紀頌之の中国詩文研究のサイト

210王之渙 涼州詞


トップ > 唐・宋時代の詩人 > 初唐の詩人たち -盛唐の詩人たち-中唐の詩人たち-晩唐の詩人たち&
邊塞詩の詩人

邊塞詩の詩人



210 王之渙 涼州詞


唐時代、はるか西の地方、涼州には多くの兵士が送り込まれた、

涼州詞

黄河遠上白雲間,一片孤城萬仞山。

羌笛何須怨楊柳,春風不度玉門關。


 黄河をずっと遡って白雲が白くたなびくあたりにはそそりたつ山にポツンと塞が立っている。
折から聞く羌族の吹く笛の音は別れの曲『折楊柳』を悲しげに奏でているが、そんな笛は吹くことはないという。なぜなら、ここ西の果て、玉門関までは春の光はやってこないのだから。

 玉門関は、甘粛省の西にありました。紀元前2世紀に築かれたシルクロードの重要な関所の一つです。辺境を守る兵士たち、彼らが耳にするのは「折楊柳」、異民族の奏でる別れの曲です。折楊柳というのは、中国では、いにしえより旅人を見送る時、柳の枝を折ってわたす習わしがあります。だから、故郷から遠く離れた前線に送られた兵士にとって、この別れの曲はグッと悲しみを深くするものです。ところが兵士は、悲しいそぶりを見せません。
 悲しくないというのは上辺のこと、その胸の内にはすべてを諦めきったような茫然な悲しい姿なのです。通常の悲しみを通り越した兵士はもはや悲しさを見せなくなっていたのです。

 ああ、都はもはや春を迎えているころだ。花が咲き、草木は萌え、人々は浮かれ騒いでいるのだろうか。
 しかし、ここは砂漠の中の塞、見捨てられた最前線なのだ。花や草木は当然無理なことだけど、その前の春の光さえ届いてはいないのだ。
 だったらここで、頑張るしかない。見捨てられても生き抜いてやるぞ。敵の異民族が悲しくなる曲を奏でてきたから説いて悲しくなんかなっていられるか。
 兵士はあきらめていながら、人前で、強がってみせるのです。でもそれが兵士の悲しさが一層強烈に伝わってくるのです。

 王之渙(おうしかん:688年-742年)は役人としては不遇な人でしたが詩人としては、当時名声が高く、作品が出来上がると楽士がすぐそれ二曲をつけ歌われたといいます。ただ、現存する詩は少なく、『全唐詩』にわずか6首を残すのみである。
 この詩は、兵士の悲しみを適格に詠っている、唐代の傑作といえるだろう。
 同様な作家としては、王翰(おうかん)が、流行歌の歌詞作者として知られている。

 詩より、楽で流行したためかその時々の雰囲気や感情で歌詞に変化が見られている。
『唐詩三百首』(巻八・七言絶句・楽府)では、題は同じ「出塞」でも詩句は「黄河遠上白雲間,一片孤城萬仞山。
羌笛何須怨楊柳,春風不度玉門關。」や

黄沙直上白雲間,一片孤城萬仞山。
羌笛何須怨楊柳,春風不過玉門關。となっている。

中国での流布本の多くは、この「春風」である。
『唐詩選』では「涼州詞」として

黄河遠上白雲閨C一片孤城萬仞山。
羌笛何須怨楊柳,春光不度玉門關。となっている。  




河 遠く上る  白雲の間,

一片の 孤城  萬仞の山。

羌笛 何ぞ須(もち)ゐん  楊柳を 怨むを,

春光 度らず  玉門關。








王之渙のもっとも有名な傑作

雄大な楼上からの眺めを詠った

登鸛雀樓 王之渙



涼州詞

黄河 遠く上る  白雲の間,

一片の 孤城  萬仞の山。

羌笛 何ぞ須(もち)ゐん楊柳を 怨むを,

春光 度らず  玉門關。











  玉門関  従軍行 王昌齢 涼州詞 王之渙
1、玉門関(ぎょくもんかん)は俗称を小方盤城といい、甘粛省敦煌市の西北約90キロにある。シルクロードの重要な関所の一つとして、漢と唐二度に渡り建立された。漢の武帝が匈奴防衛のため、また西域各国との通交のため各所に障壁や烽火台を築いた。それは元鼎六年(紀元前111)に令居(今の甘粛省永登県)から酒泉へ、元封四年(前107)には酒泉から玉門関へ至った。玉門関の西方5キロに、今も不完全ながら漢代の長城があり、砂と石の中にアシを補強材に入れて築かれ、烽火台も残っている。




   ページの先頭へ  

漢文委員会  紀 頌之