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214王昌齢 出塞


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邊塞詩の詩人

邊塞詩の詩人

出塞 王昌齢


218 王昌齢 おうしょうれい 698- 765年

 中国の西から北の方はいわゆる砂漠地帯で、遊牧民族の国があった。この地域では、いつの時代も戦争をして絶えることなかった。
 万里の長城を築き、修理、拡張し、塞を築いたり、関所を設けた。そして多くの人にここの防御にあたらせた。遊牧民族対抗するには特に馬が必要で、隊の人の倍数馬を用意するので、従事する人、物、食料など国の財政に大きく影響を与えるものだった。
 人は、府兵制の徴兵で構成され、出征すると生きては帰れないといわれ、柳の枝折って送り出された。

 陰山山脈、砂漠。そこには中国本土にはない気候風土がある。
 砂漠の砂嵐、抜けるような青い空から灼熱の太陽、排尿した直後凍るほどの寒さ、そして何よりも黄色の砂漠に兵士たちの躯の白骨が点在する。むごたらしい情景は兵士を死の限界に追い詰める。
 突如響く「ドラ」の音、悲しげに聞こえてくる羌笛、馬の悲しげな嘶き、そして、月が昇ります。見渡す限りの荒野を明るく照らすのです。兵士にとって、大変なことですが、詩人はこうした日常的でない『非日常』を題材にしたのです。勇ましい戦場の詩より、『非日常』を、悲しみを、辛さを言葉巧みに美しい邊塞詩にしたのです。
 その代表的な詩は王昌齢「従軍行三首」其二です。戦場に行っていないからかけた傑作です。

■  「従軍行三首(其三)」

出塞

秦時明月漢時關、萬里長征人未還。

但使龍城飛將在、不ヘ胡馬渡陰山。


秦の時代の明月、漢の時代の関所、はるか万里の道を遠征しているあの人はなかなか故郷に帰れない。
今もし、あの龍城の「飛将軍」李廣がいたならば、匈奴の軍馬に陰山(陰山山脈:中原の北の要害である)を超えさせたりしないものを。


 陰山山脈に残る万里の長城は古い。紀元前3世紀秦の時代です。作者、王昌齢はおおよそ900年後、唐の時代の詩人です。多くの邊塞、国境の塞を詩にしています。

   秦時明月漢時關

 はるか昔から少しも変わらない月の光、戦乱を繰り返した関所、冒頭の句は長い闘いの歴史を月と関所で簡潔に表現します。故郷を遠く離れた辺境の地で塞を守る男たち。
 作者は送り出した妻の口を借りていつまでも続く戦争への恨みを歌い上げます。王昌齢は戦地、塞への勤務経験はありませんから、妻の口を借りた戦争批判になったのでしょう。律令制が崩壊したころの作品です。兵士に対する政策は全なく、徴兵で出征した兵士はほとんど故郷を踏むことはできなかった。

 騎馬民族の侵入は万里の長城をもってしても防げなかった。胡(匈奴)との戦いを歴代王朝は繰り返した。その歴史に功名を残したのが龍城の「飛将軍」李廣です。紀元前2世紀、前漢の時代、飛将軍の名は北の異民族匈奴に恐れをなしていた。

 しかし、それはもう昔のこと。夫を戦地にとられた妻たちは途方にくれます。
 ああ、昔は飛将軍がにらみを利かせていてくれたから、異民族に侵入なんかさせなかった。今はいい将軍もいない。いつになったら戦は終わるのか。いつになったら夫は帰れるのか。

 唐朝の弱体化は内部叛乱を呼び起こし、人口半減という事態に至るのです。

  万里の長城 221所


秦時明月漢時關:秦の時代の明月は、(変わることなく)漢の時代の関を照らして。 ・秦時明月:秦の時代の明月。秦の時代も明月は(この関を照らし)。 ・明月:澄み渡った月。月影の描写は暗に人を偲ぶことを示す。 ・漢時關:漢の時代の関(せき)。

萬里長征人未還:遥かに遠く遠征した人はまだ帰ってこない。 ・萬里長征:遥かに遠く遠征すること。 ・人未還:遠征した人はまだ帰ってこない。 ・還:(出発したところへUターンをして)もどる。

但使龍城飛將在:ただ(朔北の地)龍城を、「飛将軍」李廣に守備をさせれば。 ・但使:ただ…でさえあれば。 ・龍城:匈奴の長が会合して天を祭る処。転じて、匈奴の地。広く朔北の地を指す。「史記巻一百十・匈奴列傳五十」に「歳正月,ゥ長小會單于庭,祠。五月,大會龍城,祭其先、天地、鬼~。秋,馬肥…」とある。 ・飛將:前漢の李廣。しばしば匈奴を破り、匈奴より「飛将軍」と呼ばれた。 ・在:いる。存在する。ここでは守備をさせる、籠城をさせる。

不ヘ胡馬渡陰山:匈奴の軍馬に(中原の北の要害である)陰山を通り過ぎさせるようなことはしない。 ・不教:…に…をさせない。使役の「ヘ」は平声。蛇足になるが、現代語(北京語)では(〔jiao1〕という平声があるとはいうものの)使役表現では去声の〔jiao4〕を使う。 ・胡馬:匈奴の軍馬。匈奴の軍隊を指す。西北方に住む異民族。 ・渡:わたる。通り過ぎる。通り過ぎて(中原へ入る)。 ・陰山:崑崙山の北の支脈。中原の北側の要害の地。「史記巻一百十・匈奴列傳」に「築長城,自代並陰山下,至高闕爲塞。」とある。



214 王 昌齢
698年?765年 中国・盛唐の詩人。字は小伯。王江寧、王竜標とも称す。
 山西省太原に本籍を持ち、陝西省西安に生まれ。727年に進士となり、秘書郎から734年に博学宏詞科に及第して水(河南省)の県補となったが、豪放磊落な生活ぶりで江寧の丞・湖南省竜標の県尉に落とされた。その後、安禄山の乱の時に官を辞して故郷に帰るが、刺使の閭丘暁に憎まれて殺された。

 詩について、当時「詩家の天子」とも呼ばれ、高適・王之渙と交遊があった。七言絶句に特に優れ、六朝時代の伝統的な辺塞詩、戦場に行かないで戦場のことを詩にし佳作が多い。閨怨詩・送別詩にも詩才を発揮した。「詩緒密にして思い清し」という評がある。詩集5巻。詩論家としても『詩格』『詩中密旨』がある。








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漢文委員会  紀 頌之