漢文委員会 紀 頌之毎日の中国詩訳注解説 「6」 Blog

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登太白峯




  李白詩







登太白峯 李白詩13-16


李白13


726年秋、二十六歳の李白は揚州(江蘇省揚州市)にいた。呉越の地から長江を北へ渡って淮南(わいなん)の地に来た。揚州は海外交易も盛んで賑わっていた。李白は揚州で楽しんだが、病気になった。所持金も乏しくなったようだ。

 豪放磊落な李白も気弱になって、故郷に書を送っている。相手は三年ほど岷山に籠もったことのある人物で、趙?といった。彼は李白に治乱興亡の史書や兵法を教え、論じた仲である。

 「淮南臥病書懐寄蜀中趙徴君」

 病の床で、李白は故郷への想いをつづったのだす。二十二句の五言古詩である。


淮南臥病書懐寄蜀中趙徴君

呉会一浮雲、飄如遠行客。
功業莫従就、歳光屡奔迫。
良図俄棄損、衰疾乃綿劇。』
古琴蔵虚匣、長剣挂空壁。
楚懐奏鐘儀、越吟比荘潟。
国門遥天外、郷路遠山隔。
朝憶相如台。夜夢子雲宅、
旅情初結緝、秋気方寂歴。
風入松下清、露出草間白。
故人不在此、而我誰与適。
寄書西飛鴻、贈爾慰離析。

呉会は一浮雲、
飄としているのは遠行えんこうの客
功業は従就じゅうしゅうし莫ない
歳光は?々しばしば奔迫ほんはくしてる
良図は俄にわかに棄損きえんしており
衰疾については綿劇めんげきなのだ』

古琴は虚匣(きょこう)に蔵おさめたまま
長剣は空壁(くうへき)に挂(か)けている
楚懐(そかい)という曲はは 鐘儀(しょうぎ)奏でる
越吟(えつぎんというものは荘?(そうせきが吟じたこととに比較される
国への門は遥天(ようてん)の外そとである
郷へほ路は 遠い山よりずっと隔(へだっている
朝(あした)には司馬相如(そうじょ)の台のことを憶(おも)い
夜には子雲(しうん)の宅(たく)を夢みている
旅の情おもむきは初めて結緝(けつしゅうしてきた
秋の気けはいは方(まさ)に寂歴(せきれき)である
風が入ってくることは松下(しょうか)を清さびしくする
露がではじめるのは草間(そうかん)を白くしている
故ゆえある人は 此(ここ)に在いない
而しがって我れは誰と与(とも)に適するのか
書を寄せることは西に飛ぶ鴻(こう)に
汝に贈るのは離れている析しさを慰さめるものだ


呉越のあたりひとひらの浮雲(うきぐも)よ
飄然と遠くへ旅する旅人のようだ
功業を成し遂げることもなく
歳月はあわただしく過ぎてゆく
折角の壮図もにわかに棄て去り
疾のために身は衰え果てている
愛する琴は箱に納め
長剣も壁に虚しくかけてある
鐘儀が楚国の曲を奏で
荘?が越の詩を吟じたように故郷への想いはつのる
故国の城門は遥かな空のかなたにあり
郷里への道は遠くの山に隔てられている
朝には司馬相如の琴台(きんだい)を憶い
夜には揚雄の邸を夢にみる
旅情は胸にこみあげ
秋のけはいはもの寂しく満ちわたる
清らかな風が松の林を吹き抜け
くさむらは露に濡れて白くかがやく
ここには語り合うべき友もなく
私は誰と過ごしたらいいのだろうか

 病気が治った李白は、安陸にいる孟浩然に会いにいき、師と仰ぐようになる。李白は、古い城郭都市の安陸で孟浩然に詩を贈っている。


 李白14
   贈孟浩然  

吾愛孟夫子、風流天下聞。
紅顔棄軒冕、白首臥松雲。
酔月頻中聖、迷花不事君。
高山安可仰、従此揖清芬。

私の愛する孟先生
先生の風流は 天下に聞こえている
若くして高官になる志を棄て
白髪になるまで松雲に臥しておられる
月に酔って聖にあたったといわれる
花を迷うのは君主に仕えないことだ
高山はどうして仰ぐことができようか
ここから清らかな香りを拝します


 孟浩然に贈る
吾は愛す孟夫子(もうふうし)
風流(ふうりゅう)は天下に聞こゆ
紅顔(こうがん) 軒冕(けんめん)を棄て
白首(はくしゅ)  松雲(しょううん)に臥(ふ)す
月に酔いて頻(しき)りに聖(せい)に中(あた)り
花に迷いて君に事(つか)えず
高山(こうざん)  安(いずく)んぞ仰ぐ可けんや
此(ここ)より清芬(せいふん)を揖(ゆう)す


 孟浩然は三十八歳であり、李白は二十六歳であった。隠遁している憧れの孟浩然を「白首」と言った。孟浩然は、襄陽の近郊の鹿門山に別業(別荘)を営んでいた。




 李白15
   黄鶴楼送孟浩然之広陵   
                 
故人西辞黄鶴楼、烟花三月下揚州。
孤帆遠影碧空尽、唯見長江天際流。

友よ  西のかた 黄鶴楼をあとにして
花がすみの三月  揚州へくだる
孤舟の帆影は    遠くの碧空(そら)に消え
見えるのは天空のはてまでつづく長江(たいが)の流れ


黄鶴楼 孟浩然の広陵に之くを送る

故人  西のかた黄鶴楼(こうかくろう)を辞し
烟花(えんか)  三月  揚州(ようしゅう)に下る
孤帆(こはん)の遠影  碧空(へきくう)に尽き
唯だ見る  長江の天際(てんさい)に流るるを





李白16 登太白峯
728年開元十六年28歳春、李白は安陸の娘と結婚した。安陸の名家で、高宗のときに宰相をしている許家の娘であった。 無名無職の詩人、李白は名家の婿として、地元の安州長史(州次官)に就職の斡旋を頼んだりしするも、うまく運ばない。
730年30歳、結婚後二年あまりで、安陸を発って長安に向かうことにする。孟浩然も長安で王維ら多くの詩人と交わっていた。李白は都に強いあこがれを持ったのだ。

これまでの李白の足跡を整理
李白の足跡300



24歳李白は美人の彼女を残し@蜀を旅立つ。山峡を下り、江陵をへてA湖南岳陽、湖北省武漢、金陵地方へ。B南京、蘇州、この間2年余り、そして結婚し、C30歳都長安に向かい矢印のちょっと上に位置している太白山に登る。以後詩で使用するあざなを太白としている。よほど、心に期すものがあったのであろう。時計回りと反対周りの旅。

 登太白峯          
西上太白峯、夕陽窮登攀。
太白与我語、為我開天関。
願乗冷風去、直出浮雲間。
挙手可近月、前行若無山。
一別武功去、何時復更還。

西方登は太白峰、
夕陽は山擧に窮めた
太白星は我に語りかけ
私のために天空の門を開いた
爽やかな風に乗り
すぐにも出たい雲のあいだを
手を挙げれば月に近づき
前にすすめば遮るものも無いかのように
ひとたび去る武功の地
いつまた帰ってこれるのか


 李白は都に出てほどなく太白山に登った。李白は字(あざな)を太白というは、この山に自分の運命を感じ、感情移入をした。夢と希望に満ち溢れた若い李白を感じる詩となっている。


太白峰に登る
西上太白峯、夕陽窮登攀。
太白与我語、為我開天関。
願乗冷風去、直出浮雲間。
挙手可近月、前行若無山。
一別武功去、何時復更還。

西のかた太白峰(たいはくほう)に上り
夕陽(せきよう) 登攀(とうはん)を窮(きわ)む
太白 我(われ)と語り
我が為に天関(てんかん)を開く
願って乗るのは?風(れいふう)で去る
直(ただち)に浮雲(ふうん)の間を出(い)でん
手を挙(あ)げれば月に近づく可く
前に行けば山無きが若(ごと)からん
一たび武功(ぶこう)と別れて去らば
何(いずれ)の時か 復(ま)た更に還(かえ)らん

余談
ブログは縦のつながりはよくわかります。だから、ここでも李白の詩を物語風に順を追って、掲載していきます。横のつながりにつてはなかなか表現できません。歴史上のことは。確かに物語でわかるが、その背景とか、そこまでのいきさつについては場面を変えていかないといけない。
李白が長安に来たとき、王維はどこにいたのか、杜甫は、皇帝はだれで、朝廷はどういう状態であったか?同世代の詩人はどんな詩を書いていたのか? ブログでは大変な作業になる。通常はウィキペディアで調べることになるが、全体的な把握をしようと思えば、これも相当な労力がいる。それは、木がたくさん生えている森なのか、林なのか、葉っぱだけを見ているのか、自分が調べていることが、どこを示すものかわからないからです。