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  韓愈の生涯  

2-3 四たび吏部の試



2-3 四たび吏部の試 貞元一七(801)年〈34歳》 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    81
801年貞元17年34歳  初句  
《昌黎先生集/卷3-2山石》 山石犖確行逕微,
《昌黎先生集/卷17-7與衛中行書》  
《昌黎先生集/卷19-9送孟東野序》  
《昌黎先生集/卷3-15贈侯喜》【案:愈貞元十七年七月二十二日,與李景興、侯喜、尉遲汾同漁於洛,有不刻在焉,詩必是時作。】 吾黨侯生字叔??巳,
《昌黎先生集/卷5-28將歸贈孟東野房蜀客》 君門不可入,


2-3 四たび吏部の試


 その年の冬、愈は単身で長安の都へ上った。官職を求めるためであったらしい。上京して何になるものかと、李翔にはタンカを切ったものの、三十人もの一家を支えるためには、役人となって俸禄をもらうほかに道がなかったのである。
 貞元十七年(801)、三十四歳の春を、愈は長安で迎えた。役人になるためには、やはり吏部ヘ出頭して試験を受けなければならない。もっとも、こんどは節度使の幕僚をつとめたという、どれほど重視してもらえるかはわからないが、いちおうの実績かある。愈はそれを頼みにして、「身言書判の科」という、ごく実務的な試験を受けた。この選衡は、前年の十一月から翌年の四月にかけて実施されるのが定例である。前年の冬に上京したのは、もちろんそれに時期を合わせたのであった。
 「身言書判の科」とは、文宇どおりその四つの点について考査するものである。「身」とは容貌・風采をさす。人格は容貌に反映するものというのが、当時の通念であった。美男子である必要はないが、極端な醜男とか、風采のあがらない人とかは、人格にもどこか欠陥があると考えられた。また、それでは民の上に立つ役人として、威厳も保てないわけである。
  「言」とは言語、つまり言粟づかいである。粗野な言葉を使ってはならないことは当然だが、方言があまりにひどいようでも、役人としての資格にさしつかえる。
  「書」とは文宇を書くことである。漢字をよく知っていて、正確に書けなければならない。しかも、達筆とまで行かなくてもよいが、あまりに金釘流の宇を書くようでは、やはり役人として不適格とされる。
 最後の「判」は、これが役人としての資格に必要なものとわれわれにも理解がつくのだが、実務的な文章である。たとえば、地方長宮は司法権も持つので、判決文を書かなければならない。これも「判」の一種である。こうした文章は型がきまっているので、型どおりに書けなければ、やはり困るのである。
 こうして見ると、「判」は練習を積めば書けるものである。「書」も、習宇に精を出せば、天成の悪筆でも上手になる可能性はある。「言」は、地方出身の人にはむすかしいことであろうが、これも訓練によって、砥りを除くことが不可能ではあるまい。ただ「身」だけは、本人の努力ではどうしようもないことであった。おまえは容貌か悪いから落第だと言われてしまえば、何年浪人して受験したところで、ます合格の見こみはない。こんなことが問題にされたのは、男性でも容姿が重視された六朝の貴族趣味の名残りであって、前に述べたとおり、貴族の子弟である任子が支配した吏部では、まだそれが生きていたのである。
 しかし、ほかの点はともかく、容姿に関しては、愈は自信を持ってよかった。『墨客揮犀』・『耶氏聞見後録』など、宋代の人の随筆には、愈は肥満型で郷が薄く、昼寝か大好きであったと記してある。馨は濃い方が威厳があるのだか、薄くても致命的な欠陥にはならないはずで、ます貴顕豪族なみと言ってもよかろう。もっとも貧乏生活のため、このころにはかなり白髪がふえていたらしいが。
 前にも名が見えた孟郊(東野)は、「孟詩韓筆」(詩では孟郊、散文では韓愈)とうたわれたほどの詩人であり、愈よりも年長であったが、意の学問と文学に心服していた。この人は貞元十二年、五十四歳でようやく進士の科に及第したが、役人になるつもりもなく、いったん郷里へ帰っていたのを、母親の命令で、やはりこの年、吏部の試験を受けに上京した《昌黎先生集/卷29-2貞曜先生墓誌銘》(韓文二九、貞曜先生墓誌銘)。愈のライバルとなったわけである。
 そして郊の方は、めでたく及第した。もっともあまりよい成績順位ではなかったらしく、授けら
れたのは慄陽(江蘇)の県尉という職であった。渫陽はそう大きな県ではないし、県尉とは県の長
官である県今、副長官である県丞の次に位置して、警察事務を担当する職だから、エリートコース
とはいえす、手腕をふるうほどのポストでもない。郊はありがたく拝命したものの、内心では大い
に不満であった。
 任命が何月で、いつ赴任したのかはわからない。ともかく愈はこの親友の出発を見送って、彼の文章の中でも傑作の一つとされる《昌黎先生集/卷19-9送孟東野序》「孟東野を送る序」(韓文一九)を書いた。
 孟郊の不満は、愈にはよく推察できたことであろう。ことによれば、意も同じ運命をたどらなければならぬかもしれないのである。だから彼は、この文章の冒頭に「大凡そ物は其の平を得ざれば鳴る」という一句を置いた。万物は平穏無事のままでは音を出さない。草や木も、風が揺らすから鳴るのである。人間も同じことで、「己むを得ざる者有りて後に言ふ」のだ。たとえば周が衰えた時代には、孔子とその一門が鳴った。戦国の乱世には諸子百家がそれぞれに鳴った。降って唐に至ると、陳子昂・蘇源明・元結・李白・杜甫・李観が、「皆其の能くする所を以て鳴る」。
 その後を継ぎ、詩をもって嶋るのが、すなわち孟郊だ。ほかには、「吾に従ふ者」として、李翔・張籍の二人がある。この三人は、まことによく鳴る人々だ。天は彼らに、天下太平の中で和楽の音を出させようとするのか、それとも貧困の中で不幸の音を出させようとするのか。
 いすれにしても、運命は天にあると、愈は言いたかったのである。運に恵まれようと、不遇に終ろうと、孟郊が詩人である限り、「鳴る」ことに変りはない。ただ音色が違うだけであって、その違いは詩人としての価値に変化を汲ぼすものではないのだ。愈はそう言って郊を慰めたのであるが、これは同時に、愈の僻屈した思いを晴らすためのものでもあったであろう。
 このころ、愈の甥の韓老成はまだ江南にいた。叔父と甥の関係ではあるが、年齢にさほどの差はなく、愈にとっては、ともに兄嫁の鄭氏の保育を受けた仲である。江南の深陽へ赴任する孟郊に託し、愈は老成へあてて手紙を書いた。

その中で愈は言う。自分はまだ四十にもならないのに、目はかすみ、白髪が生えて、歯もぐらぐらしてきた。考えてみると、自分の親も伯父たちも、兄も従兄たちも、みな丈夫そうに見えたが、早く死んだ。自分のように今から老衰した者が、長生きできるとは思えない。こちらから出かけることはできないので、そちらが来てほしい。早く来ないと、自分はまもなく死んで、あとあとまでの心残りとなるであろう《昌黎先生集/卷23-13祭十二郎文》(韓文二三、十二郎を祭る文)。
 死生を超越するのが大人物なのであろうが、愈は死への予惑と恐れとを正直に告白した。もっとも、これは不安定な境遇に触発されたところが大きかったらしい。前途に希望を持てば、彼はまた威勢のよい彼に返るのである。
三月まで侍たされたあげく、披はやはり吏部の選衡に落ちた。深い失望を抱きつつ洛陽の家に帰ろうとして、披は孟郊ともう二人の友人にあてて詩を送る。《昌黎先生集/卷5-28將歸贈孟東野房蜀客》(韓文五、将に帰らんとし、孟東野・房蜀客に贈る)。

將歸贈孟東野房蜀客
君門不可入,勢利互相推。借問讀書客,胡為在京師?
舉頭未能對,閉眼聊自思。倏忽十六年,終朝苦寒饑。
宦途竟寥落,鬢發坐差池。潁水清且寂,箕山坦而夷。
如今便當去,咄咄無自疑。
(將に歸らんとして 孟東野、房蜀客に贈る)
君 門に入る可からず,勢利 互いに相い推す。【勢力 互いに相い推す】
借問す 讀書の客,胡ん為れぞ 京師に在るや。
頭を舉げて未だ對うる能わず,眼を閉じて聊か自ら思う。
倏忽【しゅくこつ】十六年,終朝 寒飢に苦む。
宦途 竟に寥落たり,鬢髮 差池に坐す。
潁水 清 且つ寂,箕山 坦に而て夷。
如今 便ち當に去り,咄咄 自ら疑う無かれ。

(801年801年貞元17年 34歳三月、長安から、洛陽に行くときに、孟東野と房項卿に留別したもの。)
都に上って、調選に随い、折角一官を得たいと思っていたが「門に入る可からず」というところだ、君も知っての通り、今、勢利ある人たちが、政争を事としていて、政権争奪がなされ、たがいに勢力争いをしている。
だから、勉学に集中できる状態でないから、読書の客など京師にいたってしかたがないということだ。
こんなことだから、頭をあげれば叩かれるから、これに対する良い方法はなく、眼を閉じて、じっとして一人で自問自答とするのみである。はじめて上京して、はやいもので二十六年になる、この間、終日、援助を受けるような門下に入っていないので、試験及第の為、空腹と寒さに苦しんできた。
官に就くことは、汚れた門下に入っていないので、その途は本の微かなもので、志を果しておらず、鬢髮をしろくなるのもうまく世渡りをすることができないためでもある。
我々儒者にとっては、許由のように穎水の清らかな水で汚れた社会の出来事を聞いてきた耳を洗い、單父のように、それを聞いて牛に水を飲ませなかったと静かに山に入ろうと思う、そして箕山に入れば平坦で地勢もなだらかで、隠遁するにはもってこいというものである。

「読書の客」とは、もちろん愈自身をさす。なぜ都でこんな苦労をするのかと自問して、自答するすべを知らないのである。彼が初めて上京してから今日まで、十六年の歳月があっというまに(候忽)過ぎ去った。その間、いつもつきまとっていたのは飢えと寒さであった。しかも出世の道(官途)はあてにならず、むなしく年をとるばかり。その昔、許由という高潔の士がいて、聖天子の亮から天下を譲りたいと言われたのに、俗なことを聞かされたと逃げ出し、穎水のほとり、箕山の麓で隠遁生活を送ったという。自分ももう、そこへ行こう。文句ばかり言って(咄咄)思い感うことはやめよう。
 口ではそう言うものの、「宦途」への思いを、披は棄て去ることができない。家計の問題があることは言うまでもないが、退いてわが一身を清くする隠者の道へは、どうしても踏みきれないのである。もはや執念と言ってもよいかもしれないが、同じ年の冬、彼はまた吏部へ出頭すべく、長安の都へ上っていた。





貞曜先生墓誌銘
唐元和九年,?在甲午,八月己亥,貞曜先生益氏卒。無子,其配鄭氏以告,
愈走位哭,且召張籍會哭。明日,使以錢如東都,供喪事。諸?與往來者,
鹹來哭吊,韓氏遂以書告興元尹故相餘慶。閏月,樊宗師使來吊,告葬期,
征銘。愈哭曰:「嗚呼!吾尚忍銘吾友也夫!」興元人以幣如孟氏賻,且來
商家事。樊子使來速銘,曰:「不則無以掩諸幽。」乃序而銘之。
先生諱郊,字東野。父庭?,娶裴氏女,而選為昆山尉,生先生及二季?、
郢而卒。先生生六七年,端序則見,長而愈騫,涵而揉之,?外完好,色夷
氣清,可畏而親。及其為詩,?目?心,刃迎縷解,鉤章棘句,搖擢胃腎,
神施鬼設,間見層出。惟其大玩於詞,而與世抹?,人皆劫劫,我獨有餘。
有以後時開先生者,曰:「吾既擠而與之矣,其猶足存耶!」年幾五十,始
以尊夫人之命,來集京師,從進士試,既得,即去。間四年,又命來,選為
?陽尉,迎侍?上。去尉二年,而故相鄭公尹河南,奏為水陸運從事,試協
律郎,親拜其母於門?。母卒五年,而鄭公以節領興元軍,奏為其軍參謀,
試大理評事,挈其妻行之興元,次於??,暴疾卒,年六十四。買棺以斂,
以二人輿歸,?、郢皆在江南。十月庚申,樊子合凡贈賻而葬之洛陽東其先
人墓左,以餘財附其家而供祀。將葬,張籍曰:「先生?コ振華,於古有光,
賢者故事有易名,況士哉!如曰‘貞曜先生’,則姓名字行有載,不待講?
而明。」皆曰:「然」。遂用之。初先生所與?學同姓簡,於世次為叔父,
由給事中觀察浙東,曰:「生吾不能舉,死吾知恤其家。」銘曰:
嗚呼貞曜,維執不猗。維出不?,維卒不施。以昌其詩。
嗟乎,子誠愛我矣,子之所責於我者誠是矣。然恐子有時不暇責我而悲我,
不暇悲我而自責且自悲也。及之而後知,履之而後難耳。孔子稱顏回“一?
食,一瓢飲,人不堪其憂,回也不改其樂”。彼人者,有聖者為之依歸,而
又有?食瓢飲足以不死。其不憂而樂也,豈不易哉!若仆無所依歸,無?食,
無瓢飲,無所取資,則餓而死,其不亦難乎!子之聞我言,亦悲矣。
嗟乎!子亦慎其所之哉。
離違久,乍還侍左右,當日歡喜,故專使馳此候足下意,並以自解。愈再拜。



祭十二郎文
年月日,季父愈聞汝喪之七日,乃能銜哀致誠,使建中遠具時羞之奠,告汝十二郎之靈。
嗚呼!吾少孤,及長,不省所怙,惟兄嫂是依。中年兄歿南方,吾與汝?幼,從嫂歸葬
河陽,既又與汝就食江南,零丁孤苦,未?一日相離也。吾上有三兄,皆不幸早世。
承先人後者,在孫惟汝,在子惟吾。兩世一身,形單影隻。嫂?撫汝指吾而言曰:「韓
氏兩世,惟此而已。」汝時猶小,當不複記憶;吾時雖能記憶,亦未知其言之悲也。
吾年十九,始來京城,其後四年,而歸視汝。又四年,吾往河陽省墳墓,遇汝從嫂喪來
葬。又二年,吾佐董丞相於?州,汝來省吾,止一?,請歸取其孥。明年丞相薨,吾去
?州,汝不果來。是年吾佐戎徐州,使取汝者始行,吾又罷去,汝又不果來。吾念汝從
於東,東亦客也,不可以久,圖久遠者,莫如西歸,將成家而致汝。嗚呼!孰謂汝遽去
吾而歿乎!吾與汝?少年,以為雖暫相別,終當久與相處,故舍汝而旅食京師,以求升
鬥之祿,誠知其如此,雖萬乘之公相,吾不以一日輟汝而就也!
去年孟東野往,吾書與汝曰:「吾年未四十,而視茫茫,而髮蒼蒼,而齒牙動搖,念諸
父與諸兄,皆康強而早世,如吾之衰者,其能久存乎!吾不可去,汝不肯來,恐旦暮死,
而汝抱無涯之戚也。」孰謂少者歿而長者存,強者夭而病者全乎!嗚呼!其信然邪?其
夢邪?其傳之非其真邪?信也,吾兄之盛コ,而夭其嗣乎?汝之純明,而不克蒙其澤乎?
少者強者而夭歿,長者衰者而全存乎?未可以為信也,夢也,傳之非其真也;東野之書,
耿蘭之報,何為而在吾側也?嗚呼!其信然矣。吾兄之盛コ,而夭其嗣矣;汝之純明宜
業其家者,而不克蒙其澤矣。所謂天者誠難測,而神者誠難明矣;所謂理者不可推,而
壽者不可知矣。雖然,我自今年來,蒼蒼者欲化而為白矣,動搖者欲?而落矣,毛血日
益衰,誌氣日益微,幾何不從汝而死也!死而有知,其幾何離;其無知,悲不幾時,而
不悲者無窮期矣。汝之子始十?,吾之子始五?,少而強者不可保,如此孩提者,又可
冀其成立邪?嗚呼哀哉,嗚呼哀哉!
汝去年書云:「比得軟?病,往往而劇。」吾曰:是病也,江南之人,常常有之。未始
以為憂也。嗚呼!其竟以此而殞其生乎?抑別有疾而至斯乎?汝之書六月十七日也,東
野云:汝歿以六月二日,耿蘭之報無月日:蓋東野之使者不知問家人以月日,如耿蘭之
報不知當言月日,東野與吾書,乃問使者,使者妄稱以應之耳。其然乎?其不然乎?
今吾使建中祭汝,吊汝之孤,與汝之乳母。彼有食可守以待終喪,則待終喪而取以來,
如不能守以終喪,則遂取以來。其餘奴婢,並令守汝喪。吾力能改葬,終葬汝於先人之
兆,然後惟其所願。嗚呼!汝病吾不知時,汝歿吾不知日,生不能相養於共居,歿不能
撫汝以盡哀,斂不憑其棺,?不臨其穴,吾行負神明,而使汝夭,不孝不慈,而不得與
汝相養以生,相守以死。一在天之涯,一在地之角,生而影不與吾形相依,死而魂不與
吾夢相接,吾實為之,其又何尤?彼蒼者天,曷其有極!
自今已往,吾其無意於人世矣。當求數頃之田於伊潁之上,以待餘年,教吾子與汝子,
幸其長成,吾女與汝女,待其嫁,如此而已。嗚呼!言有窮而情不可終,汝其知也邪?
其不知也邪?嗚呼哀哉!尚饗。



送孟東野序
大凡物不得其平則鳴:草木之無聲,風撓之鳴;水之無聲,風蕩之鳴。其躍也或激之,
其趨也或梗之,其沸也或炙之。金石之無聲,或?之鳴。人之於言也亦然,有不得已
者而後言,其歌也有思,其哭也有懷,凡出乎口而為聲者,其皆有弗平者乎!樂也者,
鬱於中而泄於外者也,擇其善鳴者而假之鳴:金、石、絲、竹、匏、土、革、木八者,
物之善鳴者也。維天之於時也亦然,擇其善鳴者而假之鳴。是故以鳥鳴春,以雷鳴夏,
以蟲鳴秋,以風鳴冬,四時之相推?,其必有不得其平者乎!
其於人也亦然。人聲之精者為言,文辭之於言,又其精也,尤擇其善鳴者而假之鳴。
其在唐虞,咎陶、禹其善鳴者也,而假以鳴。?弗能以文辭鳴,又自假於《韶》以鳴。
夏之時,五子以其歌鳴。伊尹鳴殷,周公鳴周。凡載於《詩》《書》六藝,皆鳴之善
者也。周之衰,孔子之徒鳴之,其聲大而遠。《傳》曰:「天將以夫子為木鐸。」其
弗信矣乎!其末也,莊周以其荒唐之辭鳴。楚,大國也,其亡也,以屈原鳴。臧孫辰、
孟軻、荀卿,以道鳴者也。楊朱、墨?、管夷吾、晏嬰、老?、申不害、韓非、?到、
田駢、鄒衍、屍佼、孫武、張儀、蘇秦之屬,皆以其術鳴。秦之興,李斯鳴之。漢之
時,司馬遷、相如、揚雄,最其善鳴者也。其下魏、晉氏,鳴者不及於古,然亦未嘗
?也。就其善鳴者,其聲清以浮,其節數以急,其詞淫以哀,其志弛以肆,其為言也,
亂雜而無章。將天醜其コ,莫之顧耶?何為乎不鳴其善鳴者也?
唐之有天下,陳子昂、蘇源明、元結、李白、杜甫、李觀,皆以其所能鳴。其存而在
下者,孟郊東野,始以其詩鳴,其高出魏晉,不懈而及於古,其他浸淫乎漢氏矣。從
吾遊者,李?、張籍其尤也。三子者之鳴信善矣,抑不知天將和其聲而使鳴國家之盛
耶?抑將窮餓其身,思愁其心腸而使自鳴其不幸耶?三子者之命,則懸乎天矣。其在
上也奚以喜,其在下也奚以悲?東野之役於江南也,有若不釋然者,故吾道其命於天
者以解之。


《昌黎先生集/卷5-28將歸贈孟東野房蜀客》
將歸贈孟東野房蜀客
君門不可入,勢利互相推。借問讀書客,胡為在京師?
舉頭未能對,閉眼聊自思。倏忽十六年,終朝苦寒饑。
宦途竟寥落,鬢發坐差池。潁水清且寂,箕山坦而夷。
如今便當去,咄咄無自疑。




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