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渡荊門送別


渡荊門送別 李白詩4-7


 李白たちの舟は、長江三峡の急流を無事に下って荊門に着くことができた。あたりははや晩秋の気配。「荊門」は山の名で、長江の南岸、宜都(湖北省枝城市)の西北にある。対岸の虎牙山と対しており、昔は楚の西の関門といった趣き。そこは、蜀の東方、湖北・湖南地方への出口にあたるところである。

李白4

4.秋下荊門      216 李白 
霜落荊門江樹空、布帆無恙挂秋風。
此行不為鱸魚鱠、自愛名山入炙中。

霜は荊門に降り岸辺の樹々も葉が落ちた
帆に事はなく 秋風をはらんで立っている
こんどの旅は 鱸魚のなますのためではない
名山を愛し  炙渓の奥へ分け入るのだ

 李白はここで、ひとつの決意を口にしている。これからの旅は名高い寺を訪ねて勉強をし、東の果て「?中」(浙江省)まで分け入るのだと意気込んだ。炙中は炙渓の流れる地で、六朝の時代から文人墨客の閑居・風雅の地として有名であった。そうしたところを訪ねて有名人と交わりたいのが李白のおもいであった。

秋下荊門
霜落荊門江樹空、布帆無恙挂秋風。
此行不為鱸魚鱠、自愛名山入炙中。

秋 荊門を下る
霜は荊門(けいもん)に落ちて江樹(こうじゅ)空(むな)し
布帆(ふはん) 恙(つつが)無く 秋風に挂(か)く
此の行(こう)  鱸魚(ろぎょ)の鱠(なます)の為ならず
自ら名山を愛して?中(せんちゅう)に入る





 湖北地方に出た李白らが、足をとどめたのは江陵(湖北省沙市市)だ。江陵は荊州(けいしゅう)の州治のある県で、唐代には中隔城壁が設けられ、南北両城に区分された大城である。大都督府の使府も置かれ、軍事的にも重要な都市であった。李白と呉指南は江陵で冬を越し、地元の知識人と交流して翌年の春までを過ごす。

李白 5 渡荊門送別       

渡遠荊門外、来従楚国遊。
山随平野尽、江入大荒流。
月下飛天鏡、雲生結海楼。
仍憐故郷水、万里送行舟。
荊門を渡って送別す
遠く荊門に外までやってきた
はるばると楚の国へ旅をする
平野が広がるにつれ  山は消え去り
広大な天地の間へと  江は流れてゆく
月が傾けば 天空の鏡が飛ぶかとみえ
雲が湧くと   蜃気楼が出現したようだ
だがしかし  しみじみと心に沁みる舟の旅
故郷の水が  万里のかなたへ送るのだ


 李白は江陵で当時の道教教団、最高指導者の司馬承禎(しばしょうてい)と会っている。司馬承禎は玄宗皇帝から幾度も宮中に召され、法?(ほうろく・道教の免許)を授けるほどに信頼された人物だ。司馬承禎は南岳衡山(こうざん)での祭儀に参加するため湖南に行く途中で、江陵にさしかかったのだった。すでに高齢に達していた司馬承禎に李白は詩を呈し、道教について教えを乞うた。司馬承禎が李白を「仙風道骨あり、神とともに八極の表に遊ぶべし」と褒めた。
725年 開元十三年の春三月、二十五歳の李白と呉指南は江陵に別れを告げ、「楚国の遊」に旅立ちます。詩は江陵を去るに当たって知友に残した作品で、留別の詩。
 李白は眼前に広がる楚地の広大な天地に意欲をみなぎらせ、同時に「仍(な)お憐れむ 故郷の水 万里 行舟を送るを」と感傷もにじませる。

渡荊門送別       
渡遠荊門外、来従楚国遊。
山随平野尽、江入大荒流。
月下飛天鏡、雲生結海楼。
仍憐故郷水、万里送行舟。

渡ること遠し荊門(けいもん)の外
来りて従う  楚国(そこく)の遊(ゆう)
山は平野に随いて尽き
江(かわ)は大荒(たいこう)に入りて流る
月は下りて 天鏡(てんきょう)飛び
雲は生じて  海楼(かいろう)を結ぶ
仍お憐れむ  故郷の水
万里  行舟(こうしゅう)を送るを






 江陵を発った李白と呉指南は、長江を下って岳州(湖南省岳陽市)に着く。岳州の州治は岳陽にあり、南に洞庭湖が広がっている。唐代の洞庭湖は現在の六倍もの広さがあったので、まるで海だ。二人は夏のあいだ湖岸の各地を舟でめぐり歩く。洞庭湖に南から流れこむ湘水を遡って、上流の瀟湘(しょうしょう)の地へも行った。

李白 6

望天門山          

天門中断楚江開、碧水東流至北回。
両岸青山相対出、孤帆一片日返来。

天門山を割って楚江はひらけ
紺碧の水は東へ流れ  北へ向かって曲がる
両岸の山が   相対してそば立つなか
帆舟がぽつり  かなたの天から進んできた

 夏の終わりに、呉指南が湖上で急死。李白は旅の友を失い悲しみに打ちひしがれる。友の遺体を湖畔に埋葬して旅を続ける。岳陽を出て長江を下ると、やがて鄂州(湖北省武漢市武昌区)に着く。鄂州の江夏県城は大きな街だ。ここで暫く体を休めたあと、江州(江西省九江市)へ向かった。江州の州治は尋陽(じんよう)で、南に名勝廬山(ろざん)がある。
 長江は江州から東北へ流れを転じて、やがて江淮(こうわい)の大平原へと流れ出てゆく。天門山を過ぎるところから長江は真北へ流れ、やがてゆるやかに東へ移ってゆく。北へ向きを変えた長江の東岸に博望山、西側に梁山が向かい合い、山の緑が印象的であった。それを割るようにして長江は楚地から呉地へと流れてゆく。
 この詩を詠った時の李白は、帆舟が一艘、天の彼方から進むように、水平線のあたりからこちらに向かって近づいてくる。李白はそれを自分の舟の上で見ながら詠っている。

天門中断楚江開、碧水東流至北回。
両岸青山相対出、孤帆一片日返来。

天門山を望む
天門(てんもん)  中断して楚江(そこう)開き
碧水(へきすい)  東流して北に至りて回(めぐ)る
両岸の青山(せいざん)  相対して出で
孤帆(こはん)  一片  日返(にっぺん)より来(きた)る





 天門から北へ流れていた長江が東へ向きを変えると、舟はやがて江寧(こうねい・江蘇省南京市)の渡津(としん)に着く。江寧郡城は六朝の古都建康(けんこう)の跡である。雅名を金陵(きんりょう)といい、李白はほとんどの詩に「金陵」の雅名を用いている。金陵の渡津は古都の南郊を流れる秦淮河(しんわいか)の河口にあり、長干里(ちょうかんり)と横塘(おうとう)の歓楽地があ。そして酒旗高楼が林立している。


李白 7金陵酒肆留別          
風吹柳花満店香、呉姫圧酒喚客嘗。
金陵子弟来相送、欲行不行各尽觴。
請君試問東流水、別意与之誰長短。

風は柳絮(りゅうじょ)を吹き散らし  酒場は香ばしい匂いで満ちる
呉の美女が酒をしぼって客を呼び 味見をさせる
金陵の若者たちは  集まって別れの宴を開いてくれ
行こうとするが立ち去りがたく  心ゆくまで杯を重ね合う
どうか諸君  東に流れる水に尋ねてくれ
別れのつらさとこの水は どちらが深く長いかと


 李白は秋から翌年の春にかけて、金陵の街で過ごし、地元の知識人や若い詩人たちと交流した。半年近く滞在した後、726年開元十四年、暮春に舟を出し、さらに東へ進む。詩は金陵を立つ時の別れの詩で、呉の美女がいる酒肆(しゅし)に知友が集まり、送別の宴を催してくれる。

金陵酒肆留別          
風吹柳花満店香、呉姫圧酒喚客嘗。
金陵子弟来相送、欲行不行各尽觴。
請君試問東流水、別意与之誰長短

金陵の酒肆にて留別す
風は柳花(りゅうか)を吹きて  満店香(かん)ばし
呉姫(ごき)は酒を圧して  客を喚びて嘗(な)めしむ
金陵の子弟(してい)  来りて相い送り
行かんと欲して行かず  各々觴(さかずき)を尽くす
請う君  試みに問え  東流(とうりゅう)の水に
別意(べつい)と之(これ)と  誰か長短なるやと