秋』の道が,近年になって現われたことを知った)」ということによって知られる。韓嘩は呂温とは「春秋」の義を巡って論を交わす関係にあったのである。

 同様の推測は韓泰や凌準にも成り立つ。韓泰について,柳宗元が「京中于韓安平(泰)処始得微旨(京中,韓安平の家で始めて『春秋微旨』を手にすることができました)」(同上)といえば,彼が陸淳の受業生であったか,あるいは陸淳に私淑して平素から陸淳の「春秋微旨」を携えてこれを読んでいたということが推測できるのであり,又,凌準についても,やはり前出の柳宗元の手紙「答元饒州論春秋書」中に「復于亡友凌生(凌準)処,尽得宗指・弁疑・集注等一通(また亡友の凌準の家で陸淳先生のr春秋宗指)「春秋弁疑」『春秋集注』など一通りを手にすることができ,それを読ませていただきました)」と見えていることから,彼も韓泰同様陸淳を私淑して彼に師事したもののごとくである。

 最後に,柳宗元と劉鴎錫について。柳宗元と陸淳の関係については柳宗元自身が述べている。「恒願掃于陸先生之門。及先生為給事中,与宗元入尚書同日,居又与先生同巷。始得執弟子礼。未及講討,会先生病,時聞要論。書以易教海見寵。不幸先生疾弥甚,宗元又出部州,乃大乖謬,不克卒業(私はいつも陸淳先生の門で学びたいと願っておりました。陸淳先生が給事中となられたのが,私が尚書に務めることになったのと同日で,又私の住まいが先生と同巷であったことから,私は始めて陸先生に弟子の礼を執ることができました。けれどもまだ講義を聴かないうちに,先生は病に罹られ,時たま要論を聞く程度に止まっておりました。先生は私が教えやすい学生であるということで眼をかけて下されましたが,不幸にして先生の病は一層進み,私も又部州へ既論となったばかりで(46),大変な誤りでしたがついに先生の学生としての業を終えることができませんでした)」(同上)と。柳宗元は礼部員外郎として尚書に入ったのを契機として給事中となった陸淳と知り合い,弟子となって直接に指導を仰ぐこと。になったのであり,その期間はその後ほどなくして陸淳が他界することから極短いものであっても,これまで柳宗元が読んで得ていた陸淳の著述の意昧が,慕仰する陸淳の声咳に触れて血肉に融け,新たな柳宗元の知識や価値観を形成させることになったのは想像に難くない。また柳宗元は早くから呂温を友として,彼からは「宗元幼雖好学,晩未聞道。泊乎獲友君子(呂温)乃知遠於中庸,削去邪雑,顕陳直正,而為道不謬,兄実使然(私は幼いときから学問を好んでおりましたが,晩年になっても道が何かを聞くことがありませんでした。君子であるあなたを友とすることができて以来,私は中庸に適うことが道だと知り,邪雑の念をなくし,直正の意識を明らかに示し,道をなして誤ることがなかったのですが,兄よ,それはあなたのお陰です)」,(「祭呂衡州温文」r柳宗元集」巻四十)と多くを学び取っているが,その過程でも陸淳の「春秋」解釈が何らかの形で柳宗元へ胚胎していることは十分にありえよう。現に彼は永州司馬に左遷されて以後,その地で「非国語」を書き上げて白己の春秋学の一,端を公にしているが,これこそは柳宗元が陸淳の春秋学を継承し,発展させていることの証左である。

 劉萬錫については直接に陸淳の春秋学を修めている明証ほ見当たらないが,彼の著述の中には陸淳の春秋学固有の概念が随所に見えていて,彼自身もやはり陸淳の春秋学を継承する者であることを思わせている。が,そのことについては後節で述べたい。
 以上,永貞革新に従事した官僚集団の主要な人物のほとんどが陸淳の春秋学を奉ずる者たちであることを見てきたのであるが,彼ら以外に,永貞革新集団の後ろ盾となった順宗自身も「朕(順宗)奉若歪訓,憲章前式,惟承杜稜之重,載考春秋之義,授之七邑,以奉集盛(朕は大訓に従い奉じ,先代からのしきたりに則り,社穫の重きを受け継ぎ。
 『春秋』の義を考え,祖先の霊に七吃の酒を捧げ,染盛の穀物を奉ずる)」(「戊申詔」,韓愈「順宗実録」巻三)のように『春秋』を学んだ者であり,そのほかの,たとえば傘執誼は早くから陸淳と親交を結んで陸淳の春秋学については善き理解者であったことを思わせており,他に王叔文・王任らも陸淳やその弟子呂温等と親しく交わって,彼らが抱く「春秋」の理念に対してはかなりの造詣を有していたと思われる。「春秋」から導かれた道義は彼ら革新集団の結び付きを強固にし,その革新の政策を進める牽引力をなしていたとみて,大過ない。


三『春秋』と大中の説

 順宗が即位してほどなく天下に公布した「赦令」の中に,次のような文章が見えている。
  朕纂承天序,嗣守鴻業,以不敏不明,託於万国兆人之上。…惟懐永図,内煕庶績,外宏至化,以弼予理,琉於大中,俸懐生之類,各遂其性,咸得自新。
(朕は天子となる巡りを纂め承け,大唐の鴻業を守り継ぎ,不敏不明ではあるが,万国兆人の上に信託された。…思うに,国家長久の謀を抱き,内においては諸々の功業を興し,外においては教化の極致を広め,そうして朕の治績を助け,大中の説に照らして命を宿す全ての者にその生を遂げさせ,各々自新することを得しめよ。)(「即位赦令」『全唐文』巻五十五)
と。
「予の理」の「理」は高宗の諌「治」を避けたもので,「予の理」とは「予(順宗)の治」の意。その順宗の治績を挙げる具体的な手段が[蜂於大中,悸懐生之類,各遂其性,咸得自新]である。この文章が赦令であることからは, 「白新」が政治の目的に据えられるのは当然であろうが,今の場合,特に留意すべきは,ここで説かれる大中の説が自新を可能とするほどの善政を来す手段として過大視されていることであり,そのことは取りも直さず「大中」の説が,永貞革新を推進する基本理念にまで格上げされている事実を示している,ということである。こうした意昧での大中の説は永貞革新の推進者の中でも特に柳宗元において顕著であり,彼が著わした「答周君巣餌薬久寿書」(『柳宗元集』巻三十二)中には  宗元始者講道不篤。以蒙世顕利,動獲大偕,用是奔童禁偏,為世之所垢病。…荷守先聖之道,由大中以出,雖万受攘棄,不更乎其内。(私は当初学問を修めることがまだ浅かったのですが,世の顕利を得た次第です。けれど  も,ひとたび行動して大罪を得,それで禁偏の刑を受けるはめになり,世の辱めを受ける身となりました。…そ  うではありますが,蜀も先聖の道を守り,大中の説に則って行動するこの私は,万たび退けられても自己の志を  改めようとは思いませんでした。)
と,幾度既滴の身に甘んずることになろうとも,大中の説によって貫かれた自己は,決して悔悟することのない頑なな意志をあらわにさせている。永貞革新が中途で挫祈したことで蒙ら’ざるをえなかった既滴の汚名も,大中の説を抱懐することで払拭され,逆に大中の説を反契することで,自己の正当をさえ支持するのである。

 大中の説は更に劉禹錫においても「素王立中枢之教,懇立大中(素王の孔子が中枢の教えを立て,大中を務め立てた)」(「袁州萍郷県楊岐山故広禅師碑」『劉爾錫集』巻四)のように認吟られるのであり,こうした事実は順宗・柳宗元・劉爾錫らに限らず,彼ら以外の永貞革新の従事者たちにも共通に大中の説が意識され,それが彼らの間では政治を刷新するスローガンとなっていたことを想定させるのであるが,その大中の説が実は啖助・趙匡・陸淳らの新春秋学の展開上で生起していることには注意しておく必要がある。大中の説が春秋学上の概念であることは章士釦氏や市孝宜氏等によって説かれたところであるが(゛7),私もまた柳宗元が永州司馬に左遷されていた時に,友人の元饒州(元典)に宛てた手紙「答元饒州論政理書」(「柳宗元集」巻三十二)の中で兄通春秋,取聖人大中之法以為理(治)。(大兄は「春秋」に通暁され,聖人孔子の大中の法を取って施策を講じておられます。)
と述べていることによって,大中の説がやはり陸淳らの新春秋学から誕生しているとの見方を支持したい。というのは,ここでいう「大中の法」とは元萬が「春秋」に通暁する過程で見い出した,聖人孔子が「春秋」に託した理念であり,この一文はそれを元典が自己の施策中に応用している日常をいったもので,これに拠れば大中の法は,本来孔子が「春秋」中の諸事件を是非判断した際に用いた価値原珊と等質の理念とみなさざるをえないからである(゛8)。そうしたせいであろう。北宋代になると「大中の説」は「孔子作春秋,専其筆削損之益之,以成大中之法(孔子は「春秋」を著わした際,ほしいままに筆削を施し文章を減らしたり増やしたりし,それで大中の法を完成させた)」(孫複 『春秋尊王発微』桓公十四年「夏,五」の条)のごとく,全く孔子が「春秋」を製作する過程で創設した世を糾正する大法と理解されることになる。しかも永貞革新集団において特徴的であるのはその「大中の法」は一春秋学上の学説からの拡大を志向しーその表現を更に「中」「中道」「中庸」「中正」の諸語に変容させ,さながら「中」や「大中」を中心とする同心円内に「中・道」「中庸」「中正」の諸語を派生させているような関係で措定されている,ということである。


たとえば,柳宗元の場合,「時令論下」(「柳宗元集」巻三)では
  聖人之為教,立中道以示于後。曰仁,日義,曰礼,日智,日信,謂之五常。言可以常行者也。防昏乱之術,為之  勤動然書於方冊,興亡治乱之致,永守是而不去也。未聞其威之以怪,而使之時而為善,所以滋其怠傲而忘理也。
  語怪而威之,所以熾其昏邪淫惑,而為梼攘厭勝鬼怪之事,以大乱于人也。…是故聖人為大経,以存其直道,将以  遺後世之君臣,必言其中正,去其奇変。…立大中去大惑,捨是而日聖人之道,吾未信也。(訳は後に示す)
といい,「与呂道州温論非国語書」(「柳宗元集」巻三十一)では
  近世之言理(治)道者衆矣。率由大中而出者咸無焉。其言本儒術,則迂回茫洋而不知其適。其或切於事則苛蛸刻  蔓,不能従容,卒泥乎大道。甚者好怪而妄言,推天引神,以為霊奇,恍惚若化而終不可逐。故道不明於天下,而  学者之至少也。吾自得友君子(呂温を指す),而後知中庸之門戸階室,漸染砥礪,幾乎道真。然而常欲立言垂文  則恐而不敢。今動作悸謬,以為慄於世,身楊夷人,名列囚糖。以道之窮也,而施乎事者無日。故乃挽引,強為小書,以志乎中之所得焉。(近世で治道を論ずる者は多く存しますが,大中によって論を出だす者は一人として居りません。その発言は儒術に基づくものでありますが,真実から外れてあてどもなく,どこへ行き着くのか分からないありさまです。よしんば事に切実であったとしても過酷にすぎ,ゆったりとした対応ができず,大道に滞る始末です。甚しい者は奇怪を好んで妄言し,天や神を持ち出してそれを霊奇な説とみなし,神妙の境地に同化したかのように思い,道の追究を妨げております。だから道は天下に明らかとならず,道を学ぼうとする者は少くなりました。私は君子であるあなたを友とすることができて始めて中庸の説が道の入り□であり,通過口であることを知り,あなたからの薫陶と私の努力により,道の真実に近づくことができました。そうして常にそのことを文章に著わして後世に残そうと致しましたが,恐れてなしえませんでした。今私は過ちを犯し,世の笑い者となり,身は夷人の中に置かれ,名は囚籍に列ねられております。道は窮まっていて,事に施そうとしても私にはその日はありません。そこで力に任せて無理に小書を著わし,自身が中を求めて得た所を記そうといたしました。)といい,「与楊海之第二書」(「柳宗元集」巻三十三)では
  今将申告以古聖人之道,…孔子曰,言忠信,行篤敬。其弟子言日,夫子温良恭倹譲以得之。今吾子日,自度不可能也。然則自亮舜以下。与子果異類耶。楽放弛而愁検局,雖聖人与子同。聖人能求諸中,以属乎己。・・ヽ聖人所貴乎中者,能時其時也。荷不適其道,則肆与佞同。…己不信於世,而後知慕中道。(今,私はあなたに繰り返し昔の聖人の道をお話しすることにしましょう。…孔子は『論語』衛霊公篇で「言葉は忠信,行いは篤敬」といい,彼の弟子たちは『論語』学而篇の中で「孔子は温・良・恭・倹・譲の徳でその地位を得られた」といってます。


  今あなたは「自らをなし得ぬ者と推量する」といわれる。そうであれば尭・舜以来の聖人は,あなたと類を異にするのでしょうか。気を緩めることを楽しみ,厳格な約束を心配するのは聖人であろうとあなたと同じです。けれども聖人は自己のあり方を中に求め,自身を励ますことができるのです。…聖人が中を貴ぶのは,それが時勢の求めに適うからです。かりそめにも時勢の求めに適った対応をとれないのであれば,その害は放肆と訥佞と同じことになります。…白分が世に信じられなくなって始めて中道を慕うようになりました。)
という。劉萬錫においても同様の状況が認められ,「袁州萍郷県楊岐山故広禅師碑」には
  素王立中枢之教,懇立大中。慈氏起西方之教,習登正覚。・・・儒以中道御群生,早言性命。(素王の孔子は中枢の教えを立て,大中を努めて立てた。仏は西方の教えを起こし,正しい覚りへと導く。…儒教は中道によって群生を御し,まれに性と命に言及する。)(前出)という。

 大中の語を巡ってこうした関係が存することから,大φ・中-・中道・中庸等の諸語は永貞革新集団の中ではあたかも同義語のごとく使用されていたど思われる。
 ならば,こうした中や中道,ないし中正・中庸の概念が永貞革新の施策上の理念に用いられた場合,それはいかなる性格のものとなったか。刮目すべきは劉爾錫が葬郎中に当てた手紙「答道州蔀郎中論書儀書」(「劉馬錫集」巻十)の中に見える政策に関する次の議論である。
  蓋三代之尚,未嘗無弊。由野以至偉,壹一日之為。漸葬使之然也。嫉其弊而救之以帰于中道,必侯乎莽紳先生徳  与位井者,掲然建明之,斯易也。(思うに夏・殷・周三代の久しい期聞においても弊害がなかったわけではない。
   「野(卑)」から発して「僑(まことがない)」状況に至る弊害は,わずか一日によってもたらされたのではない。

  次第次第にそのようになっていったのである。その弊害を疾みこれを救って中道の政治にもどすことは,莽紳先生の中でも徳と位が似つかわしい者の登場を待って,中道を掲げて政治を行ったならばたやすいことである。)文中の「由野以至僑」という三代の政治の弊害を「嫉其弊而救之以帰于中道」という主張は陸淳の「春秋啖趙集伝纂例」「春秋宗指議第一」に見える,いわゆる啖助の「忠道原情説」(゛8)を改変したもので,啖助においてそれは
予以為,春秋者,枚時之弊,革礼之薄。何以明之。前志日,夏政忠,忠之弊野。殷人承之以敬。敬之弊鬼。周人承之以文。文之弊億。救億莫若以忠。復当従夏政。〔私は思う,『春秋』は時代の弊害を救い,礼儀の薄らいだ状況を改革しようとしてる。何によってこれを明らかにするか。前志(「史記」高祖本紀賛)に「夏の政治は忠によったが,忠による政治の弊害は野卑ということである。殷は恭敬によってこの後を承けたが,恭敬の弊害は鬼(祖先崇拝の過多)ということで,周は文(華)によってこの後を承けた。文の弊害は催(誠がない)ということで,偉を款うには忠より外にない」と。再たび夏の政治に従って忠を用いるべきである。〕

のように説かれている。両者を比軟すれば,劉爾錫の政治改革の理論が啖助の忠道原情説を踏まえたものであることが明らかであって,劉爾錫が「由野以至僑」という三代の政治の弊害を「嫉其弊而救之以帰于中道」の理想に致せというのは,啖助の「忠道原情説」の「忠」の部分だけを「中道」と改めて,これを革新の目標に設定したものであることが了解されよう(柳宗元の『非国語』菊息篇では,「忠之為言中」のように,忠を中とみなす契機をその文字の構造上に読み取っているから,忠を中道と読み替えることは案外容易なことであったであろう)。おそらくは劉萬錫に限らず,永貞革新集団が奉じた大中の説というのはこのような内容のものであって,このレペルでひとまず大中の説を定義すれば「政治の旧弊を是正してこれを中道に立ち戻らせる政策,ないしその理念」ということになり,これこそが『春秋』に込められた孔子の糾正意欲であったと思わせることになろう。けれどもそれが唐朝の施策の原理に据えられ政治改革の理念として用いられると,大中の語はそれが「春秋」の釈義である部分を退色させ,ただ革新の中核をなす「中」や「中道」の部分だけを際立たせることになったであろう。だからこそ,革新政策の断行時にはやたら中や中道の語が用いられ,共に永貞革新に従事した韓嘩を劉爾錫は「韓宣英,好実路中之士也(韓嘩は実を好み中を実践した士である)」(「答饒州元使君書」r劉高錫集」巻十)と称え,白らも「吾姑欲求中道耳(私はしばらく中道を追い求めるのみだ)」(「論書」同上巻二十)と,中道を追い求める自己の心情を述べて憚らない(゜1o)。


四 大中の脱と竟・舜の治績

 大中の説が永貞革新のス,ローガンとして成立してくる過程には今一つ特別な要因があって,その点も併せて考察しておく必要がある。
 いったい,「春秋」の解釈上に始めて「中」を持ち出したのは誰であるかを特定するのは難しいが,永貞革新の時期に限定すれば陸淳をおいて外にない。柳宗元によれば,自己に中庸の哲理を諭してくれたのは先に見たように呂温であるが,その呂温の師の陸淳の「春秋」解釈の中にすでに中の概念が見えている。
 南宋の道学者胡安国の「春秋伝」=通称『春秋胡氏伝』の荘公三十一年の「秋,七月契已公子牙卒」の条には  陸淳日,季子恩義具立,変而得中。夫子書其白卒,以示無識也。(陸淳日はく,季子恩義具に立ち,変じて中を得たり。夫子其の自ら卒するを書すは,以て畿り無きを示すなりと。)という。経文の「公子牙卒」というのは,『公羊伝』によれば,君に対して殺意を抱いた公子牙に同母弟の季氏が毒薬を与えて自殺させたということで,その行為は洙殺にも等しい。にも拘わらず,「春秋」がそれを「公子牙卒」と記し,病によって死んだ書き振りにしたのは,謀反人である以上これを珠殺しなければならない君臣問の道義と,兄を罪することを避けたいとする肉親間の恩愛の情を同時に成就させた行為として称揚してのことである,という。その「君臣の道義」と「肉親の恩愛」の情を傷つけることなく,変則的に事を処置した季氏の行為を,陸淳は「変じて中を得た」行為,すなわち通常を変更して中正を得た行為とみなして,「春秋」が「公子牙卒」と記したことを,孔子が「中」の原理によってその事件の性質を価値判断したとみなしたのである。陸淳白身の「春秋」解釈が今日に伝わる例は極稀であるが,そのわずかな例が「中」説であることは中を『春秋』の解釈に据えるのはやはり陸淳によって創始されたことを思わせていよう。だからこそ柳宗元は陸淳を称して「明章大中,発露公器(大中の道理を明らかにされ,公器の何たるかを露わにされた)」(「文通先生陸給事墓表」「柳宗元集」巻九)と述べるのであるJ1)。
 翻って呂温である。呂温は陸淳に師事して直接に陸淳の春秋学を学んだ者であるが,彼には『春秋』に関する著述がない。それでいて「中庸」に関しては彼の「望思台銘」(「呂和叔文集」巻ハ)に次のような記述が見えている。
  夫立人之道,本乎情性。生而知日性,感而動曰情。性雖生情,情或滅性。是以聖人患其然向為z節。諏向明Z,而庸之,建以大倫,統以至順。(そもそも,人の道を立てるには,情・性を拠り所とする。生まれつき知って  いるのを性といい,他物に感じて内に動く意識を情という。性は情から生まれているが,情は性を滅ぼすことも  ある。そこで聖人はそうした状況を憂えて性と情の関係に節限を設けられた。すなわち誠によって人の徳性を明らかにし,中庸によって人の行いに恒常性を与えることであり,大倫によって人倫を立て,至順の徳によって人の行いを統べるのである。)と。人の道を立てようとする場合,その道は人の情に適ったものでなければならないが,その情は先天的に具わる性が感動して産み出したものでありながら,性そのものを滅ぼしかねないこともある。そこで聖人はそうならしめないように情の発動に対しては節度を設けたのであり,その節度の働きに相当するのが中庸の能力であり,誠の作用(「中庸」の誠観に由来する)である,というのである。

 こうした意昧での中や中噺,ひいては中道や中正の説がそのまま柳宗元や他の永貞革新集団員に継承されて,徳宗代に積もりつもった政治の悪弊の刷新へと向かわせたことはすでに見たところである。ならば,中や中庸等の諸概念が政治思想へと展開する契機はどこにあったのか。想起すべきは「論語」亮日篇中の次の一文であろう。

  亮日,杏爾舜。天之暦数,在爾躬。允執其申。(尭日はく,杏,爾舜。天の暦数,爾の躬に在り。允に其の中を執れと。)
これは,その位を臣下の舜に譲らんとする売が舜に与えた命辞であって,政治の要諦が「中」を執政の原則に据える点にあることを知らしめ,その実践を強く舜に促すものである。「論語」(同上)がこの後に「舜亦以命萬(舜も亦以て高に命ず)」といえば,この「中」を執政の原則に据える発想は亮・舜・高の聖世を支えた政治理念でもあって,そのことは「(古文)尚書』大萬膜篇中に
  舜日,来,両。…天之暦数,在汝躬。…允執薮中。(舜日はく,来れ,爾。…天の暦数,汝の躬に在り。…允に阪の中を執れ。)
と見えている。そうであれぱ,この中を執政の原則に裾える発想は奥・舜・鴎の聖世を支えた施策原理でもあって,尭の唐陶氏と同じ「唐」を国名とする現在の唐王朝にとっては,現時下を売舜の聖世にいたさんとする意識が増大するにつれ,その政策としての導入は,俄然求められる性質のものである。それかあらぬか,晩年の柳宗元は永貞革新に従事して犯罪者となり果てた自己を回顧した折り
宗元早歳,与負罪者親善。始奇其能,謂可以共立仁義,袴教化。過不自料,勲勲勉励,唯以中正信義為志,以興
亮舜孔子之道,利安元元為務。(私は早年に罪を負った王叔文と親しかった。始め彼の能力を奇とし「ともに仁義を立て社会の教化に袴益できる」といい,白信に過ぎて白己の力量を思わなかった。ひたすら黙勲に励み,ただ中正と信義を志しとし,売・舜・孔子の道を興して,万民を安んじ富ませることを務めとしていた。)(「寄許京兆孟容書」「柳宗元集」巻三十)
と述懐し,「中正信義」を旨として亮・舜の治績の再来を目標に,政務に当たっていた事実を述べている(`2)。しかも,その柳宗元は,永貞革新集団中,特に中に言及することが多いのであるが,その場合,その表現は
  慎守其常,確執晰中…(「上権徳輿補閥温巻啓」「柳宗元集」巻三十六)
  執中而侯命与,固仁聖之善謀。…探藪中号(「佩傘賦」「柳宗元集」巻二)
のように「論語」やr尚書」,なかんずく「(古文)尚書」の場合と同様になることが多い。このことは,柳宗元の意識を通じてみた場合,永貞革新集団による革新政策の断行は,「論語」や「(古文)尚書」中に見える尭・舜・馬の施策の原理「允執藪中」を自らの施策の理念に裾え,その内実を中道や中庸・中正に置き換えて実践していたことを物語るであろう。
 尭・舜・鴎の中がならばなぜ中道や中庸・中正に派生しているのかは,「論語」亮日篇に付された清儒劉宝楠の注が示唆的である。

  中庸日,舜其大知也与。執其両端,用其中於民。執而用中,舜所受売之道也。用中即中庸。…中庸之義,自売発之。其後賢聖論政治学術,咸本此矣。(「中庸」に言う,「舜は其れ大知なるか。其の両端を執り,其の中を民に用ゐる」と。執づて中を用いたのは,舜が尭から受けた道である。中を用いるとは中庸のことである。…中庸の
  語義は尭から発している。その後の賢聖が政治や学術を論じた場合,いずれもこれに本づけるのである。)(「論語正義」巻二十三)
と。これに拠れぱ,舜が中を民に用いたのが中庸の本義であって,中庸とは本来舜の施策上の原理あったことになる。その意味での中庸を記す一篇,すなわち「礼記」中庸篇に申正・中道も等しく見えていることから,これらも中庸と同じく中の施策圏内に包括されて,尭・舜・萬の施策原理ど見なされ,永貞革新集団の奉ずる大中の説の中に組み込まれているのであろう(「中庸」が「大中の説」に包括されて施策上の原理となっていることにはいささか違和感をおぼえるが,啖助らの春秋学の影響を蒙っている程伊川は「中者只是不偏,偏則不是中。庸只是常,猶言中者是大中也。庸者是定理也」「河南程氏遺書」巻第十五と,中庸の中を「大中」に比擬している)。この時,中庸や中道・中正を「中」ではなく「大中」で括ったのは,恐らくは『春秋公羊伝』の「大一統」の術語に倣ったのであろうが,かくして大中とその価値概念を肥大化させた大中の語は,これを言い立てる側の情熱を受けて,彼らの推進する致策が亮・舜の治績を再来させる高邁な目的によって進められていることの徴表ともなった。かつ,こうした意昧での中が「論語」にも記されている事実は,中道や中庸を施策の原理に据える理想が,孔子によって発見された亮・舜・爾の聖世の秘訣でもあったとの理解をもたらし,この語を使用する側にとっては,孔子の理想を自己の現実に投影ざせる契機ともなったであろう。
 ただし,このように見た場合,彼らの大中の思想は啖助や陸淳等の新春秋学と結びっかなくなるのではないかとの疑念を生じさせるかもしれないが,今の場合,特に注意すべきことは,実は啖助から陸淳へ伝わった春秋学の系譜は陸淳において大きく変化して,『春秋』に込められた孔子の理念を追究することからは翻って,「春秋」に込められている惑・舜の理想的政治を実現させることに目標が改められているいるということ,従って柳宗元等の永貞革新に従事して亮舜の治績の再来を目指したのは,紛れもなく陸淳等の春秋学の実践であったということである。
 陸淳が直弟子の呂温に常に語ったのが「子非入吾之域,入亮舜之域。子非観吾之奥,観宣尼之奥(あなたは私のような者の域に入るのではなく,売・舜の域に入りなさい。あなたは私のような者の奥を見るのではなく,孔子の奥を見なさい)」(「祭陸給事文」「呂和叔文集」巻ハ)ということであり,陸淳の没後,師の陸淳に代わって陸淳の「春秋啖趙集伝纂例」等の著述を朝廷に奉呈した呂温がその上奏文で「先師所以祖述奥舜,志在春秋(先師陸淳が亮・舜を祖述されたのは,その意図が「春秋」にございます)」(「代国士博士進集注春秋表」同上巻八)というのは,陸淳の春秋学がもはや「春秋」の経義の所在を亮舜の治績の再来に見定めて,その実践を企図していたことを如実に伝えるものである。かつて指摘したところではあるが,こうした「春秋」釈義の創出は,実は陸淳の創意によるものではなく,啖助の春秋学がもたらした帰結にほかならない。先に掲げた啖助の原情忠道説はその後ただちに
  夫子傷之日,虞夏之道,寡怨於民,殷周之道,不勝其弊。又日,後代雖有作者,虞帝不可及已。蓋言唐虞之淳化。
  難行於季末,夏之忠道,当変而致焉。〔孔子はこうした状況を傷んでいった。「(唐や)虞・夏の政治は民に恨まれることはなかったが,殷・周の時代の政治は,その弊害にたえなかった」と。又,「後世,新たに聖人が登場したとしても,(唐の売帝)虞の舜帝ほどにはなりえまい」ともいった。思うに唐・虞の時代の淳化の政治は。
  季末の世相では行われがたいもので,(季末の現在では)夏の忠道こそが,当代に合うように変えて用いるべきものである。〕(『春秋啖趙集伝纂例』「春秋宗指議第一」)
と,夏代の忠義は唐虞の淳化の政治が行われ得ないやむを得ない場合の措置であるといって,本来は尭舜の淳化の政治こそが孔子の理想であった,という素志を覗かせている(・13)。それにも拘わらず,啖助が夏代の忠義を「春秋」中より見出さねばならなかったのは,啖助の時代が安史の乱後のまもない時であってなお乱世の世相を呈し季末の世を思わせたからであり,陸淳によって,その解釈が変更され,亮舜の治績の再来が『春秋』に託された孔子の理念として読み取られたのは,陸淳の時代にはすでに安史の乱が治まって,世相に幾分の平穏感が漂い始めたからである自4)。
そうであれば,柳宗元等の革新集団に亮舜の治績の再来を実現するよう仕向けたものは,陸淳を遡って啖助にその濫癈を認めなければならないのである。









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