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  韓愈の生涯  

7- 2 


袁州刺史 元和一五(820)年《53歳〉 


7- 2 袁州剌史
 新たに任命された袁州は今の江西省の西端、湖南省との境に近い町である。愈がそこへ着いたの
は翌元和十五年(八二〇)、五十三歳になったばかりの正月(または閑正月)八日であったらしい。彼
は早速「袁州剌史謝上表」(韓文三九)を都へ送ったが、それはたぶん、憲宗の目には入らなかった
であろう。正月二十七日、憲宗は急死したのである。
 憲宗はもともと短気で清疑心の強い皇帝であったが、晩年に不死の薬と称するものを服用し始めてから、いっそう気が荒くなっていた。少し機嫌が悪いと大官でも首になるし、宦官には死刑とな
る者も出るしまつである。それが二十七日の夜、薬の副作用のため急に崩じたと、近侍の宦官から
発表された。世間では、その宦官陳弘志たちが暗殺したのだと取沙汰していた。
 しかし、表立って宦官に反対する者はない。陳弘志らは次の穆宗を擁立し、翌閔正月に即位の
礼を行い、二月には大赦令を発布した。これによって、愈の罪はさらに軽減されるはすである。彼
は「赦を賀する表」(韓文三九)を送って感謝の辞を述べた。もっと都に近い土地へ、あるいは都の
官職への転任命令を、彼は期待していたに違いない。
 しかし、一方、このころの彼の身辺には二つの凶事があった。
 第一に、最もよく彼を理解していた友人、柳宗元が死んだ。時は前年の十月十五日ともいい、十
一月八日ともいう。所は宗元が刺史をつとめていた柳州(広西)であった。宗元は王任・王叔文の
一味として永州に流されてから、一度都へ召還されたのだが、朝廷の役職にはつけてもらえず、僻
地の地方長官に出されたまま、不遇の一生を終えたのである。
 その伊報は愈が潮州から袁州への旅をしている間にとどいたらしい。おそらく袁州へ着いてから、
章は亡友の霊を祭り、哀悼の意をこめだ「柳子厚を祭る文」(韓文二三)を書いた。その中の一節、
504-1 《祭柳子厚文》韓愈(韓退之)ID Index-12-504 U唐宋八大家読本巻六<1081> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4389韓愈詩-504-3
……嗟嗟、子厚而至然邪。自古莫不燃。我又何嗟。人之生世、如夢一覺。其阯害、竟亦何校。當其夢時、有樂有悲。及其既覺、豈足追惟。」(嵯嵯、子厚にして然るに至れるか。古より然らざるは莫し。我又何ぞ嘆かん。人の世に生くるは、夢の一たび党むるが如し。其の間の利害、竟に亦何ぞ校べん。其の夢みる時に当りては、楽しみ有り悲しみ有り。壹追惟するに足らんや。……)

 というくだりには、非運の生涯を終えた亡友の霊に対する慰めと、同じ不遇の身の自己への感慨
とが、かさね合わされていたに違いない。
 それと同時に、ここには、彼があれほど嫌った仏教の臭いが感じられる。彼が潮州にいた時、むろ
ん訪う亥もない蛮夷の地で、ことに親しくしていたのは、大顛という僧であった。潮州の禅寺の住
職をしていた入らしい。潮州城内に住む意から大顛へあてた手紙「大顛師に与ふる書」(韓文外集ニ)
が、いま三通残っている。いすれも大顛の訪問をうながすものであるが、その文面から察すると、
大顛が仏教の大旨を記して愈に送ったこともあったように見える。愈はそれに答えて、「示されし
所は広大深迢にして、造次に論る可きに非す」と書いた。あなたが書いてくれたことは広大かつ深
遠な内容で、すぐ拡は理解できないというのである。そして、さらに親しく対面の上、話が聴きた
いとも述べている。
 この程度では、べつに意が持論を改めて仏教を信ずるようになったとはいえないが、仏は夷狭だ
ときめつけ、僧侶は仁義の道を破壊する無為徒食の輩と罵っていた彼にしては、大きな変化である。
そこで、韓愈は近ごろ仏教を信仰し始めたという風評が、都にまで伝わった。それを聞いて彼の変
節を喜ぶ者も嘆く者も、また憲宗の怒りを解くための方便かと疑う者も、あったに違いない。
 愈の前からの知友に、孟簡という人があった。深く仏教に帰依していた人物である。それが愈に
手紙を送り、近ごろ都に伝わる風評を知らせてよこした。手紙そのものは現在では残っていないが、
簡はもちろん愈の変節を喜び、彼を激励するつもりであったろう。しかし、愈は袁州から長文の返
書「孟尚書に与ふる書」(韓文一ハ)を送り、自分の立場を釈明した。
 愈は、自分は決して仏教を信ずるようになったのではないと断言する。ただ、潮州では話し相手
もなかったのに、大順は「鰐び聯聯にして道理を影る」人物だったから、官舎に招いて話を聞いた。
大順の語ることは、仝部は理解できなかったが、それでも胸のつかえが下りたような気持になった。
このため、たびたび往来もしたし、袁州へ遷るときには衣服を形見として贈りもした。だが、それ
も友人への通常の儀礼であり、「其の法を崇信し、福田利益を求めしに非ざるなり」。つまり、僧侶
への喜捨として、功徳を得るために贈物をしたわけではない。
 孔子は「丘の祷るや久し」と言った。「聖人の道、先王の法」を守る人ならば、ほかに福を求め
ることもなく、禍を恐れる必要もないのだ。孔子が歿してから、聖人の道は崩壊の一途をたどった。
かつて孟子が起って楊子・墨子を排撃し、聖賢の道を明らかにしようとしたが、それも完仝に成功
したとはいえない。自分はむろん孟子に及ばぬが、今の世において仏教を排撃し、同じく聖人の道
を人に示したいと思う。それは荷の重すぎる仕事ではあるが、「其の道をして愈に由りて粗伝はら
しめば、滅死すと雖も万万恨み無からん」。
 以上の文面ではまだ十分に明晰とはいえないが、要するに愈は、仏教の教理とその禍福の説とを
区別して考えようとする態度をとったと理解してよかろう。仏の教えはその根本において「聖人の
道、先王の法」と、必すしも背反するものではない。しかし、仏を信ずれば福が授けられ、信じな
ければ禍が降るというのは、迷妄である。だから、当世の僧侶がこの説によって信者を集め、信者
もまた禍を避け福を求めるため寺院に喜捨を行うのは、どちらも心得違いだと、彼は考えた。
 当時の寺院がすべて腐敗していたわけではあるまい。ただ、長安を中心として各地の寺院か、多
くの信者を集めようとしていたのも事実である。それには仏法弘通のためという大義名分があった
ことは言うまでもないが、一方では善男善女の投ずる奏銭が寺院ないし僧侶の経済をうるおしたこ
とも、否定できない。
 意に手紙を送った孟簡の友人に(ただし、愈とのつきあいはなかったらしい)、李公佐という人がある。
唐の小説家として著名であるが、その代表作の一つである「献律太守伝」(ある人が夢の中で栄華を得
る、いわゆる「南何の一夢」の物語である)の中で、夢の中の国の帝王の侍女が、こんなことを言って
いるっ七月+Km'孝感寺で一同が努貳法師の『観音経』の講釈を聡畝いちそして自分は金のか
んざしを二本、もう一人は水犀の小箱一つを喜捨した。
 もちろん、小説の中の話である。だがその裏には、説法を聴聞した人が感動して喜捨をする風習
のあったことが知られる。寺院の方でもそれに応じて、講釈のうまい僧侶を立てたであろう。それ
が「俗講」と呼ぱれ、中国のロ誦文芸の一つの伝統となり、そのテキストの一部が例の敦煌の石窟
から発見されて学界を騒がせたのであるが、そのことは愈の伝記と関係がない。
 いずれにしても、仏教か多くの善男善女を集めようとすれば、禍福の説を用いるのが最も有効だ
ったはずである。愈が強く反撥したのも、そこにあった。ただ、禍福の説は仏家の説く方使であり、
教理はその上にあるのだが、愈の攻撃は教理にまで及ぶほどの理論的なものではなかった。むしろ
仏教の教理は、いくらが駅が説明したところで、儒学に凝り固まった愈の頭には、理解は不可能で
あった。だから愈の文章の中に仏教くさい考え方が見えても、本心から理解し、帰依したとはいえ
ない。しかし、当時の人々にとっては、やはり愈が矛盾を示したとしか理解されなかったであろう。
 第二の凶事として、十二郎老成の子の剖が死んだ。享年十九。傍は兄の湘とともに愈に扶養され
ており、袁州まで来て急死したのである。死にぎわにはしきりに母の名を呼び、枕頭にいた湘の于
を握りながら、深く嘆かぬようにと慰めて息が絶えたという。祖父の介も、父の老成も、三代続い
て短命に終ったのは、なにか遺伝的な体質のためかもしれない。さきに老成のために祭文を作った
愈は、十七年を隔ててその子のためにも祭文(韓文二三、傍を祭る文)を書かねばならなかった。辺
地にあっては、遺体を郷里の墳墓の地まで運ぶこともままならぬため、仮に袁州の郊外に葬り、愈
がみずから「韓榜墓誌銘」(韓文三五)を書いた。



(820)
1.除官赴闕至江州寄鄂岳李大夫【案:李程也。元和十五年,自袁州詔拜國子祭酒,行次盆城作。】
2.送侯喜
3.詠燈花同侯十一
4.題秀禪師房
5.將至韶州,先寄張端公使君借圖經【將入韶州,先寄張端公使君借圖經】
6.韶州留別張端公使君【案:時憲宗元和十四年十月。】
7.次石頭驛寄江西王十中丞閣老【案:仲舒也。時為江南西道觀察使,愈自袁還朝作寄。】
8.遊西林寺題蕭二兄郎中【案:存。】舊堂【題西林寺故蕭二兄郎中舊堂】【案:自注:蕭兄有女出家。】
9.自袁州還京,行次安陸,先寄隨州周員外【案:周君?也,時為隨州刺史。】
10.題廣昌館【案:在隨州棗陽縣南。】
11.寄隨州周員外
12.酒中留上襄陽李相公【案:李逢吉也。愈元和十一年正月為中書舍人,而逢吉以其年二月自舍人拜相。】
13.去?自刑部侍郎以罪貶潮州刺史,乘驛赴任,其後家亦譴逐小女,道死殯之層峰驛旁,山下蒙恩還朝,過其墓留題驛梁【去?自刑部侍郎以罪貶潮州刺史,乘驛之官,其後家亦譴逐小女,道死殯之層峰驛旁,山下蒙恩還朝,今過其墓留題驛梁】【去?自刑部侍郎以罪貶潮州刺史,乘驛之官,其後家亦譴逐小女,道死殯之層峰驛之,山下蒙恩還朝,今過其墓留題驛梁】【去?自刑部侍郎以罪貶潮州刺史,乘驛赴任,其後家亦譴逐小女,道死殯之層峰驛之,山下蒙恩還朝,今過其墓留題驛梁】
14.賀張十八祕書得裴司空馬【酬張祕書因騎馬贈詩】










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