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  韓愈の生涯  

8- 5 晩年


晩 年 長慶四(834)年《57歳》

第八章


8.-1. 長安への道 元和一五(820)年《53歳》 


8.-2. 国子祭酒 長慶元(821)年《54歳〉 


8.-3. 吏部侍郎 長慶二(822)年《55歳〉 


8.-4. 京兆の尹 長慶三(833)年《56歳〉 


8.-5. 晩 年 長慶四(834)年《57歳》





8-6 晩   年

 長慶四年(八二四)、愈は五十七歳。この年、長男の韓昶が進士に及第した。昶はすでに二十六歳、父の汲第した年よりも一年遅れたわけである。
 正月、穆宗か死んだ。穆宗も不死の薬を服用していたので、その副作用が死期を早めたのだという。帝位を継いだ敬宗はまだ十六歳である。李逢吉の勢力は増大し、李紳は力を失った。
 二月、李紳が左遷される。若い皇帝は宦官たちと撃毬(ポロのようなスポーツ)や狩猟にふけって、政務をかえりみない。
 四月には宮廷内に勤務する染物職人が易者にそそのかされ、仲間とともに武器を持って宮中に乱入するという事件か起った。撃毬に興じていた敬宗はあわてて逃げ出し、染物屋たちは宮殿を占拠して宴会を始めた。たわいもない反乱だが、一時は大騒ぎになり、禁軍の兵士が出動して、夜になってからようやく鎮圧した。
 しかし、これら一連の事件も、もはや韓愈とはほとんど無関係であった。彼の健康はまったく衰えていたのである。八月、吏部侍郎を辞職し(百日間の休暇をとったともいわれている)、長安城南の別荘で静養を始めた。この月に書かれた「唐正議大夫尚書左丞孔君墓誌銘」(韓文三三)が、制作時期を知り得る彼の散文のうち、最後の作品である。
 一生の間世俗に反抗し、いつも誰かと喧嘩をしていた彼は、ここに姶めて平和な晩年を味わう機会を持った。別荘に移ったばかりのころらしいが、ちょうど見舞いに来た門人の張籍とともに、附近の谷川に舟を浮かべて遊んだこともある。その時の「南溪始泛,三首」と題する三首の五言古詩(韓文七)のに言う。

南溪始泛,三首之一
榜舟南山下,上上不得返。
幽事隨去多,孰能量近遠。
陰沈過連樹,藏昂抵阪。
石粗肆磨礪,波惡厭牽挽。
(南渓は終南山のふもとにあって、そこに始めて舟を浮かべて遊んだ時、この詩を作った三首の一)
南渓は終南山のふもとにあって、そこに始めて舟を浮かべて遊んだ、棹さして流れを遡り、上り上ぼって行って引き返すことができなくなった。
行けばいくほど面白く風流な趣が加わる時は、路が遠かろうが、近かろうが、頭から考えることなど全くない。
そのあいだは陰沈としてうすぐらい林のつづく中を過ぎることもあり、道は幾たびか高く低くつらなる斜面にぶつかった。
渓中の岩がごつごつとして、それらは存分にとぎすまされ、さか立つ流れをどこまでも舟を引いて上ぼる厭になるほど骨が折れることだ。
或倚偏岸漁,竟就平洲飯。
點點暮雨飄,梢梢新月偃。
餘年懍無幾,休日愴已?。
自是病使然,非由取高蹇。
あるいは、かたよって崖っぷちの岸のすぐ下で網を投じて魚をとったりし、あるいは、平坦な中洲の上で食事をとったりした。
すると、ぽつぽつと夕ぐれどきの時雨が催したが、しばらくしてすぐ止んだので、ほっそりとした新月がやまかげから横ざまに低く表れた。
おもえば、わたしの病気は治りそうもなく、あと生きられる年は幾ばくもないことに、心つつましく思うところだが、病気理由の休暇も、もう終わろうとしているから、何となく心配で仕方がないのだ。
この遊覧だって病気になったから、みんなが気を使ってくれたからこそできたので、こんな風流な遊覧だからといって、偉ぶって俗世を離れた風流隠遁者という高踏的な気持ちになろうとしたためではないのである。
(南渓に始めて泛ぶ三首、其の一)
舟を榜【さ】す 南山の下、上り上って返ることを得ず。
幽事 去るに随って多く、孰か能く近遠を量らん。
陰沈として連樹を過ぎ、蔵昂として横坂に抵る。
石は粗にして磨礪を肆にし、波は悪くしして牽挽に厭く。
或るいは偏岸に倚りて漁し、竟に平洲に就いて飯す。
点点として暮雨 飄り、梢梢として新月 偃す。
余年 幾ばくも無きを懍れ、休日 己に晩きことを愴う。
自ら是れ 病い 然らしむ、高蹇を取るに由るには非ず。

南溪始泛,三首之二
南溪亦清駛,而無楫與舟。
山農驚見之,隨我觀不休。
不惟兒童輩,或有杖白頭。
饋我籠中瓜,勸我此淹留。
我云以病歸,此已頗自由。
(南渓は終南山のふもとにあって、そこに始めて舟を浮かべて遊んだ時、この詩を作った三首の二)
上流の南渓の水はきれいで澄んでいて、流れがとても速い、これを行くのにろも舟ではどうしようもなく、徒歩で行く。
山里の農夫たちはここを徒歩で登るわたしに出あったのにびっくりし、わたしのあとからついて来ていつまでもながめているのを心配をしてくれることに感謝する。
ついてくるのはこどもたちばかりでなく、枚にすがる白髪の老人さえもいる。
背負っていたかごから瓜を取り出してわたしにくれる、ここはまことに風景の良いところであるから、ずっとここに滞在するようにとすすめるのである。
わたしはこれに答えていう「わらしは病気保養のためにここに住むことにしましたが、これでもうかなり自由気ままにくらすことが出来て保養になっています。」と。
幸有用餘俸,置居在西疇。
?倉米穀滿,未有旦夕憂。
上去無得得,下來亦悠悠。
但恐煩里閭,時有緩急投。
願為同社人,?豚燕春秋。
そして「さいわいに捨扶持の余るだけの頂戴いたしているから、別業を西のはた地に家をさだめました。」
「米ぐらには米穀が一杯で、さしあたってくらしの心配はありません。」
「長安の役所に出勤したからと言って、格別得意というわけでもない、仕事を暇をとってここの田舎に来て見るとのんきでいいし、心はのどかなものです。」
「しかし、ただ村のご近所に煩わせて御迷惑だと思いますが、折り折り急用でお世話になりに行くことでしょう。」
「願わくばどうか同じ氏子となって、春や秋の彼岸には鶏や子豚で、小宴会を催したいから、みんなで一緒にやって来てほしいものです。」と答えたのだ。
(南溪始泛,三首の二)
南溪 亦た 清駛,而も 楫と舟と無し。
山農 之れを驚き見て,我に隨って觀て休まず。
惟だ 兒童の輩のみならず,或いは 杖く白頭有り。
我 籠中の瓜を饋【おく】り,我 此こに淹留せんと勸む。
我れ云く 病を以って歸り,此こに已に 頗ぶる自由なり。
幸に 餘俸を用いる有り,居を置て西疇に在る。
?倉には 米穀 滿ちて,未だ旦夕 憂うを有らず。
上り去って 得得たること無く,下り來って 亦た 悠悠たり。
但だ 恐らくは 里閭を煩わし,時に緩急もて投ずる有らん。

南溪始泛,三首之三
足弱不能?,自宜收朝蹟。
羸形可輿致,佳觀安事擲。
即此南阪下,久聞有水石。
?舟入其間,溪流正清激。
(南渓は終南山のふもとにあって、そこに始めて舟を浮かべて遊んだ時、この詩を作った三首の三)
身体の衰えは、足腰のおとろえであり、歩くことはなかなかだ、朝礼にさんれつなどとてもできるものではなく、朝の散歩などでも難しい。
痩せた身体であると軽く運べるが、自分は肥満なので、輿で運ぶけれど迷惑をかける次第だ。しかし、ここのすばらしい眺めをどうして捨て置くわけにいかないのだ。
此の南坂のふもとには、以前から美しい流れと珍しい石があり、きれいな山水の景色があると聞いていたところだ。
舟をひかせて、その谷の間にはいると、渓流はまことに綺麗で、それこそ清らかに澄み切っている。
隨波吾未能,峻P乍可刺。
鷺起若導吾,前飛數十尺。
亭亭柳帶沙,團團松冠壁。
歸時還盡夜,誰謂非事役。
波のまにまに舟をまかせようとする気にわたしはなれない、急なはや瀬に舟を掉さす方が望ましいのだ。
すると、鷺がおどろいて飛び立ち、わたしの道案内をするように、数十尺前方へ飛んで行った。
たかだかとそびえ立つ柳の大木のそばには白い砂地がのこり、ころころと丸くかたまっている松が絶壁の上にかぶさっている。
帰った時にはやはり夜が明けるころとなった、お上のつとめほど苦労ではないともいえぬ一仕事だったことではある。
(南溪始泛,三首の三)
足 弱くして?する能わず,自ら宜しく朝蹟を收むべし。
羸形 輿し致す可し,佳觀 安ぞ 擲【なげう】つべけんや。
即ち 此の南阪の下,久しく水石有るを聞く。
舟を?いて 其の間に入れば,溪流 正に清激。
波に隨うこと吾 未だ能わず,峻P 乍ち刺す可し。
鷺は起って 吾を導くが若し,前に飛ぶこと數十尺。
亭亭として 柳 沙を帶び,團團として松 壁に冠す。
歸える時 還た夜を盡し,誰か事役に非らずと謂えり。


 南渓の流れの、なんと澄んで早いこと。それなのに、舟がない。山村の農民たちは驚いた顔をして自分を見、いつまでも自分のあとについて来る。子供たちばかりではない、中には杖をついた白髪の爺さんもいる。それが自分に範の中の瓜を食べさせてくれ、ここに滞在しろとすすめてくれる。
自分は答えた
病気のために帰って来たのだが、これでもう相当にわがまま勝手な生活なのだ。
さいわい俸禄の余りを使って、西の畠に住居を造った。倉には米がいっぱいで、朝夕の生活を心配することもない。出世したところで大きな顔をするのでもなく、引退しても平気なもの。ただ、隣り近所にお手数をかけるのではないか、時には急なことでお世話になりたいとおたすねすることがありはしまいかと恐れている。どうか諸君と同じ村人になり、鶏や豚を肴にした春秋の宴会には、同席させてほしいものだ。
 この三首が現存する彼の詩のうちの最後の作品といわれてきたが、近ごろの研究では、その後の詩があるとする説も出されている。八月十五日の夜、愈は張籍とともに月見をした。その翌日、また月を見ながら籍に贈った「月を翫め、張十八員外の王六秘書を以て至りしを喜ぷ」と題する五言古詩(韓文七)が、最後の作品だとするのである。その詩に「惜しむらくは酒食の楽しみ無く/但歌嘲を用て為すのみ」とあるのは、たまたま酒食の用意がなかったのかもしれないが、あるいはもう酒は飲めない健康状態になっていたのかもしれない。そして、この月見か彼の健康に決定的な悪影響を与えたのだとする説もある。



 衰弱はいよいよ加わって、韓愈は長安城内靖安里の屋敷に帰った。皇城の正南門である朱雀門の大路を南へ下り、少しく東へ入ったあたりにある。元狽の屋敷も、その附近にあったらしい。
 そのころ、韓愈は周囲の者に語った。自分の長兄は徳も高かったし、薬学に明るく、常に本草の書をしらべては、食餌に気をつけていた。それでも四十二歳で亡くなっている。自分は頭も悪いし、食物に至っては、いっこうに注意しなかった。それが地位は侍郎に至り、年は兄より十五年も長生きしている。しかも一生の間、道にはずれた行いもなく、畳の上で死ねる。もう何も思い残すことはない。

 韓愈が死んだのは、その年の十二月二日である。息をひきとる前、つめかけた部下たちに、彼はこう言ったと伝えられる。
「わしのからだをよく見ておいてくれ。韓愈が癩病で死んだなどと評判を立てられては困るからな。」
 たぶん、これは伝説にすぎないであろう。だが作り話にしても、韓愈が最後まで愈らしかったことを示すものとして、よくできた話である。
 癩病でなかったことはたしかであるが、彼の死因について、後世には妙なうわさが流れた。晩年の彼はやはり不老長生の術に凝っており、その薬の副作用で死んだのだというのである。これはどうやら、白居易が晩年に亡友たちを追憶して作った「思旧詩」(白氏文集六二)の中に、「退之は硫黄を服し、一たび病んで胞に疫えず」とあるところから出たものらしい。硫黄は不死の薬の重要な原料として、よく用いられたものであった。
 しかしこれは、韓愈が死ぬ前年、兄の孫娘の婿である李于のために書いた「故太学博士李君墓詰銘」(韓文三四)の内容と矛盾する。これはきわめて破格の墓誌銘であって、李于の生前の業績や徳行については、一言半句もふれていない。故人をたたえる字句は、まったく見あたらないのである。李于は不死の薬をのみ、その副作用で死んだ。愈はその事実を記した後、同じく薬のために死んだ当代の名士の例を六人も拳げ、薬の害の恐ろしさ、不老長生を求めてかえって死ぬことの愚かしさを説く。それがこの墓誌銘の全部である。肉親の娘の婿とはいえ、死者を葬る文章としては非情をきわめたものと言わざるを得ない。

 その韓愈が、自分で不死の薬をのんでいたというのである。後世の意を嫌う人々にとっては、絶好の攻撃目標となった。彼はしぱしぱ大言壮語したので、言行不一致の点を探せば、いくらでも出てくる。その決定的な事例として、不死の薬の一件が用いられたのである。
 しかし、これには異説がある。その早いものは宋の方嶺郷の『韓集挙正』に見える説で、清の銭が睨が『十駕斎養新録』でこれを祖述した。要旨は、韓愈の「唐故監察御史衛府君墓誌銘」(韓文三〇)に、衛府君(原文には「肩は某、字は某」としか書いてない)が不死の薬を求めて南海のはてまで行き、そこで死んだと述べてあるのを考証し、この人は衛中立、宇は退之という人だと判定するところにある。つまり、たまたま韓愈と同じ宇の衛中立という人がいて、不死の薬を求めて死んだのであり、白居易が「退之」と呼んだのは、実は衛中立のことであって、韓愈が不死の薬をのんだとするのは剋罪だとするのである。

 ところが、これにはさらに反諭が出た。近人陳寅恪の『元白詩端証稿』に見える説である。陳氏によれば、白居易の「思旧」詩に登場する旧友たちは元租などの、官界でも高位に達し、文学でも名のあった人たちばかりである。その中の「退之」が韓愈ならば釣合いがとれるが、無名にひとしい衛中立ではおかしい。しかも五代の陶穀の『清異録』には、韓愈が雄鶏に硫黄を食べさせて飼い、 「火霊庫」と称していたという記述がある。韓愈の死からそれほど距っていない(といっても、百年ほどたっているが)時代の人の説だから、何か根拠があろう。要するに、意はたしかに硫黄を服用したのであり、白居易が「退之」と称したのは、愈のことなのだとする。
 どちらの説が正しいのか、おそらく永久に解決はつくまい。方氏の説には多少の無理かあって、衛中立が不死の薬を求めたと「衛府君墓誌銘」には書いてあるが、硫黄をのんで死んだとは書いてない(もっとも、理屈はどのようにもつけられるので、話には尾ひれがつきやすいから、南海のはてで死んだ中立が硫黄をのんだためだとうわさされ、それが都に伝わって白居易の耳に入ったともいえる)。したがって
陳氏の説の方が筋は通るが、それにしても証拠は、白居易の詩だけである。『清異録』の記述は、この詩から発生した伝説かもしれず、また韓愈が自分で硫黄をのんだとは書いてない。雄鶏を硫黄で飼い、それで不死が得られるものか試してみようとしたのは、好奇心の強かった愈のことだから、ありそうなこととも思われる。
 どうやら白居易が言った「退之」とは、やはり韓愈のこととする説に軍配をあげたくなるのだが、それにしても愈が硫黄をのんで死んだとする確証は、どこにもない。居易にしても終始愈につき添っていたわけではなく、臨終に立ちあったわけでもないので、「退之」が硫黄をのんだとは、風聞によって述べただけのことであろう。あるいは癩病で死んだと言われるかわりに、薬の副作用で死んだという評判が立ったのかもしれない。
 韓愈の死を聞くと、敬宗は礼部尚書の官職を追贈した。尚書は各部の長官であり、現代の日本でいえば、文部大臣といったところに相当する。位階は正三晶。彼の履歴の中での最高位であることは、言うまでもない。そして勅命により、「文」という温をも授けられた。後世、愈を尊敬する人々は、披を韓文公と呼んでいる。




(824)
1.玩月喜張十八員外以王六祕書至【案:王六,王建也。】
2.與張十八同效阮?兵一日復一夕
3.南溪始泛,三首之一
4.南溪始泛,三首之二
5.南溪始泛,三首之三
6.唐正議大夫尚書左丞孔公墓誌銘  韓昌黎文集校注 【巻七】五二八
7.唐故監察御史衛府君墓誌銘  韓昌黎文集校注 【巻七】四五七
8.故太学博士李君墓詰銘    韓昌黎文集校注 【巻七】五五三
9.




唐正議大夫尚書左丞孔公墓誌銘
孔子之後,三十八世,有孫曰?,字君嚴,[35]事唐為尚書左丞。[36]年七十三,三上書去官,[37]天子以為禮部尚書,祿之終身,而不敢煩以政。[38]吏部侍郎韓愈,常賢其能,[39]謂曰:"公尚壯,上三留,奚去之果?"[40]曰:"吾敢要君?吾年至,一宜去;吾為左丞,不能進退郎官,唯相之為,二宜去。"[41]愈又曰:"古之老於?者,將自佚,非自苦;閭井田宅具在,親戚之不仕與倦而歸者,不在東阡在北陌,可杖?來往也。今異於是,公誰與居?且公雖貴,而無留資,何恃而歸?"曰:"吾負二宜去,尚奚顧子言?"愈面嘆曰:"公於是乎,賢遠於人。"[42]明日奏疏曰:"臣與孔?,同在南省,數與相見。[43]?為人守節清苦,論議正平,[44]年才七十,筋力耳目,未覺衰老,憂國忘家,用意至到。如?輩在朝,不過三數人,陛下不宜?順其求,不留自助也。"不報。明年,長慶四年正月己未,公年七十四,告薨於家,贈兵部尚書。

公始以進士,[45]佐三府,官至殿中侍御史。元和元年,以大理正征,累遷江州刺史、諫議大夫,事有害於正者,無所不言。加皇太子侍讀,改給事中,言京兆尹阿縱罪人,詔奪京兆尹三月之俸。[46]權知尚書右丞,明年,拜右丞,[47]改華州刺史。明州?貢海蟲淡菜蛤蚶可食之屬,自海抵京師,道路水陸,遞夫積功,?為四十三萬六千人,奏疏罷之。[48]下?令笞外按小兒,[49]系御史獄,公上疏理之。詔釋下?令,而以華州刺史為大理卿。[50]

十二年,自國子祭酒拜御史大夫,嶺南節度等使。[51]約以取足,境?諸州負錢,至二百萬,悉放不收。蕃舶之至泊?,有下碇之?,[52]始至有?貨之燕,犀珠磊落,賄及仆隸,公皆罷之。[53]?海之商,有死於吾地者,官藏其貨,滿三月,無妻子之請者,盡沒有之。[54]公曰:"海道以年計往復,何月之拘??有驗者,悉推與之,無算遠近。"厚守宰俸,而嚴其法。嶺南以口為貨,其荒阻處,父子相縛為奴,公一禁之。[55]有隨公吏,[56]得無名兒,蓄不言官;有訟者,公召殺之。山谷諸?,世自聚為豪,觀吏厚薄緩急,[57]或叛或從。容桂二管,[58]利其虜掠,請合兵討之,冀一有功,有所指取。當是時,天子以武定淮西河南北,[59]用事者以破諸?為類,向意助之。[60]公?言:遠人急之,則惜性命,相屯聚為寇;緩之,則自相怨恨而散,此禽獸耳。[61]但可自計利害,不足與論是非。天子入先言,遂斂兵江西、嶽鄂、湖南、嶺南,會容桂之吏以討之,被霧露毒,相枕藉死,百無一還。安南乘勢殺都護李象古。[62]桂將裴行立,容將楊旻,皆無功,數月自死。[63]嶺南囂然。祠部?下廣州,祭南海廟,廟入海口,為州者皆憚之,不自奉事,常稱疾,命從事自代。唯公?常自行。[64]官吏刻石為詩美之。[65]

十五年,遷尚書吏部侍郎。公之北歸,不載南物,奴婢之籍,不揶齔l。長慶元年,改右散騎常侍;二年,而為尚書左丞。曾祖諱務本,滄州東光令。祖諱如珪,海州司?參軍,贈尚書工部郎中。皇考諱岑父,秘書省著作佐郎,贈尚書左仆射。公夫人京兆韋氏;父種,大理評事。有四子:長曰?質,四門博士;遵孺、遵憲、?裕,[66]皆明經。女子長嫁中書舍人平陽路隋,其季者幼。公之昆弟五人,載、戡、?、?。[67]公於次為第二。公之薨,?自湖南入為少府監。[68]其年八月甲申,?與公子葬公於河南河陰廣武原[69]先公仆射墓之左。銘曰:

孔世卅八,[70]吾見其孫。白而長身,[71]寡笑與言。其尚類也,[72]莫與之倫。コ則多有,請考於文。




  韓愈の生涯
第一章 科挙への道と挫折   大暦三(768)年 〜 貞元十一(795)年
   〈1〜2歳》家 系 / 〈3〜6歳》父の死 / 〈7〜18歳》兄の死 / 〈19歳〉科挙への道
   《19〜20歳》衣食の道 / 《20〜23歳》最初の挫析 / 〈24〜25歳〉進士及第
   〈25〜27歳》第二の挫折 / 《28歳〉自負と失意と
第二章 幕僚生活から四門博士  貞元十二(796)年 〜 貞元一八(802)年
   《29〜32歳》幕僚生活 / 《33歳〉再び幕僚生活 / 〈34歳》四たび吏部の試 / 《35歳》四門博士
第三章 陽山貶謫と中央朝廷復帰と、韓愈一門 貞元一九(803)年 〜 元和元(806)年
   《36歳》監察御史 / 第三の挫折 / 荊蛮の地
第四章 永貞革新と韓愈一門     永貞事件  永貞元(805)年八月 
   永貞革新とその経緯 / 永貞革新集団と春秋学 / 『春秋』と大中の説 / 大中の説と堯・舜の治績
   順宗実録
第五章 中央朝廷へ復帰    元和元(806)年 〜 元和九(814)年
   《39〜41歳》国子博士 / 《42〜43歳》河南県令 / 《44歳》送 窮
 / 《45〜46歳》進学の解 / 《46〜47歳》処世の術

第六章 「平淮西碑」から「論佛骨表」 元和一〇(815) 〜 元和一四(819)年

  《48歳》淮西の乱 / 《49歳》太子右庶子 / 《50〜51歳》栄達への道 / 《52歳》平淮西碑
   《52歳》論佛骨表 / 《52歳》潮州への道

第七章 潮州左遷から袁州刺史 元和一四(819)年 〜 元和一五(820)年

      《52歳〉潮州にて  /  《53歳〉袁州刺史

第八章 ふたたび長安へ、そして晩年 元和一五(820)年 〜 慶四(834)年

   《53歳》長安への道 / 《54歳〉国子祭酒 / 《55歳〉吏部侍郎 / 《56歳〉京兆の尹 / 《57歳》晩年



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