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  韓愈の生涯  

6- 3 栄達への道



第六章 「平淮西碑」から「論佛骨表」
栄達への道 元和一二(817)年〜元和一三(818)年《50〜51歳》 … 145


6-3 栄達への道
 元和十二年(817)、韓愈は五十歳になった。耐耐の反乱はなお解決せず、戦線は膠着状態に陥っている。七月、憲宗は宰相の裴度に彰義軍節度使を兼任させ、自身出馬して一挙に事を解決するよう指示した。度は勅命を受けると、属官として愈を賜わりたいと奏請する。そこで愈は御史中丞の兼務を命ぜられ、兼ねて裴度の軍の行軍司馬に任ぜられた。
 愈の手腕を示す好機が訪れたのである。裴度の軍が東進して彭蹴を出ると、愈は本隊から離れて防州に急行した。注州では宜武軍節度使の韓弘が、周辺の軍隊を統率している。これは本来呉元済討伐のためにさし向けられていた味方なのだが、その上に裴度が派遣されて来るのだから、韓弘の受けとり方一つで、敵にまわってしまうか、少なくとも協力は得られなくなる恐れがある。愈はその点を考えて、先ず韓弘にわたりをつけようとしたのであった。どのようにして弘を口説いたのかはわからないが、ともかく弘はよろこんで協力を約束した。

 次はいよいよ蔡州(河南省汝南)を本陣としている呉元済の討伐である。愈が手にした情報では、元済の精兵はことごとく前線に配置されており、蔡州を守る兵は数も少ないし、質も劣るという。愈は早速裴度に対し、三千の兵力を分けてもらえば、間道づたいに蔡州を乗っ取って見せると進言した。
 このとき同じ情報を手に入れたのが、唐郡随節度使の李恕である。これは武人だから、決断が早い。九千の兵を率いて隠密に行動を開始し、十月の大吹雪の夜、難行軍を続けた末に蔡州を急襲した。手薄な防衛線は忽ち崩れ、呉元済はついに捕虜となってしまった。
 呉元済の後楯となっていた者に、鎮州(河北省正定)にいる王承宗があった。愈は柏嗇という人の献策を採用し、裴度にすすめて、承宗のもとへ使者を送る。淮西が平定された以上、承宗は戦わずして降るであろうという目算である。はたして承宗は封地を割いて朝廷に献じ、二子を人質にさし出して、恭順を誓った。足かけ四年にわたる淮西の乱は、ここに全く解決したのである。功名を立てて凱旋した愈は、刑部侍郎に任ぜられた。法務を管掌する刑部の次官で、日本風にいえば法務次官にあたる。もとより彼のこれまでの履歴の中では、最高位に到達したわけである。

 元和十三年(818)、愈は五十一歳。得意の春を迎えたことになるが、事がここまで順調に運ぶと、あとに必す問題が起るのが、彼の運命である。正月、彼は勅命を奉じ、「淮西を平らぐる碑」の碑文を作って上奏した(韓文三〇)。中には主としてこの事件における裴度の勲功が記録してあった。問題はここから発生する。
おさまらないのはぎがであった。彼は蔡州に一番乗りをして、呉元済を郊岸りにしたのだから、殊勲第一と信じていた。それがこの碑文の中では、「十月壬申、恕、得たる所の賊将を用ゐ、文城より天の大いに雪ふるに因り、疾く馳すること百二十里、夜半を用て蔡に至り、其の門を破り、元済を取りて以て猷じ、尽く其の属の人卒を得たり」というだけの文句で片づけられ、その他の点では韓弘らの諸将と同列に扱われていたのである。
 公千に見れば、意の見解は正しかったといえよう。この事件は、それまでほとんど小独立国の観を呈していた藩鎮が、前任者の死後、独断で後任を決定したのに対し、朝廷が干渉したことに端を発する。つまり中央集権の強化を目ざす朝廷の、藩鎮の独裁権に対する挑戦なのである。そこで最も大きな役割を果たしたのは、憲宗を支えて藩鎮に譲歩せぬ決意を固めさせた裴度のほかにはなかった。
 李恕も決して暗愚な武将ではなかったようである。蔡州を攻め落した時、とりあえす城内の治安を回復すると、兵をまとめて総大将装度の入城を待った。入城の日には、みずから沿道に迎えにも出ているJ度は憩の身分と戦功とに遠慮して匿迎えを辞退したが、恕は「蔡人は頑惇にして、上下の分を識らざること数十年なり。願はくは公、因りてこれに示し、朝廷の尊きを知らしめよ」と答えたので、度も感心して出迎えを受けることにしたという。

  それほどの人物ではあったが、一番乗りの功名は、やはり自慢だったのであろう。その功名を背景にした朝廷への請願が多すぎたため、ついには憲宗の機嫌を損じたこともあった。その惣が、愈の作った碑文に満足するはすはない。一説には、忽の妻は唐安公主という皇女であったともいう。
これは確認できないが、いずれにしても禁中へ出入りできる身分の女性であった。その妻か夫の勲功を鼻にかけていたことは、たしからしい。そこで憲宗へ直接に、愈の作った碑文には幄があると訴えた。
 憲宗の心に真先に浮んだのは、せっかく呉元済の反乱がおさまった矢先、また節度使李惣と悶着がおこってはますいという政治的配慮であったろう。訴えは聴きとどけられ、いったん碑に刻まれた愈の文章はぎり消された。碑文はあらためて翰林学士段文昌が執筆するようにとの勅命が下った。
それでも、愈の手腕はこの事件によって認められ、彼の地位は安定したといえる。四月、彫が彭が詳定礼楽使(礼楽の規定の整理・改正を職とする)に任ぜられたときにも、特に奏請して愈を削使とした。八月、後輩にあたる殷侑への返書(韓文一ハ)に「愈は進士中に於いて略経書を読むことを知れり老為す者」と言っている自負も、もはや彼一人の自讃ではなくなっていたであろう。しかし、大官としての生活がようやく確定したと見えた時、彼の一生における最大の事件が突発した。


(818)
1.阯V,二首之一
2.阯V,二首之二
3.過鴻溝
4.送張侍郎【案:張賈,時自兵侍為華州。】
5.贈刑部馬侍郎【案:馬總,時副晉公東征。】
6.奉和裴相公東征,途經女几山下作
7.?城?飲奉贈副使馬侍郎及馮【案:宿。】李【案:宗閔。】二員外【案:馮李時從裴度東征。】
8.酬別留後侍郎【案:蔡平,命馬總為留後。】
9.同李二十八夜次襄城【案:李正封也。】
10.同李二十八員外從裴相公野宿西界
11.過襄城
12.宿神龜招李二十八、馮十七【宿神龜驛招李二十八、馮十七】
13.次z石【次峽石】
14.和李司勳過連昌宮
15.次潼關先寄張十二閣老使君【案:張賈也。】
16.次潼關上都統相公【案:韓弘也。】
17.桃林夜賀晉公
18.晉公破賊回重拜台司,以詩示幕中賓客,愈奉和
19.?秋?城夜會聯句【案:韓愈、李正封】








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漢文委員会  紀 頌之