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  韓愈の生涯  

1-8 第二の挫折




1-8 第二の挫折

 前にも引用した、愈の崔立之あての書簡《昌黎先生集/卷16-5答崔立之書》を、もう一度引いてみる。こんどは進士に及第した後のことを述べた部分である。
 ……
四舉而後有成,亦未即得仕。聞吏部有以博學宏詞選者,人尤謂之才。且得美仕,就求其術,或
出所試文章。亦禮部之類,私怪其故,然猶樂其名,因又詣州府求舉。

四たび挙して(進士の科を受けて)後に成る有るも、亦未だ即ち仕を得ず、吏部に博學宏詞を
以て選ばるる者有りと聞く,人 尤も之を才と謂う。

且つ美仕を得,就いて其の術を求むれば,或いは試みる所の文章を出だす。
亦た禮部の類なり,私【ひそか】に其の故を怪み,然れども猶お其の名を樂【ねが】う,
因って又た 州府に詣【いた】りて舉げられんことを求む。
   ……
  
 吏部の試験にも、礼部と同様、幾つかの「科」があって、受験生の選択にまかせてある。その中で「博学鴻辞(博学で、文才にすぐれる)」と称する科が、礼部の進士の科と同様に、最もむすかしく、そのかわりに合格すれば名誉であり、よい官職も授けられた。その試験問題を見せてもらうと、進士の科と同じようなものであり、なぜ重複した試験をするのかと意は疑ったと言うのだか、もっともな疑問であると同時に、吏部が任子の牙城であることを知ってさえいれば、自然に解答がつくものでもあった。
 愈はその「博学鴻辞」の名にほれこんで、受験することにした。もちろん、ほれこんだのは名前ばかりでなく、出世が約束される点にもあったであろう。しかも、同様の試験である進士の科に及第しているのだから、こちらも大丈夫という自信もあったに違いない。
 しかし、吏部の試験は甘くなかった。貞元八年、進士の科に通った余勢を駆って受けた博学鴻辞の科に、愈はみごとに落第した。捲土重来を期して、その翌年、翌々年と、続けざまに三度受験し、三度とも落ちた。
 ただ、その二度目、貞元九年の試験には、披は汲落の境目まで漕ぎつけたらしい。崔元翰という役人へあてた愈の手紙《外集? 卷2-2上考功崔虞部書》(韓文外集二、考功崔虞部に上る書)に、その間の事情が見られる。崔はこの試験で副考をつとめたらしい。
 ……
且執事始考文之明日,浮囂之徒已相與稱曰:「某得矣,某得矣。」問其所從來,
必言其有自一日之間,九變其?。凡進士之應此選者,三十有二人,其所不言者,
數人而已,而愈在焉。及執事既上名之後,三人之中,其二人者,固所傳聞矣。
華實兼者也,果竟得之,而又升焉。其一人者,則莫之聞矣。實與華違,行與
時乖,果竟退之。
 ……

且つ執事の始めて文を考せし(試験をした)明日、浮囂の徒、己に相与に称して日く、某は得
たり(合格だ)、某は得たりと。其の従りて来る所を問ふに、必す其の自ること有るを言ひ、
一日の間に、其の説を九変す。凡そ進士の此の選に応ぜし者三十有二人、其の言はざる所の者
は、数人のみ。而して意在り。執事既に名を上りて後、三人の中、其の二人は、固より伝聞せ
し所なり。華実(評判と実カ)兼ねたる者なり。果して竟にこれを得て、又升れり。其の一人
は、これを聞くこと莫し。実、華と違ひ、行ひ、時と乖へり。果して竟にこれを退く。



 つまり、試験がすんだ翌日から、もう合格者の下馬評が流れ始めた。なぜわかるのかとたずねると、確実な筋からの情報だと答える。たぶん、某々は某大官の推薦があるから大丈夫だ、などという情報なのであろう。それでいながら、下馬評は一日のうちにむ変化して、さまざまな人の名が挙げられる。受験した進士の総数は三十二人、そのうちの数名を除いて、全部が下馬評にのぼった。
そして、愈は数名の方に入っていた。
 崔元翰は副考として、三人の答案を合格圏内にあるとした。その一人に、愈が入っていた。他の二人は、すでに下馬評にのぼっていた人たちであった。そして最終決定では、はたして二人が合格し、愈は落第していた。
 惜しいところだったと、愈は歯がみをしたいほどだったであろう。それと同時に、有力な大官の推薦があるとか、実力があると世間に評判か立つほどでないと合格はしにくいものだと、身にしみて悟ったに違いない。だいたい、崔元翰か選んだ答案が三つで、誰と誰だなどと、採点の内幕が筒ぬけに知れるような試験である。情報源もなく、孤立無援の愈は、最初からハンディキヤップを負わされていた。
 それにしても蜃元翰は、愈にとっては知己である。べつに運動をしたわけでもなく、一面識もない人物か自分の答案を認めてくれたのは、せめてもの救いであった。愈は感謝の心をこめて、崔ヘ手紙を送る。それがここに引用した書簡である。ただ、最後の部分で自分の現況を書き、貧乏で困っている、間借りをする金も、下僕を雇う費用もなく、衣食にもこと欠き、どこを頼るあてもないと述べているのは、さすがに露骨な表現ではないものの、あわよくば崔の同情を惹き、その援助を得たい下心があったと見てよかろう。
 しかし、これは虫がよすぎた。禰元翰が愈の手紙を読み、援助を与えてくれた形跡は、発見できない。一度や二度は、飯でも食べに来いと声をかけてくれたかもしれないが、崔が愈の後楯になってくれるところまでは、ついに望めなかった。
 愈が三度目の落第を昧わった貞元十年(七九四)、彼の親友であり、文学上の好敵乎でもあった李観(元賓)が死んだ。観は愈より二歳の年長で、すでに博学鴻辞の科にも汲第していた。そして太子校書の官を授けられたが、わずか一年の後、二十九歳の若さで世を去ったのである。
 愈はこの友人の墓のために、銘を書いた《昌黎先生集/卷24-1李元賓墓銘》。この種の文章は、故人の閲歴を細かく述べ、華麗な言辞によって遺徳をたたえるのが定法である。しかし、愈が書いた墓銘はその定法を破り、簡潔ではあるが、故人の死をいたむ情感のあふれる文章となった。その最後の部分に、彼はこう書いている。
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李元賓墓銘


  李觀字元賓,其先隴西人也。始來自江之東,年二十四舉進士,三年登上第;
  又舉博學宏詞,得太子校書。又一年,年二十九,客死於京師。既斂之三日,
  友人博陵崔宏禮葬之於國東門之外七裏,?曰慶義,原曰嵩原。友人韓愈書
  石以誌之,辭曰:

 已?元賓!壽也者,吾不知其所慕。夭也者,吾不知其所惡。生而不淑,孰
 謂其壽?死而不朽,孰謂之夭?已
?元賓!才高乎當世,而行出乎古人。已
 ?元賓!竟何為哉,竟何為哉!
 己んぬるかな元賓、寿とは吾其の慕ふ所を知らず、夭(若死に)とは吾其の悪む所を知ら
ず。生きて淑からずんば敦か其を寿と謂はん。死して朽ちずんば執かこれを夭と謂はん。已ん
ぬるかな元賓、才は当世に高く、行ひは古人を出でたり。已んぬるかな元賓、竟に何為ぞや、
竟に何為ぞや。



 墓銘という、半ば形式的な、儀礼的なものを通じて、愈は亡き親友に語りかけたのである。もちろん、李観の運命は、意自身のそれともかさねあわされていた。二十九で死んだ観は「夭」と言うほかはないが、それにくらべれば「寿」のはすの愈も、「生きて淑」き立場になければならぬはずが、どこまでそう言いきれるのか。
 しかし、彼の自信だけは、動いていない。前にも引用した「崔立之に答ふる書」(韓文一六)は、愈が吏部で三度落第した後、先輩にあたる崔立之が激励の千紙を。くれたのに対する返書であるが、その中で自分の志を「聊か復た自ら明らかにせん」として、次のように述べる。
 自分は吏部の試験を二度受けて、一度は合格線上まで行ったのが(すなわち崔元翰に認められたことをさす)、最終段階で落された。そこで仕官はできなかったが、あれは能力のある男だと評判してくれる人も出た。しかし、自分がその時の答案を読みかえしてみると、「乃ち俳優者の辞に類し」、つまり宮廷で王侯貴族のごきげんを取り結ぶ藷人の台辞のような感じで、気恥かしい思いがした。でも、いったんこの道に志したからには、途中で放棄すべきではないと考え、三度目の受験をしたが、また落第した。どこに差があるのだろうと、合格者の答案を手に入れて読んだが、自分の答案がさほど見劣りのするものとは思えなかった。
 そこで、彼は考える。
……
夫所謂博學者,豈今之所謂者乎?夫所謂宏詞者,豈今之所謂者乎?誠使古之豪傑之士,若屈
原、孟軻、司馬遷、相如、揚雄之徒,進於是選,必知其懷慚?乃不自進而已耳。設使與夫今之
善進取者,競於蒙昧之中,仆必知其辱焉。


 ……
夫の所謂る博學の者は,豈に今の謂う所の者ならんや?夫の所謂る宏詞の者は,豈に今の謂う
所の者ならんや?誠に古えの豪傑の士,屈原、孟軻、司馬遷、相如、揚雄も徒の若きをして,
是の選に進ま使めば,必ず知其の慚を懷かんや?乃ち自ら進まざるを已のみ。設し夫の今の善
く進取する者と,蒙昧の中に競は使めば,仆 必ず其の辱めらるるを知る。

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 ここに彼は、自分が「いにしえの豪傑の士」たち、屈原・孟子・司馬遷・司馬相如・揚雄と列挙した人々の系譜の上にあることを寒冒した。自分は彼らに私淑している。彼らこそ真の「博学」であり「鴻辞」であった人々である。その後を継ごうと志す自分か落第し、自分よりすぐれているとも思えない答案が合格するのでは、今の世の「博学鴻辞」とは、いったい何をさすのか。
 当時の人々によれば、答えははっきりしていた。意が列挙した人名のうち、最も遅く出たのは揚雄で、前漢末の人である。その後、後漢のころから絣文という新しい文休が芽生え、六朝を通じて洗練をかさねて、唐代に及んだ。だから揚雄以前の文章は、古い、時代遅れのものである。洗練の極致にある(と人々が考えた)絣文を書くことこそ、真の博学鴻辞なのであった。
 そのくらいのことは、愈も知っていたであろう。だが、承知の上で、彼は疑問を投げかける。今の世に言う博学鴻辞を、真の博学鴻辞としてよいのか。それはたしかに、美しく洗練されたものであろう。しかし、よく読んでみれば、試験官ないしは時の高官の気に入るようにつとめた、「俳優の辞」に類したものではないか。「いにしえの豪傑の士」には、そのような文章は書けたとしても、書くのをいさぎよしとしないものである。だから、彼らがもし今の世に生きており、博学鴻辞の科を受ける立場にあったとしても、みすから恥じて合格しようとはつとめないであろう。その道を歩もうと志す自分においても、同様である。
 意の主張は、いわば学問と文学の原点に立ちかえり、そこから再出発せよということになる。彼はその原点に立つ人々の名を具体的に拳げ、系譜化して示したが(もっとも、時代順でいえば孟祠は屈原の、司馬相如は司馬遷の前になる)、この系譜を唐代において継承し、再興することが、彼の終生の旗印となった。そうであれば、堕落した今の世の博学鴻辞の科に合格しないのも、不名誉でないばかりか、世俗と妥協しないという意味において、誇るべきことと彼は力説する。もっとも、そこには落第生の負け惜しみが、いくらかは含まれているかもしれなかった。
 三度も落第して、愈もとうとう尻をまくった形になったのかもしれないが、現実に彼は、博学鴻辞の科に及第すべく、運動をしている。というのは、二度目の受験の直前と推定されるが、「《昌黎先生集/卷18-3應科目時與人書》(科目に応する時、人に与ふる書)という書簡が残っているからである。「科目」とは、すなわち博学鴻辞の科をさす。「人」とは中書舎人の草なにがしという人だったらしいが、詳しいことはわからない。
 この手紙は、「天池之濱,大江之濆,曰有怪物焉,蓋非常鱗凡介之品彙匹儔也。」(天池の濱,大江の濆,曰く怪物有り,蓋し常鱗凡介の品彙匹儔に非ざるなり。)と、人を驚かすような書き出しで始まる。韋舎人と愈かどんな関係にあったのかはわからないが、たぶん、ごく親しい間ではなかったであろう。それにあてた手紙だから、このくらいの書き出しでないと、先まで読んでくれない恐れがあるのであった。
 さて、この怪物はいったん水を得れば、風雨に乗じて天に昇る力も持つのだが、水がなければ力を失う。そして現在、水のある場所まで僅かの距離にありながら、自力では到達できないため、困りはてている。もし「有力者」が水まで運んでくれるとしたら、ほんの「一挙手一投足の労」にすぎないはすなのだが、この怪物にはプライドがあって、人のお情けを乞うくらいなら、泥の中で死んだ方がましだと思っている。だから、「有力者」たちが怪物のそばまで来ても、気かつかずに通り過ぎてしまう。
 ところが、今ここに、一人の「有力者」が怪物の前に立った(むろん、草舎人をさす)。怪物はここで、「聊か試みに首を仰げて一たび鳴号せん」とする。自分の窮状に気づいてほしいと念願するからである。しかし、「有力者」が気づいたとしても、怪物を犯れに思ってくれるかどうか。「其哀之,命也;其不哀之,命也;知其在命而且鳴號之者,亦命也。其のこれを哀れむは、命なり。其のこれを哀れまざるも、命なり。其の命に在るを知りて、而も且つこれに鳴号するも、亦命なり」。
 怪物のお話はここで終る。そのあとに、愈は数十字を加えて、手紙の結びとする。
「愈今者實有類於是,是以忘其疏愚之罪,而有是?焉。閣下其亦憐察之!」(愈、今、実に是に類する有り。是を以て其の疎愚の罪を忘れて、是の説有り。閣下其れ亦これを憐察せよ。)
 要するに、韋舎人という「有力者」の周旋によって、博学鴻辞の科に及第させてほしい、そうすれば水を得た自分は、天に昇ることもできるのだ、と訴えたのである。
 当時の受験生たちは、たぶん、さまざまな手段を使って「有力者」たちに認めてもらおうと努力したことであろう。手紙を送ることもその一つになるはすで、おびただしい手紙が書かれたに違いないが、当然のことながら、現在までは伝わって・いない。したがって、比較することはできないのだが、愈のこの手紙は、おそらく型破りなものだったであろう。通常ならば、相手の人格ないし業績を景慕する旨を述べ、自分の窮状を訴え、ちょうど意がかつて貿耽にあてた手紙と同様の内容を、さらに華麗な修辞をもって書きつらねたはすである。
 それから見ると、愈の手紙は型破りで、しかもかなり図々しい態度だといえよう。相手の章舎人に対しては、「有力者」と言うだけで、一つもほめていない。書いてあるのは自分のことばかりで、それも泣訴嘆願ではなく、ほんとうはしたくないことだが、このさい、「一たび鳴号」してみようと言うだけである。しかもその文体が、孟子か荘子といった調子の、当時の人々から見れば古色蒼然とした感じのものであった。
 この手紙が功を奏さなかったのは、彼が落第したことから明らかである。章舎人は「一拳手一投足の労」をとってくれようとはしなかった。ただ、ここから知れるのは、愈も実力だけで成否が決定されるのだと大きくかまえていたわけではなく、人なみに合格のための運動をしていた事実である。その運動のしかたが型破りであり、自分ほどの人間を合格させないのは、試験官たちに目がないからだと言わんばかりの態度を(さすがにそうと明言はしないが)示していることは認められるが、これも当時の第三者からは、落第生の負け借しみと取られてもしかたのないことだったであろう。

 《昌黎先生集/卷14-4爭臣論》
爭臣論


 或問諫議大夫陽城於愈,可以為有道之土乎哉?學廣而聞多,不求聞於人也;行古人之道,居
於晉之鄙,晉之鄙人,梠エコ而善良者幾千人。大臣聞而薦之,天子以為諫議大夫。人皆以為
華,陽子不色喜。居於位五年矣,視其コ如在野,彼豈以富貴移易其心哉!


 愈應之曰:「是《易》所謂「恒其コ貞」,而「夫子凶」者也。惡得為有道之士乎哉?在
《易・蠱》之上九云:「不事王侯,高尚其事」。《蹇》之六二則曰:「王臣蹇蹇,匪躬之
故。」夫不以所居之時不一,而所蹈之コ不同也?若《蠱》之上九,居無用之地,而致「匪躬」
之節;蹇之六二,在王臣之位,而高「不事」之心,則冒進之患生,曠官之刺興,誌不可則,而
尤不終無也。


 今陽子在位不為不久矣,聞天下之得失不為不熟矣,天子待之不為不加矣,而未?一言及於
政,視政之得失,若越人視秦人之肥瘠,忽焉不加喜戚於其心。問其官,則曰諫議也;問其祿,
則曰下大夫之秩也;問其政,則曰我不知也。有道之土,固如是乎哉?且吾聞之有官守者,不得
其職則去;有言責者,不得其言則去。今陽子以為得其言,言乎哉?得其言而不言,與不得其言
而不去,無一可者也。陽子將為祿仕乎?古之人有云:仕不為貧,而有時乎為貧,謂祿仕者也。
宜乎辭尊而居卑,辭富而居貧,若抱關?柝者可也。

 蓋孔子?為委吏矣,?為乘田矣,亦不敢曠其職,必曰「會計當而已矣」,必曰「牛羊遂而已
矣」。若陽子之秩祿,不為卑且貧,章章明矣,而如此,其可乎哉?


 或曰:否,非若此也。夫陽子惡?上者,惡為人臣招其君之過而以為名者,故雖諫且議,使人
不得而知焉。《書》曰:「爾有嘉謨嘉猷,則入告爾後於?,爾乃順之於外,曰:‘斯謨斯猷,
惟我後之コ。’」夫陽子之用心,亦若此者。


 愈應之曰:若陽子之用心如此,滋所謂惑者矣。入則諫其君,出不使人知者,大臣宰相者之
事,非陽子之所宜行也。夫陽子本以布衣隱於蓬蒿之下,主上嘉其行誼,擢在此位,官以諫為
名,誠宜有以奉其職,使四方後代知朝廷有直言骨?之臣,天子有不??賞、從諫如流之美。庶岩
穴之士,聞而慕之,束帶結發,願進於闕下,而伸其辭?,致吾君於堯舜,熙鴻號於無窮也。若
《書》所謂,則大臣宰相之事,非陽子之所宜行也。且陽子之心,將使君人者惡聞其過乎?是?
之也。


 或曰:陽子之不求聞而人聞之,不求用而君用之,不得已而起,守其道而不變,何子過之深
也?


 愈曰:自古聖人賢士,皆非有求於聞用也。閔其時之不平,人之不乂,得其道,不敢獨善其
身,而必以兼濟天下也。孜孜??,死而後已。故禹過家門不入,孔席不暇暖,而墨突不得黔。彼
二聖一賢者,豈不知自安佚之為樂哉?誠畏天命而悲人窮也。夫天授人以賢聖才能,豈使自有餘
而已?誠欲以補其不足者也。耳目之於身也,耳司聞而目司見,聽其是非,視其險易,然後身得
安焉。聖賢者,時人之耳目也;時人者,聖賢之身也。且陽子之不賢,則將役於賢以奉其上矣,
若果賢,則固畏天命而閔人窮也,惡得以自暇逸乎哉?


 或曰:吾聞君子不欲加諸人,而惡訐以為直者。若吾子之論,直則直矣,無乃傷於コ而費於辭
乎?好盡言以招人過,國武子之所以見殺於齊也,吾子其亦聞乎?


 愈曰:君子居其位,則思死其官;未得位,則思修其辭以明其道。我將以明道也,非以為直而
加人也。且國武子不能得善人,而好盡言於亂國,是以見殺。《傳》曰:「惟善人能受盡言。」
謂其聞而能改之也。子告我曰:陽子可以為有道之士也,今雖不能及已,陽子將不得為善人乎
哉?

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應科目時與人書



 月日,愈再拜:天池之濱,大江之濆,曰有怪物焉,蓋非常鱗凡介之品彙匹儔也。
其得水,變化風雨,上下於天不難也;其不及水,蓋尋常尺寸之間耳。無高山大陵曠途?險為之
關隔世,然其窮涸不能自致乎水,為?獺之笑者,蓋十八九矣。


 如有力者哀其窮而運轉之,蓋一舉手一投足之勞也。然是物也,負其異於?也,且曰爛死於沙
泥,吾寧樂之?若俛俯首帖耳搖尾而乞憐者,非我之誌也。是以有力者遇之,熟視之若無睹也。
其死其生,固不可知也。今又有有力者當其前矣,聊試仰首一鳴號焉。庸?知有力者不哀其窮,
而忘一舉手一投足之勞而轉之清波乎?其哀之,命也;其不哀之,命也;知其在命而且鳴號之
者,亦命也。愈今者實有類於是,是以忘其疏愚之罪,而有是?焉。閣下其亦憐察之!


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答崔立之書



 斯立足下:仆見險不能止,動不得時,顛頓狼狽,失其所操持,困不知變,以至辱於再三,
君子小人之所憫笑,天下之所背而馳者也。足下猶複以為可教,貶損道コ,乃至手筆以問
之,?援古昔,辭義高遠,且進且勸,足下之於故舊之道得矣。雖仆亦固望於吾子,不敢望於
他人者耳。然尚有似不相曉者,非故欲發餘乎?不然,何子之不以丈夫期我也?不能默默,聊
複自明。


 仆始年十六七時,未知人事,讀聖人之書,以為人之仕者,皆為人耳,非有利乎己也。及年
二十時,苦家貧,衣食不足,謀於所親,然後知仕之不唯為人耳。及來京師,見有舉進士者,
人多貴之,仆誠樂之,就求其術,或出禮部所試賦詩策等以相示,仆以為可無學而能,因詣州
縣求舉。有司者好惡出於其心,四舉而後有成,亦未即得仕。聞吏部有以博學宏詞選者,人尤
謂之才,且得美仕,就求其術,或出所試文章,亦禮部之類,私怪其故,然猶樂其名,因又詣
州府求舉,凡二試於吏部,一既得之,而又黜於中書,雖不得仕,人或謂之能焉。退因自取所
試讀之,乃類於俳優者之辭,顏忸怩而心不寧者數月。既已為之,則欲有所成就,《書》所謂
恥過作非者也。因複求舉,亦無幸焉,乃複自疑,以為所試與得之者,不同其程度,及得觀
之,餘亦無甚愧焉。夫所謂博學者,豈今之所謂者乎?夫所謂宏詞者,豈今之所謂者乎?誠使
古之豪傑之士,若屈原、孟軻、司馬遷、相如、揚雄之徒,進於是選,必知其懷慚?乃不自進
而已耳。設使與夫今之善進取者,競於蒙昧之中,仆必知其辱焉。然彼五子者,且使生於今之
世,其道雖不顯於天下,其自負何如哉!肯與夫鬥?者決得失於一夫之目,而為之憂樂哉!故
凡仆之汲汲於進者,其小得蓋欲以具裘葛、養窮孤,其大得蓋欲以同吾之所樂於人耳,其他可
否,自計已熟,誠不待人而後知。今足下乃複比之獻玉者,以為必俟工人之剖,然後見知於天
下,雖兩?足不為病,且無使者再克。誠足下相勉之意厚也,然仕進者,豈舍此而無門哉?足
下謂我必待是而後進者,尤非相悉之辭也。仆之玉固未?獻,而足固未??,足下無為為我戚戚
也。


 方今天下風俗尚有未及於古者,邊境尚有被甲執兵者,主上不得怡,而宰相以為憂。仆雖不
賢,亦且潛究其得失,致之乎吾相,薦之乎吾君,上希卿大夫之位,下猶取一障而乘之。

若都不可得,猶將耕於ェ間之野,釣於寂寞之濱,求國家之遺事,考賢人哲士之終始,作唐之
一經,垂之於無窮,誅奸諛於既死,發潛コ之幽光。二者將必有一可。足下以為仆之玉凡幾
獻,而足凡幾?也,又所謂者果誰哉?再克之刑信如何也?士固信於知己,微足下無以發吾之
狂言。愈再拜。動不得時,顛頓狼狽,失其所操持,困不知變,以至辱於再三,君子小人之所
憫笑,天下之所背而馳者也。足下猶複以為可教,貶損道コ,乃至手筆以問之,?援古昔,辭
義高遠,且進且勸,足下之於故舊之道得矣。雖仆亦固望於吾子,不敢望於他人者耳。然尚有
似不相曉者,非故欲發餘乎?不然,何子之不以丈夫期我也?不能默默,聊複自明。


 仆始年十六七時,未知人事,讀聖人之書,以為人之仕者,皆為人耳,非有利乎己也。
及年二十時,苦家貧,衣食不足,謀於所親,然後知仕之不唯為人耳。及來京師,見有舉進士
者,人多貴之,仆誠樂之,就求其術,或出禮部所試賦詩策等以相示,仆以為可無學而能,因
詣州縣求舉。有司者好惡出於其心,四舉而後有成,亦未即得仕。聞吏部有以博學宏詞選者,
人尤謂之才,且得美仕,就求其術,或出所試文章,亦禮部之類,私怪其故,然猶樂其名,因
又詣州府求舉,凡二試於吏部,一既得之,而又黜於中書,雖不得仕,人或謂之能焉。退因自
取所試讀之,乃類於俳優者之辭,顏忸怩而心不寧者數月。既已為之,則欲有所成就,《書》
所謂恥過作非者也。因複求舉,亦無幸焉,乃複自疑,以為所試與得之者,不同其程度,及得
觀之,餘亦無甚愧焉。


 夫所謂博學者,豈今之所謂者乎?夫所謂宏詞者,豈今之所謂者乎?誠使古之豪傑之士,若
屈原、孟軻、司馬遷、相如、揚雄之徒,進於是選,必知其懷慚?乃不自進而已耳。設使與夫
今之善進取者,競於蒙昧之中,仆必知其辱焉。然彼五子者,且使生於今之世,其道雖不顯於
天下,其自負何如哉!肯與夫鬥?者決得失於一夫之目,而為之憂樂哉!故凡仆之汲汲於進
者,其小得蓋欲以具裘葛、養窮孤,其大得蓋欲以同吾之所樂於人耳,其他可否,自計已熟,
誠不待人而後知。今足下乃複比之獻玉者,以為必俟工人之剖,然後見知於天下,雖兩?足不
為病,且無使者再克。誠足下相勉之意厚也,然仕進者,豈舍此而無門哉?足下謂我必待是而
後進者,尤非相悉之辭也。仆之玉固未?獻,而足固未??,足下無為為我戚戚也。


 方今天下風俗尚有未及於古者,邊境尚有被甲執兵者,主上不得怡,而宰相以為憂。仆雖不
賢,亦且潛究其得失,致之乎吾相,薦之乎吾君,上希卿大夫之位,下猶取一障而乘之。

若都不可得,猶將耕於ェ間之野,釣於寂寞之濱,求國家之遺事,考賢人哲士之終始,作唐之
一經,垂之於無窮,誅奸諛於既死,發潛コ之幽光。二者將必有一可。足下以為仆之玉凡幾
獻,而足凡幾?也,又所謂者果誰哉?再克之刑信如何也?士固信於知己,微足下無以發吾之
狂言。愈再拜。




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紀 頌之