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  韓愈の生涯  

8- 1 長安への道


  韓愈の生涯
第一章 科挙への道と挫折   大暦三(768)年 〜 貞元十一(795)年
   〈1〜2歳》家 系 / 〈3〜6歳》父の死 / 〈7〜18歳》兄の死 / 〈19歳〉科挙への道
   《19〜20歳》衣食の道 / 《20〜23歳》最初の挫析 / 〈24〜25歳〉進士及第
   〈25〜27歳》第二の挫折 / 《28歳〉自負と失意と
第二章 幕僚生活から四門博士  貞元十二(796)年 〜 貞元一八(802)年
   《29〜32歳》幕僚生活 / 《33歳〉再び幕僚生活 / 〈34歳》四たび吏部の試 / 《35歳》四門博士
第三章 陽山貶謫と中央朝廷復帰と、韓愈一門 貞元一九(803)年 〜 元和元(806)年
   《36歳》監察御史 / 第三の挫折 / 荊蛮の地
第四章 永貞革新と韓愈一門     永貞事件  永貞元(805)年八月 
   永貞革新とその経緯 / 永貞革新集団と春秋学 / 『春秋』と大中の説 / 大中の説と堯・舜の治績
   順宗実録
第五章 中央朝廷へ復帰    元和元(806)年 〜 元和九(814)年
   《39〜41歳》国子博士 / 《42〜43歳》河南県令 / 《44歳》送 窮
 / 《45〜46歳》進学の解 / 《46〜47歳》処世の術

第六章 「平淮西碑」から「論佛骨表」 元和一〇(815) 〜 元和一四(819)年

  《48歳》淮西の乱 / 《49歳》太子右庶子 / 《50〜51歳》栄達への道 / 《52歳》平淮西碑
   《52歳》論佛骨表 / 《52歳》潮州への道

第七章 潮州左遷から袁州刺史 元和一四(819)年 〜 元和一五(820)年

      《52歳〉潮州にて  /  《53歳〉袁州刺史

第八章 ふたたび長安へ、そして晩年 元和一五(820)年 〜 慶四(834)年

   《53歳》長安への道 / 《54歳〉国子祭酒 / 《55歳〉吏部侍郎 / 《56歳〉京兆の尹 / 《57歳》晩年


第八章


8.-1. 長安への道 元和一五(820)年《53歳》 


8.-2. 国子祭酒 長慶元(821)年《54歳〉 


8.-3. 吏部侍郎 長慶二(822)年《55歳〉 


8.-4. 京兆の尹 長慶三(833)年《56歳〉 


8.-5. 晩 年 長慶四(834)年《57歳》



8-1 長安への道
 やがて、待ち望んだ転任命令が出た。長安の国子祭洒に任ずるというものであった。国子祭酒とは長安に国子学(博士2名・助教2名・五経博士5名・学生300名)・太学(博士3名・助教3・学生500)・四門学(博士3名・助教3・学生500・俊士800)・律学・書学・算学・広文館などの教育機関があり、これらを統括する行政機関として国子監が設置されて国子祭酒・国子司業以下の職員が置かれた。国子学・太学・四門学など、すべての国立学校を統括する国子監の長官の職名である。発令は九月、それが袁州に届いたのは十月になった。韓愈はようやく青天白日の心境を得たのである。
 前年、潮州へ下降の途中、地名は明らかでないが、洞庭湖のほとりの湘君・湘夫人二神を祭った廟の下に舟を止め、一夜を明かしたことがあった。荒れはてた廟であったが、韓愈は参詣して祈念を凝らし、託宜を仰いだ。神戴は吉であった。「曰:"如汝志。"蒙神之福,啓帝之心;去潮即袁,今又獲位于朝,服其章?。」(曰く、"汝の志の如くせよ。神の福を蒙り、帝の心を啓かん。;潮を去り袁に即す,今、又、位は朝に獲り,服は其の章?く。"と記されていた。その予言どおり罪が晴れて都へ帰る愈は、使者を代参に立てて銭十万を持たせ、廟宇を修復し、「湘君夫人を祭る文」(韓文二三)をそなえさせたのである。
 寺院や僧侶への喜捨を嫌う韓愈も、神廟へのお礼参りは欠かさなかった。別段、湘君の神に福を祈願したわけではない。先に「丘の祷るや久し」などと大見得を切った態度から見られ、このことは矛盾と言われてもしかたがない。ただ、矛盾ではあるが、ここには罪の晴れた嬉しさに理屈ぬきで浸っている韓愈の姿が、想像されるというものである。
 袁州をあとにした韓愈の一行は、?江の流れを下って彭蠡湖に入り、江州(江西省九江)で長江に達した。ここはかつて白居易が流され、「琵琶行」を作った地である。今では韓愈の旧友の李程が、鄂岳剌史・鄂岳観察使として認められていた。韓愈はそれに五言古詩一首を贈る(韓文六、《除官赴闕至江州寄鄂岳李大夫》(官に除せられ闕に赴かんとして江州に至り、那岳の李大夫に寄す)。


 ……自分の歯は全部ぬけ落ちるばかりになっている。君の髪には、白いものがどれほど生えただ
ろう。二人とも、年はもう五十を過ぎて、将来の時間はいくらもなくなってしまった。若いころは
新しい知人のできるのが楽しみだったが、老年になると旧友が思われる。旧友とは肉親も同然のも
のだから、いろいろと議論の食い違う(相可否)こともしかたがなかった。自分は以前、まったく愚
かにも、人に譲る態度を示す(降色辞)ことができなかった。春秋時代の子犯という人も、自分の罪
は自分にもわかる、まして君主はなおさらのことと言った。貴公はどうか無理をしてでも自分の非
を大目に見てもらいたい。自分も態度を改めよう。今までの失敗が晩年になって取りもどせるもの
なら、貴公もどうか自分を思う乎紙を送ってほしい。
 この詩から見ると、愈と李程とは旧友であるが、何か意見の相違があって、疎遠になっていたら
しい。愈はそれを自分の罪として、交友の復活を願ったのである。そして今度もまた、少しはおと
なしくしようと自分に言いきかせながら、都へ帰って行ったのであった。
 船は揚子江をさかのぼり、現在の武漠市から北へ転じた。少し行けば、安陰という町がある。若
いころの李白がここで結婚し、しばらく住みついた地であった。このあたりにも愈の知人がいた。
随州刺史の周君巣である。愈はこの人にも五言律詩一首を贈った(韓文一〇、《自袁州還京,行次安陸,先寄隨州周員外》袁州より京に還らんとし、行いて安陸に次り、先づ随州の周員外に寄す)。

 自分は旅を続け、漢江の東、随州の地方を目ざして来た。ここまで来ると人々の笑い方も言葉も自分と同じなのに、しばしばうれしい思いがする(潮州や袁州の方言は、北方そだちの愈には通じなかったのである)。雪は漢江の上に降りかかり、その昔は雲夢の沢と呼ばれた湿地帯からは、芦が生えている。自分の顔はまだ南方の岸痍の色がしみこんでいるが、目はもう、中華の風俗を見ることができた。晩年になると(そして一方、時節もち″うど年の暮れである)、友人と会うこともむずかしい。しかし、一度会ってはくれないか。二人で酔いしれて歌う楽しみは、まだ終りとすることはできぬ。
 老年に加えて配所の生活に疲れた身には、長途の旅は堪えがたかったはずである。しかし、「中華の地」へ足を踏み入れるにつれ、そのつらさも党えぬほどに浮き立って、彼は都へと急いで行く。
 そしてなつかしい長安の町へ入ったのは、十二月ももうおしつまったころであった。




《除官赴闕至江州寄鄂岳李大夫〔李程也。元和十五年,自袁州詔拜國子祭酒,行次盆城作。〕》韓愈(韓退之) U中唐詩 <965>漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3809韓愈詩-260
除官赴闕至江州寄鄂岳李大夫
作者:韓愈
文章被一個用?校對過,已經相当可靠。
李程也,元和十五年,自袁州詔拜國子祭酒,行次盆城作。

盆城去鄂渚,風便一日耳。
不枉故人書,無因帆江水。
故人辭禮?,旌節鎮江圻。
而我竄逐者,龍鍾初得歸。
別來已三?,望望長迢遞。
咫尺不相聞,平生那可計。
我齒落且盡,君鬢白幾何。
年皆過半百,來日苦無多。
少年樂新知,衰暮思故友。
譬如親骨肉,寧免相可不。
我昔實愚惷,不能降色辭。
子犯亦有言,臣猶自知之。
公其務貰過,我亦請改事。
桑?儻可收,願寄相思字。

官を除せられて闕に赴むいて江州に至り 鄂岳 李大夫に寄す 
盆城は、鄂渚を去る,風便 一日 のみ。  
故人の書を枉げざれば,江水に帆する因無し。  
故人 禮?【れいい】を辭し,旌節 江圻【こうさ】を鎮す。  
而【しか】も我 竄逐【ざんちく】の者,龍鐘【りょうしょう】初めて歸るを得たり。  
別來 已に三?,望望として長く迢遞【ちょうてい】たり。  
咫尺 相い聞かざれば,平生 那んぞ計る可き。  
我が齒 落ち且つ盡き,君の鬢 白きこと幾何ぞ。  
年 皆 半ば百を過ぎ,來日 苦だ多き無し。  
少年には 新知を樂しみ,衰暮には 故友を思う。  
譬【たと】えば親骨 肉の如きも,寧ろ相い可不するをれんや。  
我 昔 實に愚蠢【ぐとう】にして,色辭【しょくじ】を降す能わず。  
子犯【しはん】も亦た言える有り,臣 猶お自ら之を知る。  
公 其れ務めて過【あやま】ちを貰【ゆる】せ,我も亦た請う事を改めん。  
桑? 儻【も】し收む可くんば,願わくば相思の字を寄せよ。  

(?州の刺史を除官して新らしく國子祭酒を拝するために長安に向かう際江州に至って鄂岳刺史観察使の李程にこの詩を寄せる)
盆城といわれている江州は江夏の鄂渚の港から風の都合がよければ一日という極めて便利なところにある。
ちょっと寄り道にはなるけれど、我が旧友から前もって書簡を寄せられていなかったならば、舟に帆をかけて江水を渡ることなくそのまま行き過ぎたことだろう。
我が友、李程は近頃、朝廷の禮部省より出でて、旌節を賜って六月鄂岳刺史観察使となり、この江辺の要地を鎮撫することになり、まことに目覚ましい立身である。
それに引き換え、わたしは、竄逐の身の上で、龍鐘として、老いさらばえてしまい、この度やっとの思いで召し返されることとなった次第で、その相反することはまことに甚だしいものである。
君と別れてからもう三年になるが潮州から?州と遠方にいた時分これを臨んでいても道程遠く隔てていたのである。
こうして今、咫尺の地を通りかかってお目見聞できなかったならば平生の有様を話し合うこともできなかったのである。
さて、会ってみると、君と私は昇進するひとと、罪貶などといろいろ違った環境ではあるが、わたしはは娥だんだん抜けてまさにことごとく抜け落ち、君はというと鬢の白髪が幾分目立つようになった。
お互いに年齢は五十を過ぎて、今後、来るべき日数は少なく、寿命がもう長くなくなって心細い感じなのである。
青年のころというのは、新たに知り合った人を楽しみにするものであるが、こうした老年になれば、昔馴染みの友人を慕わしく思うのが人情で、君との旧懐の念に堪えないのがしごく当たり前のことであった。たとえば親身の骨肉のものであっても、とにかく互いに可否し合うということがあるものだ。
それに加えて我々は、生来愚鈍であって、人並みに顔色を和らげ、言葉を低くして、調子を合わせることが出来なかったからこのような関係になってしまったのだ。
子犯も行き届かなかったのは、私でさえ知っているといった通りで、私が不束なものであることは十分承知している。
ということで、貴公におかれても枉げて(つとめて)、私の過失を許してもらいたいと思う次第で、私もすっかり、事を改めて、交誼を全うしたいと思うところであるので、貴公にこれまでのことを忘れてもらいたいのだ。
例えば、功を桑楡に収めてくれるようにしてくれて、今後もなお更のご厚情を下し賜るならば、どうか時々、相思の書簡詩文の「文字」をもって私に寄せられたいものである。

"《自袁州還京,行次安陸,先寄隨州周員外〔周君?也,時為隨州刺史。〕》韓愈(韓退之) U中唐詩 <972>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3844韓愈詩-265

《自袁州還京,行次安陸,先寄隨州周員外》 現代語訳と訳註
自袁州還京,行次安陸,先寄隨州周員外〔周君?也,時為隨州刺史。〕
行行指漢東,暫喜笑言同。  
雨雪離江上,蒹葭出夢中。  
面猶含瘴色,眼已見華風。  
?暮難相?,酣歌未可終。  
(下し文)
袁州より京に還る,行いて安陸に次し,先づ隨州周員外に寄す〔周員外は周君?なり,時に隨州刺史を為す。〕
行き行きて漢東を指し,暫く笑言の同じきを喜ぶ。
雨雪 江上を離れ,蒹葭 夢中を出ず。
面 猶お瘴色を含み,眼 已に華風を見る。
?暮 相い?い難く,酣歌 未だ終る可からず。  

(現代語訳)
(この詩は袁州より召されて京に帰ろうとするとき、途中安陸に宿をしようとあらかじめ随州の周君?刺史に寄せたものである。)
都に向かう道を行くと、漢東に進んでゆくので、君とお目に書かれれば一緒に談笑することが出来るだろうとそれを当てにしてきた。
冬の最中で雨雪寒く振り掛かるころのこと、漢陽から江上の道を離れ、そして、陸路をすすみ、蒹葭が枯れ残ったところを通り、やっとの思いで雲夢澤を抜け出たところである。
これから先は道路は平らで大分楽になるが、南方の毒気の所から帰ったもので、私の顔も瘴気の色を含んでいるかもしれない。しかし、眼前に中原の華美な風俗、風光を見るのはまことに嬉しいものである。
もっとも、間もなく年も迫ろうかということで、君の方でもご多用で忙しくされているかもしれないのでお逢いすることが出来ないかもしれないと思うので、今夜の酒盛りのたけなわなことに任せて、歌うに任せ、せめてもの心使いとして、ここに一紙にしたためて君に贈るものである。








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