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  韓愈の生涯  

5-5 処世の術


第五章中央朝廷へ復帰 5-5処世の術 元和八(813)年〜元和九(814)年《46〜47歳》 


5-5 処世の術

ここまでの経緯を見れば、このたびの任命の重点が兼官の史館修撰の方にあったこと、すなわち宰相たちが愈の文筆の才を活用しようとしたことは、明らかである。まさしく適材適所であろう。ところが愈は、史館での仕事にあまり精を出そうとしなかったらしい。この年六月、劉判という後輩から激励の手紙をもらったのに答えて、彼は次のように書いた《外集? 卷2-5答劉秀才論史書》(、劉秀才に答へて史を論ずる書)。
 昔から歴史家には、非運に終り、または非業の最期をとげた人か多い。『春秋』を作った孔子は一生を不遇に終ったし、春秋時代、布の影附の乱のときに、斉国の史官である太史は、正しい記録を守りぬいて兄弟とも殺された。『春秋左氏伝』を書いた左丘明は失明し、『史記』の司馬遷は宮刑を受け、『漢書』の班固は獄死している。その後の歴史家の多くも、似た運命をたどった。「ぞれ史を為る者は、人禍有らずんば則ち天刑有り。壹畏惺せずして軽。しくこれを為る可けんや」。しかも唐初以来の聖君・賢相ないし文武の士を一々記録することは、自分の能力では及ばない。また、人間の事跡は伝聞によって異なるものであり、その批評は主観の問題になる。自分はそうした危険かつ困難な仕事に手を出したくない。
 この時期の愈は、どうやら、なるべく問題を起さぬような消極的態度を、生活の信条としていたように見える。史官によって記録されること、すなわち「名を竹帛に垂れる」ことは、中国の人々にとって最高の理想であった。逆にいえば、歴史の中で非難され、または歴史家に黙殺されることは、最大の恥辱とも考えられたのである。だから歴史家が事件を記し、人物を評論するときには、さまざまの干渉が加えられがちである。あまり遠くない過去の人物を書くとなれば、現在の人物との利害関係が大きいので、なおさらのことであった。
 愈は、むろん厳正公平な歴史家の立場を守りたいと決意している。しかし、その実現には官職を賭け、時としては生命すら賭けねばならぬ場合も予測されよう。そんな摩擦と危険を避け、しかも自己の決意を柱げないようにしたいと思えば、最上の方法は、何も仕事をせぬことであった。
 しかしこれは、過去の彼の言動から見れば方向転換であり、変節であった。自分か正しいと信するならば、どれほどの障害や危険があっても前進すると彼は公言し、実行してきたのである。いまさら危険で困難な仕事は避けたいなどと、言えた義理ではない。との点に腹を立てたのが、柳宗元であった。宗元は王任・王叔文の失脚に連坐し、流罪の処分を受けて、永州司馬として現在の湖南省南部の辺地にいた。愈はその配所へ手紙を送り、かつ劉斬にあてた返書の写しをも示した。二人の親友の官界における地位は、いまや逆転している。愈としては宗元を慰めたかったであろうし、地位の逆転について、いささかうしろめたい気持があったかもしれない。
 翌元和九年(814)、愈が四十七歳になった正月、柳宗元は激しい非錐の手紙、「韓退之に与ヘて史官を論する書」(柳文三一)を送ってよこした。その中には言う。
 退之(すなわち意)が劉例に与えた言葉を見ると、「退之が往年、史の事を言へると、甚だ大いに謬へり。若し書中(劉祠への手紙の中)の言の如くんば、退之は宜しく一日も館下(史館の中)に在るべからす」。史館修撰の名誉と俸禄とに恋々として、去るべき職から去りかねているのは、まったく退之らしからぬ振舞だ。冒頭にそうきめつけてから、宗元は愈の言い分の一々を取りあげて、徹底的に反論する。史官に非運がつきものだなどというのは、何も論理的な必然性をともなわない。そして結論は、やはり「凡べて其の位に居れば、其の道を直くせんことを思ふ。道、菊しくも直くんば、死すと雖も回らす可からざるなり。如しこれを回らさば、函やかに其の位を去るに若くは莫し」というにあった。
 宗元の主張は、当然すぎるほど当然である。愈よりもまじめな、非妥協的な性格の宗元は、ほんとうに腹を立てたのであろう。しかし、この当然の議論がどれほど愈の胸にこたえたかは、疑問である。だいたい、口では消極的なことを言っても、実際は決しておとなしくしていられないのが、意の性分であった。宗元のやつ、おれの言いそうなことを言っている、そしてそのとおりに相違はないのだが、と愈は苦笑したかもしれない。
 この非難に対する意の返書は、今日に残る彼の文集の中には入っていない。ただ、返書を送ったことは確実と判断できる。宗元が次に送ってよこした手紙「史官の韓愈に与へて段秀実太尉の逸事を致す書」(柳文三一)の中に、意から返書をもらったらしい形跡が認められるからである。そして愈の返書は、非難に対する反論というよりも、正確な事実を判定して記録するのは困難なのだといった調子の、言いわけに近いものであったらしい。宗元の非錐に反論もできす、といって全面的に自分の非を認めるのも、人に頭を下げることの嫌いな愈の性格からは不可能なので、こんな返書になったのであろう。そして愈の文章としては歯切れがよくないため、文集の中に収められなかったのではないかと思われる。
 しかし、史館修撰の職にある以上、国史に記録すべき人物を、諸方から推薦して来る。その中に、安禄山の乱のとき節義を守りぬいた恢済という人とその子との事跡を書き送って来た者があった。
当時の若手官僚として名をあげつつあった元税、すなわち白居易の無二の親友の元微之である。たぶん、書いてよこした事跡の文章が、愈を感心させたのであろう。愈はこの英才に対して、特に返書を送った《昌黎先生集/卷18-10答元侍禦書》、元侍御に答ふる書)。妖の父子の事跡は国史にとどめられ、それとともに推薦者である元稿の名も記録されるであろう。しかし、あなたはまだ年も若いことだから、これから後も功績をあげるであろう。「将に大書特書屡書して、一たび書するのみならざらんとす」。
つまり元雅の名がこの一回だけ記録に残るはすはない。いすれ、大きくとりあげられ、特別の扱いで、何度も書かれることとなるだろう。自分はそれを書くつもりだというのである。愈は簡単にお世辞を言うような人物ではないが、お世辞を全く言わないほどの非妥協的な人間でもない。この時点で彼か元稿の才能を見ぬき、将来を予言したのか、ただのお世辞を言ったのかは、確定のしようもないが、結果として愈が言ったとおり、元稿の名は歴史の中に「大書特書屡書」というほどではなくとも、かなりのスペースを占めるに至ったのである。
 それは九月のことであったが、その前月には愈の親友の一人である孟郊が死んだ。郊は河南府庁の一事務官となっていたが、現在では脱耐省南部の興元に転任する途中、長安の近くで頓死した。
享年六十四。急報を受けた愈は早速に張籍などの弟子を集め、追悼の式を挙行した。生涯を不遇に終えた上に後嗣ぎがなかった孟の家は、葬式の費用にもことを欠いたという。友人たちが金を出しあってどうやら埋葬をすませ、墓誌銘は愈が筆をとった。当時、「孟詩韓筆」、すなわち孟郊の詩と韓愈の散文とうたわれた郊のことである。愈はその「ぶ彫先生墓誌銘」(韓文二九)の中で、郊の詩を絶讃している。
十月、愈は考功郎中に凱った。考功は吏部に属し、百官の勤務評定を担当する。前に述べたとおり、吏部は任子の牙城である。その一部局である考功の郎中、すなわち課長格にまで、愈はついに食いこんだ。もっとも兼務の史館修撰はもとのままなので、彼が吏部の役人として執務することは、実際にはなかったであろう。
 十二月、考功郎中のまま、兼務は知制詰となった。これは詔勅を起草する職である。詔勅の類は実務的なものであるが、やはり文章の面でもすぐれた作晶でなければならぬ。その起草の任務は、ことによると、史館修撰より重いかもしれなかった。このところ愈も処生の術に熟達したのか、順調な出世街道を進んでいる。


《外集? 卷2-5答劉秀才論史書》
答劉秀才論史書
六月九日,韓愈白秀才:辱問見愛,教勉以所宜務,敢不拜賜。愚以為凡史氏襃貶大法,《春秋》已備之矣。後之作者,在據事跡實?,則善惡自見。然此尚非淺陋?惰者所能就,況褒貶耶?孔子聖人,作《春秋》,辱於魯、衛、陳、宋、齊、楚,卒不遇而死;齊太史氏兄弟幾盡;左邱明紀春秋時事以失明;司馬遷作《史記》刑誅;班固?死;陳壽起又廢,卒亦無所至;王隱謗退死家;習鑿齒無一足;崔浩、範蔚宗赤誅;魏收夭?;宋孝王誅死;足下所稱?兢,亦不聞身貴而今其後有聞也。夫為史者,不有人禍,則有天刑,豈可不畏懼而輕為之哉!唐有天下二百年矣,聖君賢相相踵,其餘文武之士,立功名跨越前後者,不可勝數。豈一人卒卒能紀而傳之邪?仆年誌已就衰退,不可自敦率。宰相知其無他才能,不足用,哀其老窮,齟齬無所合,不欲令四海?有戚戚者,猥言之上,苟加一職榮之耳,非必督責迫蹙,令就功役也。賤不敢逆盛指,行且謀引去。且傳聞不同,善惡隨人所見,甚者附黨,憎愛不同,巧造語言,鑿空構立,善惡事跡,於今何所承受取信,而可草草作傳記,令傳萬世乎?若無鬼神,豈可不自心慚愧;若有鬼神,將不福人。仆雖?,亦粗知自愛,實不敢率爾為也。夫聖唐巨跡,及賢士大夫事,皆磊磊軒天地,決不?沒。今館中非無人,將必有作者勤而纂之。後生可畏,安知不在足下?亦宜勉之。
愈再拜。




(814)
1.江漢答孟郊
2.山南鄭相公樊員外酬答為詩,其末咸有見及語樊封以示愈依賦士四韻以獻【案:鄭餘慶,樊宗師也。餘慶元和九年為山南西道節度使,宗師為副。】
3.酬王二十舍人【案:涯。】雪中見寄
4.奉酬振武胡十二丈大夫【案:胡証,河東人。元和九年,党項寇邊,以証有安邊才略,乃授振武軍節度使。】
5.廣宣上人頻見過
6.答道士寄樹?【案:樹?,木耳之大者。】
7.送張道士【案:從《文集》?入。】
8.飲城南道邊古墓上,逢中丞過,贈禮部衛員外少室張道士【案:見《遺集》。】
9.外集o 卷2-5答劉秀才論史書
10.卷18-10答元侍禦書






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漢文委員会  紀 頌之