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隋から唐へ 王朝の栄枯盛衰



1.唐王朝・唐の建国

 (ずい、581年 -618年)は、中国の王朝。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、黄巾の乱によって中国が分裂時代に入ってから400年ぶりに再統一した。実質的には国家体制=律令体制の整った初めての統一国家といえるのではないだろうか。
 しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城(長安、現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。

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 隋から唐の建国
 唐(とう、618年 - 690年・705年 -907年)は、中国の王朝。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。日本の場合は遣唐使などを送り、894年に菅原道真の意見で停止されるまで、積極的に交流を続けた。なお、690年に武則天によって唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述されることが通例である。
 漢文委員会では、盛唐期、杜甫、王維、李白の時代を見るのが基本なので、以下に唐王朝の初唐から盛唐の王朝の概略を示す。






2.唐王朝の変遷(皇帝の概略)



廟号
即位

退位
姓・諱/諡号
生没年
享年
父母

高祖 618年〜626年 李淵
神尭大聖大光孝皇帝
566年

635年
70 父 李モ
母 独孤信四女
李淵(りえん)は、唐朝の初代皇帝。隋末の混乱の中、長安を落として根拠地とし、恭帝侑を隋の正統として立て、その禅譲により唐朝を建国した。李淵の属する李氏は、史書では西涼の李ロの末裔とされ、隴西成紀を本貫とする漢民族とされているが、実際は鮮卑系の出身で、本来の姓は大野氏であり、中原の支配権を正当化するために、自分は漢民族の先祖を持っていると主張した。

2代 太宗 626年〜649年 李世民
文武大聖大広孝皇帝
599年
&49年
51 高祖(第2子)
太穆皇后竇氏
李世民は武将として優れた才能を発揮し、薛仁杲・劉武周・王世充・竇建徳・劉黒闥といった隋末唐初に割拠した群雄を平定するのに中心的役割を果たした。626年(武徳9年)6月、長安宮廷の玄武門で、李建成と弟の李元吉を殺害する事件を起こし(玄武門の変)、高祖は8月に李世民に譲位した。太宗の治世を貞観の治と称し、後世で理想の政治が行われた時代と評価された。文化的にもそれまで纏められていた『晋書』『梁書』『陳書』『周書』『隋書』の正史を編纂させ、特に『晋書』の王羲之伝では自ら注釈を行った。また645年(貞観19年)には玄奘がインドより仏経典を持ち帰っており太宗は玄奘を支援して漢訳を行わせている。

3代 高宗
649年〜683年 天皇大聖大弘孝皇帝 628年
貞観2年
683年12月27

弘道元年
56 太宗(第9子)
外戚の長孫氏が皇后である武氏の一派によって追放され、代わって武后が政治の実権を掌握するようになっていた。このため高宗は武后廃立を計画したが、失敗する。後に丹薬による中毒で眼病を患い、唐の実権は完全に武后により掌握された。このような状況の中683年に崩御した。
病気がちであった高宗は、政治において主導権を発揮することはなく、最初は外戚の長孫氏、後に皇后の武氏に実権を握られ続けた皇帝であった。

4代 中宗 683年〜684年 李顕
大和大聖大昭孝皇帝
656年
710年
55 則天順聖皇后武氏
 高宗の七男として生まれる。当初は周王に封じられたが、後に英王に改封された。同母兄である李弘の急死と李賢の廃立の後、代わって立太子され、高宗の崩御により即位した。
即位後、生母である武則天に対抗すべく、韋皇后の外戚を頼った。具体的には韋后の父である韋玄貞(元貞)を侍中に任用する計画であったが、武則天が信任する裴炎の反対に遭う。計画を反対された中宗は怒りの余り、希望すれば韋元貞に天下を与えることも可能であると発言した。この発言を理由に、即位後わずか54日で廃位され、湖北に流された。

5代 睿宗 684年〜690年 李旦
玄真大聖大興孝皇帝
662年
716年
55 母 則天順聖皇后武氏
 684年、兄の中宗が母の武則天によって廃位されたことにより即位した。その即位は武則天の傀儡であり、政治的な実権は皆無であった。690年、武則天が自ら皇帝に即位すると廃位された。


武則天 690年〜705年 武照
則天順聖皇后
623年
武徳6年
705年12月16日
神龍元年
83 武士
楊夫人
  武則天は、唐の高宗の皇后。中国史上唯一の女帝となり、武周朝を建てた。日本では則天武后と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。一方最近の中国では、彼女が皇帝として即位した事実を重視して「武則天」と呼ぶことが一般的になっている。漢代の呂后、清代の西太后とともに「中国三大悪女」の一人に数えられる。
 武則天は貴族政治を嫌い、新しい人材を積極的に登用した。とくに貴族政治体制では出世が見込めない低い身分の出身者を重用した。武則天はその登用には才能と忠誠を重視している。姚崇と宋mは後に玄宗の下で朝政を行い、開元の治を導いた人物である。
 武則天は外交も積極的に行い、660年(顕慶5年)には新羅の請願を容れ百済討伐の軍を起こす。百済を滅ぼしたのち、倭国(日本)・旧百済連合軍と唐・新羅の連合軍(羅唐同盟)とが戦った白村江の戦い(中国の史書では白江之戦と表記される)にも勝利し、さらにその5年後には孤立化した高句麗を滅ぼし(麗唐戦争)、遼東の安定を実現している。
 出自を問わない才能を発掘する一方で、武則天は娘の太平公主や薛懐義・張易之・昌宗兄弟といった自身の寵臣、武三思・武承嗣ら親族たる武氏一族を重用し、その専横を招いた。また佞臣と呼ばれる許敬宗などを任用し、密告政治により反対者を排斥、来俊臣・索元礼・周興ら「酷吏」が反対派を監視する恐怖政治を行った。この状況に高宗は武后の廃后を計画するが、武后はこの計画を事前に察知、政変を未然に防止している。
 683年(弘道元年)、高宗が死ぬと高宗との間の子・中宗が即位するが、中宗の皇后韋氏が自分の血縁者を要職に登用したことをきっかけに、太平公主を使って中宗を廃位し、中宗の弟・睿宗を新たに皇帝に擁立した。睿宗は武后の権勢の下、自ら傀儡に徹した。
 武則天に対し、李氏の皇族たちが次々に叛乱を起こすが、いずれもすぐに鎮圧された。民衆は武則天に恐怖を感じながらも、その朝政は生活を安定させるものだったため、反乱軍に同調する者が少なく、大勢力に発展しなかったためである。
 690年(天授元年)、ついに武則天は自ら帝位に就いた。国号を「周」とし、自らを聖神皇帝と称し、天授と改元した。睿宗は皇太子に格下げされ、李の姓に代えて武姓を賜ることとなった。この王朝を後世の史家は「武周」と呼んでいる。

6代 中宗 705年〜710年 李顕
大和大聖大昭孝皇帝
656年
710年
55 高宗(第7子)
武則天が自ら即位して武周時代の末期の699年、李顕は武則天により再び立太子され、705年に大臣や将軍に迫られた武則天は李顕に譲位し、唐の国号を復活させた。
中宗は韋后を非常に信任し、朝政に参加させ、その父を王に封じた。また韋后との間にもうけた安楽公主もまた朝政に参加させた。安楽公主は自ら皇太女、さらには皇帝となることを狙い、韋后もまた武則天に倣い帝位を求めた。
710年、韋后の淫乱な行為が告発されると、韋后は追及を恐れ、安楽公主と共に中宗を毒殺し、末子重茂(殤帝)が擁立された。しかしその1ヵ月後、李旦の息子・李隆基(玄宗)により韋后と安楽公主は殺害され、殤帝は廃位された。中宗は定陵に埋葬された。

7代 殤帝 710年-710年 李重茂 695年
713年
19 父 中宗(末子)
 初めは北海王に封じられ、後に温王に転封となった。710年に父の中宗が継母の韋皇后と異母姉の安楽公主の母娘に毒殺された後、韋后によって皇位に即けられた。韋后は武則天同様に王朝の簒奪を狙っており(武韋の禍)、李重茂は禅譲のための傀儡として即位させられたに等しかった。しかし1ヶ月後には、叔母の太平公主と従兄の李隆基(玄宗)の手により韋后母娘とその一族は殺害された。やがて彼は、従兄の李隆基の手によって、その父親で李重茂の叔父の睿宗に譲位させられた。皇位を廃された李重茂は元の温王に戻されるが、713年に亡くなっている。あるいは殺害された可能性もあるが、史書にはその理由を記した記録は残っていない。

8代 睿宗 710年〜712年 李旦玄真大聖大興孝皇帝 662年716年 55 父 高宗(第8子)母 則天順聖皇后武氏
705年、武則天が死去直前に中宗が復位し、李旦は安国相王に封じられる。710年にはその中宗が韋皇后により毒殺された後、韋后一派を三男の李隆基(玄宗)と協力して排除し、甥の李重茂(殤帝)を廃して再び帝位についた。712年、玄宗に譲位し、太上皇帝を称した。716年に55歳で崩御した。

9代 玄宗 712年〜756年 至道大聖大明孝皇帝 685年9月8日
垂拱元年8月5日
762年5月3日
上元2年4月5日
78 睿宗(第3子
 睿宗の第3子として生まれる。母は徳妃竇氏。玄宗が生まれた頃は武則天の武周時代であった。玄宗が20歳になった705年、武后が中宗に禅譲することで武周は消滅し、唐が復活したが、朝廷には隆基の叔母で武后の娘である太平公主らを初めとした武后一族が勢力が残存していた。
中宗の皇后である韋皇后は、武則天に倣い政権を掌握すべく中宗を毒殺した。韋后は代わって擁立した殤帝を傀儡とし、自らに禅譲させようと企てていた。
これに対し、隆基の従兄である皇太子李重俊が韋后に対してクーデターを起こしたが失敗した。隆基はこれを教訓とし、太平公主と協力して韋后排除を計画、710年に計画が実行され、韋后の一族を皆殺しにした。これにより睿宗が復位、隆基はこの功により皇太子に立てられた。隆基には、睿宗が武則天の傀儡皇帝だった時期に皇太子に立てていた長兄の李憲(成器)がいたが、憲は弟の才能と功績を認めて皇位継承を放棄したため、皇位継承争いは生じなかった(隆基は皇帝即位後も憲に対しては常に敬意を払い、その死後には皇帝として追号(「譲皇帝」)した)。しかし隆基と太平公主との間には、主導権争いが発生する。これは712年に隆基が睿宗から譲位されたのちに太平公主を殺害し、実権を掌握したことで決着を見る。
開元の治 [編集]
玄宗の前半の治世は「開元の治」と称され、唐の絶頂期と評価されている。玄宗が行った政策は仏教僧達の度牒(現在にたとえれば宗教法人資格)の見直し、税制改革、節度使制の導入などである。これらの玄宗初期の政策を玄宗の下で行ったのは武則天に見出された姚崇、宋mの両宰相である。

755年11月初  安禄山が河北で叛乱を起し、12月には洛陽を落とし、自ら皇帝を名乗った。
10代 粛宗 756年〜762年 李亨文明武徳大聖大宣孝皇 711年
景雲2年&762

宝応元年
82 父 玄宗(第3子)母 楊氏
長兄の李jが早世し、皇太子である次兄の李瑛が737年(開元25年)に武恵妃らにより廃位されると、その翌年皇太子に立てられた。744年(天宝3載)には『享』と諱を改めている。
755年(天宝14載)11月、安史の乱が勃発すると翌年長安に反乱軍が迫ったことを受け玄宗と共に長安を脱出した。馬嵬(今の陝西省興平市)での兵士らによる反乱が発生、楊貴妃一族の粛清が行なわれると、玄宗は蜀へ避難し、李享らは安禄山らに対抗すべく北伐を行った。討伐軍は奉天(陝西省乾県)を経て、朔方節度使の駐屯所である霊武(寧夏回族自治区霊武市)に到着、7月に側近である宦官李輔国の建言を容れ自ら皇帝に即位、至徳と改元した。これは玄宗の事前の了承を得た即位ではなかったが、玄宗は後にこの即位を認め、自らは上皇となった。
 即位後は郭子儀の軍を中心にウイグルの援兵を加えて態勢を整えると、粛宗は鳳翔(陝西省鳳翔県)に親征し反撃に転じた。757年(至徳2載)に安禄山が自らの息子安慶緒に殺されると、郭子儀や粛宗の長子の広平王李俶(後に豫と改名)と第3子の越王李係らの活躍により長安や洛陽を奪還、粛宗は10月、玄宗は同12月にそれぞれ長安に帰還した。しかし、安慶緒や史思明らの残存勢力はなおも存在しており、唐軍と安史軍の膠着状態が継続した。

758年(乾元元年)、粛宗は第五gを塩鉄使とし塩の専売制を導入、財政の健全化を図りに国家体制の強化を計画したが、朝政の実権は皇后張氏や李輔国を初めとする宦官達に掌握されており、自らの政治力を発揮することはできなかった。その後李輔国は張皇后と主導権を巡る政争を引き起こし、両者に不都合な次子の建寧王・李?に謀反計画を名目に自殺に追い込むなどの事件も発生し、このころから粛宗は病床に就くことが多くなった。
11代 代宗 762年〜779年 李俶(初名)睿文孝武皇帝 726年779年 54 父 粛宗(長子)母 呉氏

12代 徳宗 779年〜805年 李?神武孝文皇帝 742年805年 64 父 代宗(長子)母 呉氏




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