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  韓愈の生涯  

2-4 四門博士



2-4 四門博士 貞元一八(802)年〈三五歳〉 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   87
802年貞元18年35歳  初句  
802年 春、四門博士になる。  
洛陽に旅行し、華山を遊覧する。  
《昌黎先生集/卷1-2.8夜歌》 靜夜有清光,
《昌黎先生集/卷19-8送陸歙州詩序》【案:從《文集》?入。】 我衣之華兮,
《昌黎先生集/卷14-7??議》 或作??。
《昌黎先生集/卷37-3論今年權停舉選?》 右,臣伏見今月十日敕,
《昌黎先生集/卷24-3施先生墓銘》 貞元十八年十月十一日


2-4 四門博士


 翌貞元十八年(802)、三十五歳の春、愈はついに念願を果たして任官の辞令をもらうことができた。職は四門博士という。
 当時、長安には国立学校が設置されていた。これを国子監という。後世、学校制度が整備されるにつれて、各府・州・県にも学校が設けられるようになったが、唐代の正規の学校は、国子監一つしかない。そして国子監の中は国子学・太学・四門学・律学などの学校に分れる。各学校には博士と助教がそれぞれ一名ないし三名いて、教育にあたる。つまり四門博士とは、国立大学の教授であり、四門学を担当する職であった。
 国子監に入学するには、試験はない。在学年限だの必修単位だのという、うるさい規則もない。学生は好きな博士や助敦の講義に出席すればよいだけである。そのかわり、卒業しても称号がもらえるわけではなく、就職に有利ということもない。特典は一つだけ、ここの学生になっていれば、科拳を受けるとき、州・県からの推薦は不要とされていることであった。ただし、入学に制約はあるので、国子学・太学などと学校が分れているのは、親の官位に対応する。すなわち、三品(日本風にいえば三位)以上の地位にある人の子弟は国子学に入り、五品以上の人の子弟は太学に、七あきら蘋以上の人の子弟は四門学に、ハ品以下の人の子弟は律学に入ることという原則があった。
 だから、太学を出たか四門学を出たかは、家がらの差になるわけであるが、いずれにしても進士の科を受け、及第してしまえば、あとは本人の実力しだいであり(とは、表むきの話である。実際には、家がらがものを言う場合もあったろうが)、それまでの差は問題にならない。国子監を出ていない受験生にとっても、同じことである。
 都で教育を受けることは、科挙を受験するときに多少の有利が考えられよう。ただ、多少のというだけで、格別に有利なわけではない。国子監は科拳のための予備校ではないのである。しかも、その敦授には愈のような、進士の科に何度も落ち、博学鴻辞の科にはとうとう合格できなかったような人物が任命される。それでも四門博士がつとまると吏部では判断したわけで、つまりは四門学の教育を、その程度でよいと考えていたことになる。そうなれば学生の方も、学校での授業は適当にしておいて、科挙のための勉強は、家庭教師でも頼んで指導してもらった方が、実際には効果があると考えるのであった。
 四門博士は、四門学の中では一番えらい職だが、エリートコースでは断じてない。だいたいは年をとるまで教育に明け暮れ、世事にうとくなるものであって、将来の宰相を目ざす「大器」の場合には、こんな職にはつかす、どこか行敢官庁の課貝に配属され、実務を訓練されるものであった。愈にしてみても、この任命を受けたときは、まじめに勤務してもう一つ上の太学の博士、さらには国子学の博士へと昇進するぐらいが出世の行きどまりと考えたことであろう。博学鴻辞の科というエリートの関門を通っていないのだから、それも当然なのである。
 さきざきの出世は望めないにしても、ともかく官職が得られれば、生計の目算も立つ。愈は辞令をもらうとすぐに休暇をとり、洛陽に帰った。首を長くして待ちわびていたであろう一家の人々を遅れ、長安に定住するつもりなのである。
 たぶんその時のことと思われるが、愈は長安と洛陽の中間にある華山に登った。標高二二〇〇米、五岳の一つに数えられる名山である。無事に絶頂をきわめたが、帰ろうとすると、下りられなくなった。登りにはさほどにも感じられなかった崖が、下ろうとすると険しく見えたのであろう。披は 「発狂慟哭」し、党悟をきめて妻子に遺書を書いた。そのうちに土地の県令が救援隊を出してくれたので、ようやく助けおろしてもらうことができた(唐国史袖)。
 この小さな遭難事件にも見られるように、当時の愈は、死に対する恐怖を必要以上に抱いていた。前年、老成へ送った手紙にもそれは現れているが、この年、同年の友(同時に進士の科に及第した受験生たちは、たがいに「同年」と呼び、友人として交際するのが慣例であった)の崔群へあてた手紙にも言っている《昌黎先生集/卷17-4與崔群書》(韓文一七、崔群に与ふる書)。
 自分は生活に苦しみ、どうやら官職にはありついたが、決して楽にはなっていない。それに、近ごろでは特に疲れやすくなり、左の門歯が虫歯でもないのに抜け落ちた。目もかすみ、ふだんは人の顔もよく見わけられないほどである。髪も五分の一は白く、瓢にも白いものが一本か二本見える。
「僕の家は不幸にして諸父。・諸兄皆康強なりしも早世せり。僕の如き者、又以て久長を図る可けんや。此を以て忽忽たり」。
 健康ももとより問題だが、四門博士とはなったものの、生活はいっこうに楽にならないと訴えたのは、正直なところだったであろう。当時の役人は、家に資産があれば別だが、俸禄だけで生活しようとすれば、たいへんな苦労だったらしいのである。かつて左拾遺の職にあった杜甫も(これは四門博士より高い地位だが)、着物を質に入れて洒を買ったと、その「曲江詩」にうたっている。しかも、行政職ならば、たとえば業者からのつけ届けのたぐいがある。当時の常識では、これは賄賂とは考えない。四門博士のような教育職には、そうした「うまみ」もなかった。
 その年の七月、愈は工部尚書兼山南東道節度使の于傾にあてて手紙を送った《昌黎先生集/卷17-3與於襄陽書》(韓文一七、于襄陽に与ふる書)。この手紙は、およそ当世に名を顕わす士には、必ず天下の声望をになった「先達の士」がいて導くものであり、後世に名を残す士には、必す天下の声望をになった「後進の士」がいて後を継ぐものだという、彼一流の大議論から始まる。
 ただし、于傾に議論を吹きかけたいのではない。言いたいのは、于が「先達の士」であり、自分が「後進の士」となる関係を結ばせてほしい希望なのである。「闇下」(あなた)は「不世出の才」を抱いたお方だが、その幕僚に有能な「後進の士」があるとは聞いていない。自分がそれになって。 「闇下」の名を後世に残してさしあげたい、というのは、つまり于が「先達の士」となって、自分をひきたててもらいたい。しかも、「愈、今、惟れ朝夕の穏米僕賃の資を是れ急とす。閤下一朝の享に過ぎすして足るなり」。つまり自分は一日の生活費にも困っているが、それはあなたの一食分にも当らない金額だから、恵んでほしい‘というのである。
 愈は、どうやら四門博士に見きりをつけ、もう一度節度使の募僚になるつもりだったようである。四門博士の俸給は安いし、長安は物価が高い。募僚は、節度使の顔色をうかがわなければならないが、地方行敢の実際にタッチするため、役得も多いはずであった。于順がこの手紙を読んで、それならわしの募府に来いと招いてくれれば最上だが、せめて同情して、多少の生活費を恵んでくれるだけでもよい。議論は壮大だか、実のところは、なりふりをかまってはいられなかったのである。しかし、彼の官職に変動が生じていない事実から見ると、于顔は披を募下に招いてはくれなかった。
あるいは多少の援助をしてくれたかもしれないが、現存する資料からは確認できない。
 しかし、一方で有利な職を求めながらも、愈は四門博士の職をおろそかにはしていなかった。この年の科挙にあたり、彼は副考の陸俳という人に手紙を送って、侯喜以下十人の人物を推薦している《昌黎先生集/卷17-10與祠部陸員外書》(韓文一七、祠部陸員外に与ふる書)。推薦状としてきわめて熱意のこもったものであり、そのためかどりかはわからないが、十人のうち四人がめでたく及第し、あとの五人は以後の四年間に次々と汲第した。
 侯喜は李卸などと同じく、早くから愈の敦えを受けていた弟子なので、このときの推薦に見える十人がすべて四門の学生であったとは限らない。しかし、すぐれた受験生を副考や主考に推薦する
のも、四門博士の職務のうちである。その中に自分の個人的な弟子を書き加えたのでは、いささか
公私を混同した気味はあるけれども、目くじらを立てるほどのことではあるまい。
 愈が推薦したうちの半数近くがその年に及第し、四年間に九割までが及第したのは、必すしも愈
の力によるばかりではなかったかもしれない。だが、。こうした情報に敏感なのは受験生の常である。
愈に推薦してもらえば及第の確率が高くなるとは、誰もが考えたであろう。そこで、四門学の学生ばかりでなく、個人的にも愈の指導を受けたいと願う者が多くなった。
 四門の学生を教えるのは、意にとって当然の職務である。しかも前述のように、学生たちは六‘ヽ品・七晶という、高級官僚のうちでは中の下に属する人々の子弟であった。意の父の仲卿も従六あきら品上であったから、愈は自分の家格と同じ程度の人の子を敦えたことになる。いきおい、指導にも熱が入ったであろう。もっとも披のことだから、受験の指導はしない。教えるのは自分が信ずる「古文」であったが、それに落第生としての休験も加わったはずである。学生にとっては参考になったであろう。
 私的に門弟の列に加わりたいと願う者をも、愈は排除しなかった。彼の親分肌の性格はだんだん顕著になってくる。それに、披が理想と仰ぐ「いにしえ」には、孔子も孟子も、門弟を集めて教えた。今の世でも同じことをやってみたいという心が、彼の胸中に大きくなって行ったであろう。私的な門弟となれば、当然に束修、すなわち謝礼をさし出すべきである。それが愈の家計の幾分かを劫けたことはあったかもしれないが、束修が目あてで弟子を取ったと言ったら、愈は怒ることであろう。一の弟子であった李翔などは貧乏で、束修を出すどころか、意に世話をしてもらったこともあるらしい。金がほしいだけなら、弟子を集めて指導することはないと、愈は言いたかったである。
 しかし、ここが当時の世の中では問題になった。だいたい、師弟などという関係は一般的でなかったのである。このあたりの事情は、柳宗元が説明してくれている《答韋中立論師道書》(柳文三四、阜中立に与へて師道を論する書) 柳宗元によれば、孟子が「人の胆いは好んで人の師とかるにがり」と言ったのが後世の人々を拘束して、魏晋以後は、師になろうとする者がなくなった。今の世では、師があるという話を聞かない。師だと名のる者があれば、みなが笑いものにして、狂人だと言う。ところが韓愈だけは世間の風潮にかまわす、「後学を収召して」師と自称した。世の人々は果たして怪しむ者、罵る者ばかりで、愈は「是を以て狂名を得たり」。
 たしかに、他人より少し知識があり、少し技術かすぐれていると、師匠づらをして敦えたがるのが人情の常である。それが見苦しいからと、人はなるべく師匠づらをしないようになった。教えを乞いに来る人があっても、私は人の師となるほどの者ではないと言ってことわれば、奥ゆかしく見えるものである。ただし、これにはかなり貴族趣味的な感覚が働いているのであって、人の師になるのは野暮なことという観念が付随していたように思われる。だから、愈のようにまだ四十にもならない若僧で、さほど身分も高くない男が、師匠づらをして門弟を集めるのは、普通の神経では考えられない、つまり狂人だということになるのであった。
 攻撃を受ければ黙っていられないのが、意の性分である。この年より一年か二年前になると推定されるが、彼は若い弟子の一人に書き与える形をとって、「師の説」(韓文一二)を書いた。
 その中で、彼は言う。今の世で師と称する者には二種類ある。一つは子供たちに手習いを教える寺子屋の師匠、一つは祈躊師・音楽師などの師匠で、これらはたしかに必要なものとして、世間も公認するところである。ところが士大夫の間で、師とか弟子とか言う者かあると、寄ってたかって笑いものにする。なぜかといえば、師と弟子の間に年齢の差があまりないから、おかしいと答える。
また、師の官位が低ければ、そんな師を持つのは恥すかしいことだし、師の官位が高いと、師と仰
いで近づくのはゴマをすっているように見えるとも答える。
 しかし、これらはすべて誤りだと、愈は説く。士大夫たる者のつとめは、「道」を知ることである。「道」を知る人について学ぶことに、伺のさしつかえもない。「道」を知る人が、あるいは自分より若く、自分より地位が低いこともあろうが、いやしくも「道」を学ぼうとするからには、そんなことは問題にならない。「是の故に貴と無く賤と無く、長と無く少と無く、道の存する所は、師の存する所なり」。
  「道」を学ぶのは人生の大事である。本の読み方を知らない子供が寺子屋の師匠につき、音楽師などが師匠について技術や藷能を学ぷのは容認しながら、「道」だけは独学しろと言うのか。それでは「聖はますます聖に、愚はますます愚」になるだけのことであろう。師は絶対に必要なものなのだ。
この議論は、なるほど筋は通っている。しかし、当時の人々を完全に納得させることはできなかったであろう。愈の主張には、「道」を学ぷことが人生の大事であるとする大前提があった。「道」が重要である点では、当時の人々にも異論はあるまい。ただ、愈がそれを教えて人の師となるところに、問題かあった。世間の人々は、それならば愈は「道」を知っているのかと反問するであろう。そして愈は、知っていると胸をそらせて答えるであろう。するともう一度、「道」を知っているのなら聖人の域に達したわけで、おまえは聖人のつもりかと反問が出るであろう。そうではない。
「道」を知るとは古典の中に没入し、少しでも聖賢の教えを理解することだと愈は答えろであろうが、たぶんそれは、世間の人々には通用しまい。こうして議論は平行線をたどり、嘲笑の声が大きくなるのに比例して、愈の態度も頑固になるのであった。



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與崔群書
自足下離東都,凡兩度枉問,尋承已達宣州,主人仁賢,同列皆君子,雖抱羈旅之念,
亦且可以度日,無入而不自得。樂天知命者,固前修之所以禦外物者也。況足下度越
此等百千輩,豈以出處近遠,累其靈台耶?宣州雖稱清涼高爽,然皆大江之南,風土
不並以北,將息之道,當先理其心,心間無事,然後外患不入,風氣所宜,可以審備,
小小者亦當自不至矣。足下之賢,雖在窮約,猶能不改其樂,況地至近,官榮祿厚,
親愛盡在左右者耶!所以如此雲雲者,以為足下賢者,宜在上位,托於幕府,則不為
得其所,是以及之,乃相親重之道耳,非所以待足下者也。
仆自少至今,從事於往還朋友間,一十七年矣,日月不為不久。所與交往相識者千百,
人非不多;其相與如骨肉兄弟者,亦且不少。或以事同,或以藝取,或慕其一善,或
以其久故,或初不甚知,而與之已密,其後無大惡,因不複決舍,或其人雖不皆入於
善,而於己已厚,雖欲悔之不可。凡諸淺者,固不足道,深者止如此。至於心所仰服,
考之言行,而無瑕尤,窺之?奧,而不見畛域,明白淳粹,輝光日新者,惟吾崔君一
人。仆愚陋無所知曉,然聖人之書,無所不讀,其精粗巨細,出入明晦,雖不盡識,
抑不可謂不?其流者也。以此而推之,以此而度之,誠知足下出群拔萃,無謂仆何從
而得之也。與足下情義,寧須言而後自明耶!所以言者,懼足下以為吾所與深者多,
不置白K於胸中耳。既謂能粗知足下,而複懼足下之不我知,亦過也。比亦有人?足
下誠盡善盡美,抑猶有可疑者。仆謂之曰:「何疑?」疑者曰:「君子當有所好惡,
好惡不可不明。如清河者,人無賢愚,無不?其善,服其為人,以是而疑之耳。」仆
應之曰:「鳳凰芝草,賢愚皆以為美瑞;青天白日,奴隸亦知其清明。譬之食物,至
於遐方異味,則有嗜者,有不嗜者。至於稻也,粱也,膾也,炙也,豈聞有不嗜者哉?」
疑者乃解。解不解,於吾崔君,無所損益也。
自古賢者少,不肖者多。自省事以來,又見賢者恒不遇,不賢者比肩青紫;賢者恒無
以自存,不賢者誌滿氣得;賢者雖得卑位,則旋而死,不賢者或至眉壽。不知造物者
意竟如何,無乃所好惡與人異心哉?又不知無乃都不省記,任其死生壽夭耶?未可知
也。人固有薄卿相之官、千乘之位,而甘陋巷菜羹者。同是人也,猶有好惡如此之異
者,況天之與人,當必異其所好惡無疑也。合於天而乖於人,何害?況又時有兼得者
耶?崔君崔君,無怠無怠!
仆無以自全活者,從一官於此,轉困窮甚,思自放於伊、潁之上,當亦終得之。近者
尤衰憊,左車第二牙,無故搖動?去;目視昏花,尋常間便不分人顏色;兩鬢半白,
頭發五分亦白其一,須亦有一莖兩莖白者。仆家不幸,諸父諸兄皆康強早世,如仆者,
又可以圖於久長哉?以此忽忽,思與足下相見,一道其懷。小兒女滿前,能不顧念!
足下何由得歸比來?仆不樂江南,官滿便終老嵩下,足下可相就,仆不可去矣。珍重
自愛,慎飲食,少思慮,惟此是望。愈再拜。



與於襄陽書
七月三日,將仕郎守國子四門博士韓愈,謹奉書尚書閣下:士之能享大名顯當世者,
莫不有先達之士負天下之望者為之前焉;士之能垂休光照後世者,亦莫不有後進之
士負天下之望者為之後焉。莫為之前,雖美而不彰;莫為之後,雖盛而不傳。是二
人者,未始不相須也,然而千百載乃一相遇焉;豈上之人無可援,下之人無可推歟?
何其相須之殷,而相遇之疏也?其故在下之人負其能,不肯諂其上,上之人負其位,
不肯顧其下,故高材多戚戚之窮,盛位無赫赫之光,是二人者之所為皆過也。未?
幹之,不可謂上無其人;未?求之,不可謂下無其人。愈之誦此言久矣,未?敢以
聞於人。側聞閣下抱不世之才,特立而獨行,道方而事實,卷舒不隨乎時,文武唯
其所用,豈愈所謂其人哉?抑未聞後進之士,有遇知於左右,獲禮於門下者,豈求
之而未得耶?將誌存乎立功,而事專乎報主,雖遇其人,未暇禮耶?何其宜聞而久
不聞也!愈雖不才,其自處不敢後於恒人,閣下將求之而未得歟?古人有言:「請
自隗始。」愈今者惟朝夕芻米仆賃之資是急,不過費閣下一朝之享而足也。如曰吾
誌存乎立功,而事專乎報主,雖遇其人,未暇禮焉,則非愈之所敢知也。世之齪齪
者,既不足以語之,磊落奇偉之人,又不能聽焉,則信乎命之窮也。謹獻舊所為文
一十八首,如賜觀覽,亦足知其誌之所存。愈恐懼再拜。



與祠部陸員外書
執事好賢樂善,孜孜以薦進良士、明白是非為己任,方今天下,一人而已。
愈之獲幸於左右,其足跡接於門牆之間,升乎堂而望乎室者,亦將一年於今矣。
念慮所及,輒欲不自疑外,竭其愚而道其誌,況在執事之所孜孜為己任者,得
不少助而張之乎?誠不自識其言之可采與否,其事則小人之事君子盡心之道也。
天下之事,不可遽數,又執事之誌,或有待而為,未敢一二言也。今但言其最
近而切者爾:
執事之與司貢士者相知誠深矣;彼之所望於執事,執事之所以待乎彼者,可謂
至而無間疑矣。彼之職在乎得人,執事之誌在乎進賢,如得其人而授之,所謂
兩得其求,順乎其必從也。執事之知人,其亦博矣,夫子之言曰「舉爾所知」,
然則愈之知者,亦可言已。文章之尤者,有侯喜者、侯雲長者。喜之家,在開
元中,衣冠而朝者,兄弟五六人,及喜之父仕不達,棄官而歸。喜率兄弟操耒
耜而耕於野,地薄而賦多,不足以養其親,則以其耕之暇讀書而為文,以幹於
有位者,而取足焉。喜之文章,學西京而為也,舉進士十五六年矣。雲長之文,
執事所自知。其為人淳重方實,可任以事,其文與喜相上下。有劉述古者,其
文長於為詩,文麗而思深,當今舉於禮部者,其詩無與為比,而又工於應主司
之試。其為人?良誠信,無邪佞詐妄之心,強誌而婉容,和平而有立。其趨事
靜以敏,著美名而負屈稱者,其日已久矣。有韋群玉者,京兆之從子,其文有
可取者,其進而未止者也,其為人賢而有才,誌剛而氣和,樂於薦賢為善。其
在家無子弟之過,居京兆之側,遇事輒爭,不從其令而從其義,求子弟之賢而
能業其家者,群玉是也。凡此四子,皆可以當執事首薦而極論者。主司疑焉,
則以辯之;問焉,則以告之;未知焉,則殷勤而語之。期乎有成而後止可也。
有沈杞者、張{艸宏}者、尉遲汾者、李紳者、張後餘者、李翊者,或文或行,
皆出群之才也。凡此數子,與之足以收人望、得才實,主司疑焉則與解之,問
焉則以對之,廣求焉則以告之可也。
往者陸相公司貢士,考文章甚詳,愈時亦幸在得中,而未知陸之得人也。
其後一二年,所與及第者,皆赫然有聲,原其所以,亦由梁補闕肅、王郎中礎
佐之。梁舉八人,無有失者,其餘則王皆與謀焉。陸相之考文章甚詳也,待梁
與王如此不疑也,梁與王舉人如此之當也,至今以為美談。自後主司不能信人,
人亦無足信者,故蔑蔑無聞。今執事之與司貢士者,有相信之資、謀行之道,
惜乎其不可失也!
方今在朝廷者,多以遊宴?樂為事,獨執事眇然高舉,有深思長慮,為國家樹
根本之道。宜乎小子之以此言聞於左右也。愈恐懼再拜。



答韋中立論師道書
作者:柳宗元 唐
《全唐文/卷0575》
二十一日,宗元白:辱書雲欲相師,仆道不篤,業甚淺近,環顧其中,未見可師者。
雖?好言論,為文章,甚不自是也。不意吾子自京師來蠻夷間,乃幸見取。仆自卜
固無取,假令有取,亦不敢為人師。為?人師且不敢,況敢為吾子師乎?
孟子稱「人之患在好為人師」。由魏晉氏以下,人益不事師。今之世不聞有師,有
輒嘩笑之,以為狂人。獨韓愈奮不顧流俗,犯笑侮,收召後學,作《師?》,因抗
顏而為師。世果群怪聚罵,指目牽引,而昜o為言辭。愈以是得狂名,居長安,炊
不暇熟,又挈挈而東,如是者數矣。屈子賦曰:「邑犬群吠,吠所怪也。」仆往聞
庸蜀之南,恒雨少日,日出則犬吠,予以為過言。前六七年,仆來南,二年冬,幸
大雪逾嶺,被南越中數州,數州之犬,皆蒼?吠噬,狂走者累日。至無雪乃已.然
後始信前所聞者。今韓愈既自以為蜀之日,而吾子又欲使吾為越之雪,不以病乎?
非獨見病,亦以病吾子。然雪與日豈有過哉?顧吠者犬耳。度今天下不吠者幾人,
而誰敢衒怪於群目,以召鬧取怒乎?
仆自謫過以來,益少誌慮。居南中九年,?氣病,漸不喜鬧,豈可使呶呶者早暮
?吾耳、騷吾心?則固僵仆煩?,逾不可過矣。平居望外,遭齒舌不少,獨欠為人
師耳。
抑又聞之,古者重冠禮,將以責成人之道,是聖人所尤用心者也。數百年來,人不
複行。近有孫昌允者,獨發憤行之。既成禮,明日造朝,至外廷,薦笏言於卿士曰:
「某子冠畢。」應之者鹹憮然。京兆尹鄭叔則怫然曳笏卻立,曰:「何預我耶?」
廷中皆大笑。天下不以非鄭尹而怪孫子,何哉?獨為所不為也。今之命師者大類此。
吾子行厚而辭深,凡所作,皆恢恢然有古人形貌,雖仆敢為師,亦何所揄チ也?
假而以仆年先吾子,聞道著書之日不後,誠欲往來言所聞,則仆固願悉陳中所得者。
吾子苟自擇之,取某事,去某事,則可矣。若定是非以教吾子,仆才不足,而又畏
前所陳者,其為不敢也決矣。吾子前所欲見吾文,既悉以陳之,非以耀明於子,聊
欲以觀子氣色,誠好惡何如也。今書來,言者皆大過。吾子誠非佞譽誣諛之徒,直
見愛甚故然耳。
始吾幼且少,為文章,以辭為工。及長,乃知文者以明道,是故不苟為炳炳??,
務采色、誇聲音而以為能也。凡我所陳,皆自謂近道,而不知道之果近乎,遠乎?
吾子好道而可吾文,或者其於道不遠矣。故吾?為文章,未?敢以輕心掉之,懼其
剽而不留也;未?敢以怠心易之,懼其弛而不嚴也;未?敢以昏氣出之,懼其昧沒
而雜也;未?敢以矜氣作之,懼其偃蹇而驕也。抑之欲其奧,揚之欲其明,疏之欲
其通,廉之欲其節,激而發之欲其清,固而存之欲其重,此吾所以羽翼夫道也。
本之《書》以求其質,本之《詩》以求其恒,本之《禮》以求其宜,本之《春秋》
以求其斷,本之《易》以求其動,此吾所以取道之原也。參之穀梁氏以資エ氣,參
之《孟》《苟》以暢其支,參之《莊》《老》以肆其端,參之《國語》以博其趣,
參之《離騷》以致其幽,參之太史以著其潔,此吾所以旁推交通而以為之文也。凡
若此者,果是耶,非耶?有取乎,抑其無取乎?吾子幸觀焉,擇焉,有餘以告焉。
苟亟來以廣是道,子不有得焉,則我得矣,又何以師雲爾哉?取其實而去其名,無
招越、蜀吠怪,而為外廷所笑,則幸矣!宗元複白。




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