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  韓愈の生涯  

6- 1 第六章 「平淮西碑」から「論佛骨表」


第六章 「平淮西碑」から「論佛骨表」
淮西の乱 元和一〇(815)年《48歳》 


6−1 淮西の亂

 元和十年(815)、愈は四十八歳。正月、「庫部盧四兄曹長が元日に朝(朝廷での朝の儀式)より廻るに和し奉る」詩(韓文九)を作った。春もさかりに近づく寒食節の日、「寒食に直(宮中の宿直)より帰りて雨に遇ふ」(同上)を作り、勤務のためにゆっくり花を見て歩くこともできないとこぼした。朝廷の役人生活も、どうやら板についてきたようである。しかし、この年にはまた、彼の黙視していられない事態が発生した。
 事は前年、淮西の地方を治める彰義節度使呉少陽の死に始まる。少陽の子の呉元済は父の死を公表せす、朝廷には病気と披露し、節度使の職務を代行した。節度使の職‐はもちろん世襲ではないので、父のあとを子が継ぐわけではなく、節度使が死亡すれば、朝廷では人選をして後任を決定する。
しかし一方、節度使庖下の軍隊はすでに私兵化しているため、天下りの後任者には、すぐには服従できない。それよりも、前にもあったとおり、節度使の副官とか息子とかを後任にすれば、指揮は円滑になる。しかし、節度使の人事をその節度使の幕府内部で決定し、朝廷はそれを追認するだけでは、朝廷の権威は保てない。

 呉元済の場合、朝廷は彼が節度使の代行となることを否認した。だが、否認されたからといって引き下る呉元済ではない。朝廷の通達を無視して、執務を続ける。こうなれば朝廷としては元済を逮捕して処分するほかはないが、相手は軍隊を持っているので、討伐の官軍を派遣することになる。元済の方でもこれを迎え撃ったが、平素から指揮しているだけに、戦闘に強い。官軍は大した戦果をあげることはできなかった。朝廷の中にも元済の昧方があって、征討を中止し、元済の地位を承認するよう運動を始める。節度使たちはこんな時のために、日ごろから朝廷の高官の数名につけ届けをし、気脈を通じておくのを通例としていた。
 ところが、この年の五月、勅令によって戦線を視察していた御史中丞の裴度が、征討軍の必勝を報告し、遠征の継統を進言した。おそらくその直後であろうが、愈は「巻30-06平淮西碑」(淮西の事宜を論ずる状」(韓文四〇)を上奏している。全体の趣旨は、淮西の戦いに勝つべき方策を列拳した後、敵軍を破ることはたやすいが、「然れども未だ知る可からざる所の者は、陛下の断と不断とにあるのみ」というにあった。この際、皇帝が断乎として戦闘の継続を命じ、呉元済を撃破して、節度使に対する朝廷の権威を確立すべきだというのである。
 しかし、六月には凶変が発生した。主戦派の宰相武元衡が未明に参内の途中(当時は夜明けとともに朝廷で朝社が行われるため、未明から参内しなければならなかった)、刺客に襲われて殺され、次に裴度も襲撃を受けて負傷したのである。裴の方は、幸いに刺客が殺したと思って逃げ去ったため、生命は助かった。もちろん、呉元済と気脈を通する一派の暗殺計画である。主戦派の役人の間には動揺が起り、犯人の捜査すら、はかばかしくは進まない。兵部侍郎(軍政を管掌する兵部の次官)の許孟容が皇帝の前で「古自り未だ宰相の尺を路隅に横たへ、而も盗を獲ざりしこと有らす。此れ朝廷の辱なり」と涙ながらに訴えたので、ようやく捜査に本腰が入るしまつであった。そして賞金をかけて追究した結果、犯人は逮抽されたが、こんどは賞金が、いつまでたっても支給されない。愈は「賊を捕へし行賞を論する状」(韓文三九)を上奏し、信賞必罰の速やかなるべきことを論じた。
  一方では、この際裴度を罷免して混乱を収拾しようとする動きも生じている。しかし、これには皇帝か決然として反対した。憲宗は裴の負傷の恢復を待って宰相に任じ、いっそう精力的に淮西の討伐を進めさせた。
 これで愈の主張が通った形になった。彼としては自分の地位も安定したと感じたであろう。この単の作と推定される「示兒」(児に示す)詩(韓文七)には、次のようにうたう。



示兒 
(子にしめす)
始我來京師,止攜一束書。
はじめてわたしが都に出たときのことである。身にたずさえたものはたった一束の書物だけであった。
辛勤三十年,以有此屋廬。
それからこつこつと苦しみつつ精出すこと三十年になる。そのおかげで長安の靖安里にこの屋敷ができたのだ。
此屋豈為華,於我自有餘。』
この家は豪華とまではいえないが、わたしにとってはこれだけでも十分すぎるものといえるのである。
中堂高且新,四時登牢蔬。
中央の表座敷きは高くで新らしく、季節季節に神さまや御先祖にお供えをさし上げる。
前榮饌賓親,冠婚之所於。」
堂の南側はお客や親類をもてなすところだ。そして、元服や婚礼の行われるところなのだ。
庭?無所有,高樹八九株。
そのころは庭のなかには何も無く、高い木の八九本だけだった。
有藤婁絡之,春華夏陰敷。」
その木には藤がからみついていて、春には花がさき夏は葉かげをひろげるだけのものである。
(児に示す)
始め我れ京師に来たりしとき、止だ一束の書を携うるのみ。
辛勤すること三十年にして、以て此の屋盧有り。
此の屋豈華なりと為さんや、我れに於いては自のずから余り有り。
中堂 高うして且た新たなり、四時に牢蔬【ろうそ】を登ぐ。
前栄は賓親【ひんしん】を饌【せん】し、冠婚の於いてする所なり。」
庭内には有る所無く、高き樹 八九株【はちきゅうしゅ】のみ。
藤有りて之を婁絡【ろうらく】し,春 華【はな】やいで夏 陰に敷く。」

東堂坐見山,雲風相吹?。
東の離れ書斎からは腰かけたまま終南山が見える。山にはつぎつぎと雲がかかっては風が吹き散らしている。
松果連南亭,外有瓜芋區。」
そこから松の木や果樹が南のあずまやまでずっと連なるほど植えている。その外には瓜やさといものはたけが区分けしてある。
西偏屋不多,槐?翳空?。
西寄りには建て物もすくなく、えんじゅとにれの木ががらんとした地面にかげを落としている。
山鳥旦夕鳴,有類澗谷居。」
終南山には山鳥がおり、それが夕べには鳴きさわぐ。その雰囲気は谷間の住まいに類せるものが有るのだ。
東堂は坐して山を見、雲と風と相い吹?【すいきょ】す。
松果【しょうか】南亭に連なり、外には瓜芋【かう】の区有り。
西偏【せいへん】は屋多からず、槐?【かいゆ】空虚に翳【かざ】す。
山鳥 旦【あした】に夕べに鳴き、澗谷【かんこく】の居に類せること有り。


(815)
1.示兒
2.奉和庫部盧四兄曹長元日朝回【案:盧汀也。】
3.寒食直歸遇雨
4.送李六協律歸荊南【案:?。】
5.題百葉桃花【案:知制誥時作。】
6.春雪
7.戲題牡丹
8.盆池,五首之一
9.盆池,五首之二
10.盆池,五首之三
11.盆池,五首之四
12.盆池,五首之五
13.芍藥【案:元和中知制誥寓直禁中作。】
14.送李尚書【案:遜。】赴襄陽八韻得長字
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漢文委員会  紀 頌之