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  韓愈の生涯  

5-1 国子博士


07 第五章 中央朝廷へ復帰  5-1国子博士 元和元(806)年〜元和三(808)年《39〜41歳》 


第五章 中央朝廷へ復帰

5-1  国子博士

 その夏も終りに近づいた六月十日(旧暦なので、六月は晩夏にあたる)、ようやく召還の命令がとどいた。愈を国子博士の事務取扱に任ずるというのである。正規の官ではないが、彼は以前
の四門学よりは上流の子弟を収容する国子学の教授となった。
 憲宗は即位以来、皇帝の権威を回復しようとし、朝廷に人材を集める方針をとった。すでに三月には皇帝の親試があり、白居易・元狽などの俊才が選抜されている。愈の召還も、それにつながる措置だったのであろう。愈がうれしくなかったはずはない。しかし一方では、彼は前の失敗に懲りて、慎重にもなっている。都の東南の藍関を越え、あとは長安まで一本の下り道となったとき、彼は乗馬をうたうことに託して、心境を述べた(《昌黎先生集/卷9-21入關詠馬》、関に入りて馬を詠す)。
入關詠馬
?老豈能充上駟,力微當自慎前程。
不知何故翻驤首,牽過關門妄一鳴。
歳老いたれば壹能く上馴に充てんや、力微なれば当に自ら前程を慎むべし
知らす何故か翻って首を誤げ、牽いて関門に過るとき妄りに一たび鳴く

 老いぼれ馬はもう、りっぱな馬車はひけない。力も弱っているから、前途に気をつけなければならぬ。それなのに、なぜかこの馬は頭をあげて、関所の門を牽きながら通るとき、勝手に一度、鳴声を立てた。
 あまり大きな理想は抱かぬ方がよい、そして口に気をつけるがよいと、愈は自分に言いきかせながら、都へ入ったのである。
 だが、その彼の周囲を、また陰謀がとりまいた。宰相の鄭絹は彼に目をかけてくれたが、そうなるとすぐに鄭の家まで行って、彼を非錐する者が現れる。ほかの有力者のところにも、しきりに彼の悪口か伝えられる。彼は「釈言」(韓文一三)を書き、その経緯を詳しく述べたが、文章の調子は、さすがに以前ほど挑戦的ではない。むしろ宰相たちが事実無根の悪ロに動かされるはずはないと、しきりに強調して、自分はただ平然としているだけだと書いている。しかし、ほんとうに平然とした心境なら、こんな文章を書く心要もないわけで、当時の彼がかなり神経質になっていたことが推察できよう。
 この年、韓悛が死んだ。意の父の末弟紳卿の子で、愈よりも十八歳の年長である。愈の祖父叡素には愈を含めて8人の男の孫があった。その六人までがすでに死んでおり、この年に至って、ついに愈ただ一人となってしまったわけである。
 元和二年(807)、愈は四十歳。宰相の鄭絹は、もともと愈を何か文学に関係のある職につけるつもりだったらしい。そのために、さきのような反対運動も激しかったわけである。それに対する愈の態度も、都にもどる当時の決意を守って、すいぶん慎んではいたつもりらしかったが、持って生れた気性は改めようもなかった。後年、彼は「同年」の馮宿へ送った乎紙の中で、次のように述懐している(《昌黎先生集/卷17-6答馮宿書》、馮宿に答ふる書)。
仆在京城一年,不一至貴人之門,人之所趨,仆之所傲。
與己合者則從之遊,不合者雖造吾廬,未?與之坐,
此豈徒足致謗而已,不戮於人則幸也。
追思之,可為戰栗寒心。
自分は都に一年ほど住んでいたが、「貴人の門」は一度も訪れなかった。皆がご機嫌取りに行きたがるので、こちらは知らぬ顔をきめこんだのである。そして気の合う仲間がいればつきあうが、気の合わないやつは、家までたずねて来ても、同席したことは一度もない。(仆 京城に一年在り,貴人の門に至ること一びもなし,人の趨る所,仆 之れ傲する所なり。己と合する者 則ち之に從うて遊び,合ぜざる者雖も吾が廬を造し,未だ與に之と坐すを?めず,此れはじめ豈徒に膀りを致すに足るのみならんや。人に戮せられずんば幸ひなり。これを追思すれば為に戦慄寒心す可し。)

 そして彼は、《昌黎先生集/卷4-8剥啄行》と題する四言古詩(韓文四)を作った。「剥啄」とは、門を叩く音の擬声語である。誰かが来て門を叩くのだが、愈は会おうとしない。客は怒って、帰ってしまう。すると、愈の「従者」がなぜ会わないのかとたずねる。客と会って話をすれば、何かとロ禍を招きやすい。
会わなければ大丈夫なのだと答えると、従者はさらに言う。会わなくても、人の口に戸は立てられぬ。むしろ、どんなことを言われるか、わかったものではない。だいたい、今の人間は名声と官位とを求めているために、こんな事態が起るのだ。あなたが危険を避けたいなら、現在の地位から身を引くがよい。愈はこの忠告に感謝して言う。おまえの言うことはわかった。「肘は追ふも及ばず来は年有らす」。過去のことは、いまさらどうしようもない。将来のことは、年内にきまりをつけよう。
 これはもちろん、架空の対話であろう。「従者」からの忠告という形で、意は自分の決意を述ベたのである。そして、たしかに「年内」に、愈は身を引くことを現実化した。具体的には、洛陽ヘの転任を願い出たのであった。
 唐では洛陽を副都として東都と呼び、皇宮を造営してあった。皇帝が洛陽に行幸し、皇宮に滞在すれば、そこで歌務をとり、その期間は洛陽が首都となる。したがって、朝廷の百官のうちには、長安勤務と洛陽勤務の二種類に分れるものがあった。国子博士もその一つである。皇帝が洛陽へ来たときには、洛陽勤務の者が政務にあすかるわけで、どちらに勤務しても、地位に変りはない。ただ、これは制度上のことであって、実際には特別の事情があった場合を除き、皇帝が洛陽に長く潜在することはなく、したがって洛陽勤務の役人は、肩書だけで、政務にタッチすることはない。そのかわり、中央政府の政争の渦中からは逃れられる。愈はその道を選んだのである。

 願いは聞きとどけられた。後年の作になるが、《昌黎先生集/卷4-21東都遇春》東都にて春に遇ふ」と題する詩で(韓文四)、彼は「幸ひに東都の官を蒙り機と穿とより離るるを得たり」と喜んだ。そして、さきほどの馮宿ヘの手紙にも言う。
 東都に移ってからは自制して、くだらぬやつが来ても、馬鹿にした顔をしないようにつとめた。
まして、今の世に名のあるほどの者なら、なおていねいにと心がけた。「此を以て自ら謂へらく時の患ひ無きに庶幾からんと」。
元和三年(808)、愈は四十一歳。これまで事務取扱だったのが解消されて、国子博士の本官に任ぜられた。
 しかし、それによって特に家計が楽になったわけではない。薄給はあいかわらずである。苦しさに堪えかねて、彼は役人生活に見切りをつけることも考えるようになる。すでに前年、東都に着任したばかりのころの詩に(韓文四、裴土ハ功曹に酬ゆ)、洛水のほとりで一日中釣をしている自分を描き、「多才 自ら労苦し/無用(東都の職では、何もすることがないわけである) 祗因循するのみ/辞免せんこと期は遣きに附ず/行く行く山春に及ばん」と詠じた。そしてこの年の詩には言う《昌黎先生集/卷4-19崔十六少府攝伊陽以詩及書見投因酬三十韻》(韓文四、崔十六少府に酬ゆ)。
 洛陽へ来れば少しは落ちつくかと思ったところが、この薄給の身を頼りにする一族が多すぎた。
朝飯も食べられす、奔走して米を手に入れた時は、もう日が傾いているしまつ。子供は、目鼻立ちはよいのだが(愈にも親馬鹿なところはあったと見える)、脱がむき出しの着物を着ている。ろくな副食も食べさせてやれない。

謀拙日焦拳,活計似鋤?。
男寒澀詩書,妻痩剩腰?。
為官不事職,厥罪在欺謾。
行當自劾去,漁釣老葭?。
謀は拙にして日に焦拳し,活計は鋤?するにも似たり。
男は寒にして詩書に澀しみ、妻は?せて腰?を剩す。
官と爲りて職を事とせざるは、厥の罪 欺謾に在り。
行く 當に自ら劾し去るべし,漁釣 葭?【かがん】に老ゆ。


 金もうけが下手だから、毎月恂悴している。生計は鋤で椙り崩されるような感じだ。亭主は貧乏で学問に難渋しており、女房は痩せて帯が余るほど。官職につきながら職務につとめないのは、公をあざむく罪に該当しよう。いすれは自分で自分を弾劾し、辞任して、水辺の草深い中で魚をとりながら老年を過ごすこととしたい。
 とは言うものの、このころから、愈か書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

 ところで、愈が書いた墓誌銘のうち、制作時期を確定できるものに限定しても、この前年には《昌黎先生集/卷24-4考功員外盧君墓銘》ほか二篇があり、この年は《昌黎先生集/卷24-7河南少尹裴君墓誌銘》一篇に止まるが、翌年にはまた三篇、その次の年は四篇と増加する。それらの中には愈または彼の一族と関係のあった人物の墓誌銘もあるが、多くは格別の縁故もなさそうに見える。つまり、愈のところへ墓誌銘の依頼に来る人が増加したわけで、少なくとも墓誌銘に関する限り、愈の文章の評価が高くなったことを示す。そして遺族からの謝礼が貧乏に悩む愈の家計を補ったであろうことは、疑う余地がない。



入關詠馬
?老豈能充上駟,力微當自慎前程。
不知何故翻驤首,牽過關門妄一鳴。


答馮宿書
垂示仆所闕,非情之至,仆安得聞此言?朋友道闕?久,無有相箴規磨
切之道,仆何幸乃得吾子!仆常閔時俗人有耳不自聞其過,懍懍然惟恐
己之不自聞也。而今而後,有望於吾子矣。然足下與仆交久,仆之所守,
足下之所熟知。在京城時,囂囂之徒,相?百倍,足下時與仆居,朝夕
同出入起居,亦見仆有不善乎?然仆退而思之,雖無以獲罪於人,亦有
以獲罪於人者。仆在京城一年,不一至貴人之門,人之所趨,仆之所傲。
與己合者則從之遊,不合者雖造吾廬,未?與之坐,此豈徒足致謗而已,
不戮於人則幸也。追思之,可為戰栗寒心。故至此已來,克己自下,雖
不肖人至,未?敢以貌慢之,況時所尚者耶?以此自謂庶幾無時患,不
知猶複雲雲也。聞流言不信其行,嗚呼,不複有斯人也!君子不為小人
之恟恟而易其行,仆何能爾?委曲從順,向風承意,汲汲然恐不得合,
猶且不免雲雲。命也,可如何!然子路聞其過則喜,禹聞昌言則下車拜,
古人有言曰:「告我以吾過者,吾之師也。」願足下不憚煩,苟有所聞,
必以相告。吾亦有以報子,不敢?也,不敢忘也。愈再拜。



剥啄行
剥剥啄啄,有客至門。我不出應,客去而嗔。
從者語我,子胡為然。我不厭客,困於語言。
欲不出納,以堙其源。空堂幽幽,有?有莞。
門以兩板,叢書於間。??深塹,其?甚完。
彼寧可?,此不可幹。從者語我,嗟子誠難。
子雖雲爾,其口益蕃。我為子謀,有萬其全。
凡今之人,急名與官。子不引去,與為波瀾。
雖不開口,雖不開關。變化咀嚼,有鬼有神。
今去不勇,其如後艱。我謝再拜,汝無複雲。
往追不及,來不有年。

剥剥【はくはく】啄啄【たくたく】,客有りて門に至る。
我出でて應えず,客去りて嗔【いか】る。
從者 我に語る,子 胡為【なんすれ】ぞ然【しか】る。
我 客を厭【いと】わず,語言に困【くる】しめり。
出納せずして,以って其の源を堙【ふさ】がんと欲す。
空堂 幽幽とし,?【かつ】有りて莞有る。
門は兩板を以てし,書を間に於て叢む。
??【ようよう】たる深塹【しんざん】,其の?【よう】甚だ完【まっと】うし。
彼【かしこ】は寧【いずく】んぞ?【おと】す可けん,此は幹す可からず。
從者 我に語る,嗟 子誠に難し。
子は爾【しか】雲【い】うと雖も,其の口 益【ますます】蕃【しげ】し。
我 子が為に謀るに,萬も其れ全きこと有らんや。
凡【おおよ】そ今の人,名と官とに急なり。
子 引きて去らずんば,與【ため】に波瀾【はらん】を為さん。
口を開かずと雖も,關【かん】を開かずと雖も。
變化 咀嚼【そしゃく】し,鬼有りて神有り。
今去って勇ならずんば,其れ後の艱を如【いか】んせん。
我謝して再拜す,汝 複た雲【い】うことなかれ。
往は追うも及ばず,來は有年らじと。



東都遇春
少年氣真狂,有意與春競。行逢二三月,九州花相映。
川原曉服鮮,桃李晨妝?。荒乘不知疲,醉死豈辭病。
飲?惟所便,文章倚豪。爾來曾幾時,白發忽滿鏡。
舊遊喜乖張,新輩足嘲評。心腸一變化,羞見時節盛。
得閑無所作,貴欲辭視聽。深居疑避仇,默臥如當暝。
朝曦入?來,鳥喚昏不醒。為生鄙計算,鹽米告??。
坐疲都忘起,冠側懶復正。幸蒙東都官,獲離機與?。
乖慵遭傲僻,漸染生弊性。既去焉能追,有來猶莫聘。
有船魏王池,往往縱孤泳。水容與天色,此處皆?。
岸樹共紛披,渚牙相緯經。懷歸苦不果,即事取幽迸。
貪求匪名利,所得亦已並。悠悠度朝昏,落落捐季孟。
群公一何賢,上戴天子聖。謀謨收禹績,四面出雄勁。
轉輸非不勤,稽逋有軍令。在庭百執事,奉職各祗敬。
我獨胡為哉?坐與億兆慶。譬如籠中鳥,仰給活性命。
為詩告友生,負愧終究竟。

少年 気 真【まこと】に狂なり、意 春と競う有り。
行きて二三月に逢えば、九州 花 相映ず。
川原【せんげん】暁服【ぎょうふく】鮮かに、桃李 晨妝【しんしょう】?【うつく】し。
荒乗 疲れを知らず、酔死 豈病いを辞せんや。
飲啖【いんたん】 惟だ便とする所、文章 豪【ごうおう】に倚る。
爾来【じらい】 曾て幾時ぞ、白髪 忽【たちま】ち鏡に満つ。
旧遊は乖張【かいちょう】を苦み、新輩【しんはい】は嘲評【ちょうひょう】足れり。
心腸一たび変化し、時節の盛なるを見るを羞ず。
間を得て作す所無く、貴欲 視聴を辞す。
深居 仇を避くるかと疑い、黙臥 瞑に当たるが如し。
朝曦【ちょうぎ】?【まど】に入り来たり、鳥喚べども昏にして醒めず。
生を為すに計算に鄙【うと】く、塩米 屡【しばし】ば?【つ】くるを告ぐ。
坐疲れて都【す】べて起つを忘れ、冠側【かたむ】きて復正すに懶【ものう】し
幸いに東都の官を蒙【こうむ】り、機と?とより離るるを獲たり。
乖慵【かいよう】して傲僻【ごうへき】に遭い、漸染【ぜんせん】して弊性を生ず。
既に去るは焉【いず】くんぞ能く追わん、来たる有るは猶お騁【へい】すること莫けん。
船有り親王の池、往往 孤泳を縦【ほしいまま】にす。
水容と天色と、此の処 皆緑浄なり。
岸樹 共に紛技として、渚牙【しょが】相 緯経【いけい】す。
帰るを懐うて果たさざるに苦しみ、事に即いて幽迸【ゆうほう】を取る。
貪り求むるは名利に匪ず、得る所 亦己に併す。
悠悠として朝昏を度り、落落として季孟を捐【す】つ。
群公一に何ぞ賢なる、上に天子の聖を戴【いただ】く。
謀謨【ぼうばく】禹績【うせき】を収め、四面 出でて雄勁【ゆうけい】なり。
転輸【てんゆ】勤めざるに非ず、稽逋【けいほ】軍令有り。
在庭の百執事、職を奉ずること各【おのお】の祗【つつし】み敬【つつし】む。
我独り胡【なに】をか為す、坐【い】ながらにして億兆の慶びに与【あず】かる。
譬【たと】えば籠中【ろうちゅう】の鳥の、給を仰いで性命を活かすが如し。
詩を為って友生に告ぐ、愧【はじ】を負うて終【つい】に究竟【きゅうきょう】せんやと




《昌黎先生集/卷4-19崔十六少府攝伊陽以詩及書見投因酬三十韻》
崔十六少府攝伊陽以詩及書見投因酬三十韻
崔君初來時,相識頗未慣。但聞赤縣尉,不比博士慢。
賃屋得連墻,往來忻莫間。我時亦新居,觸事苦難?。
蔬?要同吃,破襖請來綻。謂言安堵後,貸借更何患。
不知孤遺多,舉族仰薄宦。有時未朝餐,得米日已晏。
隔墻聞歡呼,?口極鵝雁。前計頓乖張,居然見真?。
嬌兒好眉眼,袴?凍兩骭,捧書隨諸兄,??兩角丱。
冬惟茹寒齏,秋始識瓜瓣。問之不言饑,飫若厭芻豢。
才名三十年,久合居給諫。白頭趨走裏,閉口?謗?。
府公舊同袍,拔擢宰山澗。寄詩雜詼俳,有類?鵬?。
上言酒味酸,冬衣竟未?。下言人吏稀,惟足彪與?,
又言致豬鹿,此語乃善幻。三年國子師,腸肚習藜?。
況住洛之涯,魴鱒可罩汕。肯效屠門嚼,久嫌弋者?。
謀拙日焦拳,活計似鋤?。男寒澀詩書,妻?剩腰?。
為官不事職,厥罪在欺謾。行當自劾去,漁釣老葭?。
?窮寒氣驕,冰雪滑磴棧。音問難?通,何由覿清?。



考功員外盧君墓銘[??]
愈之宗兄故起居舍人君以道コ文學伏一世。其友四人,
其一範陽盧君東美。少未出仕,皆在江淮間,天下大
夫士謂之「四?」,其義以為道可與古之?皋者r,
故雲爾;或曰:??為相,世謂「相?」,四人者雖
處而未仕,天下許以為相,故雲。

大?初,禦史大夫李棲?由工部侍郎為浙西觀察使,
當是時,中國新去亂,士多避處江淮間,?為顯官,
得名聲,以老故自任者以千百數,大夫莫之取,獨晨
衣朝服,從騎吏入下裏舍請盧君。君時始任戴冠,通
《詩》《書》,與其群日講?周公孔子,以相磨?浸
灌,婆婆嬉遊,未有舍所為為人意。既起從大夫,天
下未知君者,惟奇大夫之取人也不常,必得人;其知
君者,謂君之從人也非其常,守必得其從。其後為太
常博士、監察禦史、河南府司?、考功員外郎,年若
幹而終。在官舉其職。夫人李姓,隴西人。君在,配
君子無違コ;君歿,訓子女得母道甚。後君二十年,
年六十六而終。將合葬,其子暢命其孫立曰:「乃祖
コ烈靡不聞,然其詳而信者,宜莫若吾先人之友。先
人之友無在者,起居丈有季曰愈,能為古文,業其家。
是必能道吾父事業。汝其往請銘焉!」立於是奉其父
命,奔走來告。愈謂立曰:「子來宜也,行不可一二
舉。且我之生也後,不與而祖接,不得詳也。其大者
莫若?所與,觀所與?寡,茲可以審其コ矣。乃祖未
出而處也,天下大夫士以為與古之?皋者r,且可以
為相,其コ不既大矣乎!講?周公孔子,樂其道,不
樂從事於俗;得所從,不擇?外,奮而起:其進退不
既合於義乎!銘如是,可以示於今與後也歟?」立拜
手曰:「唯唯。」

君祖子輿,濮州濮陽令。父同,舒州望江令。夫人之
祖延宗,?州司馬;父進成,?州洛交令。男三人:
暢、申、易,女三人,皆嫁為士人妻。墓在河南?氏
縣梁國之原。其年月日,元和二年二月十日雲。



河南少尹裴君墓誌銘
公諱複,字茂紹,河東人。曾大父元簡,大理正。大
父曠,禦史中丞京畿采訪使。父?,以有氣略敢諫諍
為諫議大夫,引正大疑,有寵代宗朝,?辭官不肯拜,
卒贈工部尚書。

公舉賢良,拜同官尉。仆射南陽公開府徐州,召公主
書記,三遷至侍禦史,入朝?殿中侍禦史,累遷至刑
部郎中。疾病,改河南少尹,輿至官,若幹日卒,實
元和三年四月二十三日,享年五十。夫人博陵崔氏,
少府監?之女。男三人:憬、質皆既冠,其季始六?,
曰充郎。卜葬,得公卒之四月壬寅,遂以其日葬東都
芒山之陰杜?村。公幼有文,年十四,上《時雨詩》,
代宗以為能,將召入為翰林學士,尚書公請免曰:
「願使卒學。」丁後母喪,上使臨吊,又詔尚書公曰:
「父忠而子果孝,吾加賜以雌V下。」終喪,必且以
為翰林。其在徐州府,能勤而有勞;在朝,以恭儉守
其職。居喪必有聞,待請弟友以善教,館?妹,畜孤
甥,能別而有恩。?十一官而無宅於都,無田於野,
無遺資以為葬。斯其可銘也已。銘曰:

裴為顯姓,入唐尤盛。支分族離,各為大家。惟公之
係,コ隆位細。曰子曰孫,厥聲世繼。晉陽之色,愉
愉翼翼。無外無私,幼壯若一。何壽之不遐,而祿之
不多。謂必有後,其又信然耶!


(806)
1.南山詩
2.秋懷詩,十一首之一
3.秋懷詩,十一首之二
4.秋懷詩,十一首之三
5.秋懷詩,十一首之四
6.秋懷詩,十一首之五
7.秋懷詩,十一首之六
8.秋懷詩,十一首之七
9.秋懷詩,十一首之八
10.秋懷詩,十一首之九
11.秋懷詩,十一首之十
12.秋懷詩,十一首之十一
13.醉贈張祕書
14.送文暢師北遊
15.答張徹【案:愈為四門博士時作。張徹,愈門下士,又愈之從子婿。】
16.薦士【案:薦孟郊於鄭餘慶也。】
17.喜侯喜至贈張籍、張徹【案:愈初謫陽山令。元和改元,自江陵掾召國子博士,其從遊如喜、如籍如皆會都下,詩以是作。】
18.至ケ州北寄上襄陽於相公書
19.贈鄭兵曹
20.李花贈張十一署【李有花贈張十一署】
21.杏花
22.感春,四首之一
23.感春,四首之二
24.感春,四首之三
25.感春,四首之四
26.送許郢州序
27.寒食日出遊【自注:張十一院長見示〈病中憶花〉九篇,寒食日出遊夜歸,因以投贈。(張十一,即功曹署,外郎遺補相呼為院長,愈與署同自御史貶官,又同為江陵掾。愈法曹參軍,署功曹參軍。)】
28.憶昨行和張十一
29.鄭群贈簟【案:群嘗以侍御史佐裴均江陵,愈陽山移江陵法曹,與群同僚。】
30.豐陵行【案:順宗陵也,在富平縣東北三十里。】
31.遊青龍寺贈崔大補闕【遊青龍寺贈崔群補闕】【案:寺在京城南門之東。】
32.贈崔立之評事【案:崔斯立,字立之,博陵人。元和初為大理評事,以言事黜官為藍田丞。】
33.送區弘南歸【送歐弘南歸】【案:《唐韻》:「區冶子之後,漢〈王莽傳〉有中郎區博。」弘嘗從愈於江陵,愈召拜國子博士。又從至京,時歸,以詩送之。】
34.短燈檠歌
35.春雪
36.春雪間早梅【春雪映早梅】
37.早春雪中聞鶯
38.和歸工部送僧約【案:工部,歸登也。約,荊州人。】
39.題張十一旅舍三詠:榴花
40.題張十一旅舍三詠:井
41.題張十一旅舍三詠:蒲萄
42.贈崔立之【案:見《外集》。】
43.春雪【案:見《外集》。】【案:見《遺集》。】
44.同宿聯句【案:韓愈、孟郊】
45.有所思聯句【案:韓愈、孟郊】
46.征蜀聯句【案:韓愈、孟郊】
47.雨中寄孟刑部幾道聯句【案:韓愈、孟郊】
48.
49.城南聯句【案:韓愈、孟郊】【案:此首又見張籍集。】
50.秋雨聯句【案:韓愈、孟郊】
51.納涼聯句【案:韓愈、孟郊】
52.鬥?聯句【案:韓愈、孟郊】
53.會合聯句【案:韓愈、張籍、孟郊、張徹】
54.遣興聯句【案:韓愈、孟郊】
55.贈劍客李園聯句【案:韓愈、孟郊】
56.贈崔復州序


(807)
1.元和聖コ詩
2.三星行【案:三星,斗、牛、箕也,愈自憫其生多?毀如此。蘇軾云:「吾生時與退之相似,吾命在牛斗間,其身宮亦在箕,斗牛為磨蝎,吾平生多得謗譽,殆同病也。」】
3.?啄行
4.酬裴十六功曹巡府西驛塗中見寄【案:裴十六,度也,監察御史出為南府功曹,時故相鄭餘慶為河南尹。】
5.記夢
6.嘲鼾睡,二首之一【案:見《外集》。】【案:見《遺集》。】
7.嘲鼾睡,二首之二【案:見《外集》。】【案:見《遺集》。】
8.張中丞傳後序
9.與汝州廬郎中論薦侯喜状
10.考功廬東美墓誌銘

(808)
1.贈唐衢【案:衢應進士,久而不第,能為歌詩,見人文章有所傷歎者,讀訖必哭,?與人言論,既別,發聲一號,音辭哀切,聞者莫不泣下,故世稱唐衢善哭。】
2.孟東野失子
3.陸渾山火和皇甫G用其韻【案:G時為陸渾尉。】
4.崔十六少府攝伊陽以詩及書見投,因酬三十韻
5.寄皇甫G【案:G,睦州新安人。】
6.祖席前字【案:送王涯徙袁州刺史作。】
7.祖席秋字
8.莎柵聯句【案:韓愈、孟郊】








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