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  韓愈の生涯  

3-2 第三の挫折 



第三章陽山へ貶謫3-2第三の挫折 貞元一九(803)年〜貞元ニ○(804)年《36〜37歳》 …  102
804年貞元20年37歳  初句  
《昌黎先生集/卷2-9同冠峽》【案:貞元十九年貶陽山後作。】 南方二月半,
《昌黎先生集/卷2-10送惠師》【案:愈在連州,與釋景常,元惠遊。惠師即元惠也。】 惠師浮屠者,
《昌黎先生集/卷2-11送靈師》 佛法入中國,
《昌黎先生集/卷3-14貞女峽》【案:在連州桂陽縣。秦時有女子化石,在東岸穴中。】 江盤峽束春湍豪,
《昌黎先生集/卷4-12縣齋讀書》 出宰山水縣,
《昌黎先生集/卷9-4李員外寄紙筆》 題是臨池後,
《昌黎先生集/卷9-5次同冠峽》 今日是何朝,
《昌黎先生集/卷9-6答張十一功曹》 山淨江空水見沙,
《昌黎先生集/卷9-12湘中》 猿愁魚踴水翻波,
《卷十一 雜著-1原道》 博愛之謂仁,
道をたずねる。 原道 1回〜12回 まとめ(1)  
原道 13回〜24回 まとめ(2)   
《卷十一 雜著-2原性》 性也者,與生?生也
《卷十一 雜著-3原毀》 古之君子,其責
《卷十一 雜著-4原人》 形於上者謂之天
《卷十一 雜著-5原鬼》 有嘯於梁,從而
《卷十一 雜著-6行難》 或問「行孰難」曰:


3-2 第三の挫折


 この年、長安を含む一帯は正月から七月まで雨がなかった。その上、秋には異常に早い霜を見て、農作物は全滅に近い被害を受けた。
 首都長安は、地方行政制度の上では長安県・万年県の二県に分けられる。二県を統括する上部機関が京兆府と呼ばれるもので、その長官を京兆府尹と称する。長安地方の農作物の作柄を調査するのは京兆府の所管事項であり、時の京兆府尹は、さきに韓愈が手紙を送った李実であった。
 韓愈は李実に向って、「未だ赤心もて上に事へ、国を憂ふるに家の如くすること、?下の如き者を見す」などとほめちぎったが、これは就職を依頼する手紙の性質上、やむを得なかったことである。実際には、李実は民に臨むのに温情よりも巌格を旨とし、法の適用について仮借しない、酷吏と呼ばれる種類の官僚だったらしい。だから、京兆府尹の報告書に、雨はなかったが農作物の作柄は特に良好と書いて、皇帝に提出した。凶作ならば税の減免が行われるはずなのに、この報告書では、特別な措置のとりようがない。農民は大凶作の上に、例年どおりの課税を負担しなければならなかった。
 愈はこれを見て、監察御史の摘発すべき事態と考えた。そこで書いたのが、《昌黎先生集/卷37-4禦史臺上論天旱人饑?》(御史台より天旱人饑を上論する状)である。そこには農民の窮状を述べ、「子を棄て妻をrひ、洪て口食を求め、屋を柝ち樹を伐り、以て税銭を納む」というありさまであり、これを救済するためには、本年度の課税の未徴収分はしばらく凍結し、来年の蚕と麦の収穫期が過ぎて、農民に少しく余裕ができてから徴収する処置をとるがよいと論じてあった。
 これは当時の役人として、まず穏当な意見といえよう。ただし、穏当すぎて、愈がどれほど農民の身になって考えたか、疑問に思われる。農民の立場からすれば、減税か免税になってもよい事態なのに、愈の意見では微収が延期されるだけのことであって、その場だけは息がつけるものの、結局のところ大した恩恵とはいえない。しかし、愈の立場からいえば、本年度の課税は朝廷ですでに決定された方針であり、監察御史として、そこにまで文句はつけにくい。だから既定の方針はそのままにして、徴税方法だけを操作し、農民の苦痛を軽減しようとする。これならぱ、朝廷のどこにもさしさわりは生じないはずであった。
 むろん、一身をなげうって、本年度の課税方針の変更を要求し、少なくとも京兆府に関しては、一切免税とする措置を請願することも考えられる。ただし、これは本来京兆府尹がするべきことで、監察御史か口を出しては、越権行為になる恐れもある。しかし現実に京兆府尹の李実は何もしないどころか、凶作を無視しているのだから、監察御史がそれを正面から弾劾して、新しい京兆府尹に新しい処置をとらせるように要求してもよかった。
 だが、彼はそこまで踏み切っていない。彼の文書の中には、李実を弾劾する宇句が一つもないのである。彼は農民を「陛下の赤子」だなどと言っているが、農民と心中して監察御史の職を棒に振るまでの決意はなかったのであろう。そしてこれが、当時の「良心的な」役人たちの、平均的な考え方であった。愈と同時代の白居易(楽天)も、若いころ地方官をしていて、農民の麦刈りを眺め、これほどの重労働に対して披らには報いられるものが少ない、それにくらべれば自分などは、ふところ手をしていて彼らの麦を食べている、恥ずかしいことだと考えた(白氏文集 観刈麦詩)。しかし、だから白居易が地方官をやめて、農民になったわけではない。農民への同情は失わなかったが、後年の彼は大きな邸宅に住み、やはり労働することもなく農民の麦を食べ続けたのである。
 いすれにしても、愈が提出した意見は、格別に「危険思想」を含むものではなかったし、手段としても穏当なものであった。ところが、この意見が採用されなかったばかりか、彼は監察御史を罷奴され、陽山県(広東)の県令に移されることとなった。地方官への転出だが、陽山は当時では僻遠の地なので、実質的には流罪である。
 何が皇帝の(あるいは宰相の)気にさわったのか、愈にはわからない。本人にわからないくらいだから、後世の人にもわからず、彼の配流の原因については、さまざまの説がある。
 その中で最もほんとうらしく見えるのは、李実の策謀とする説である。これより前、成輔端という宮廷の俳優(君主の側近で娯楽に奉仕する人)が李実の政策を批判した。俳優らしく、戯れ歌を作り、その中で李を謨剌したのである。ところが李は朝敢を誹膀したと言いたてて成輔端を逮抽させ、杖刑に処することにして、実際は打ち殺させてしまった。そんなことをするくらいの男だから、愈の意見書を見て憤慨し、朝廷から追い出すようにはからったのだというのである。
 しかし愈自身は、あまり李実を疑わなかったように見える。直接に李を弾劾したわけではないので、李が怒るとは想像できなかったのかもしれない。むしろ他の人に疑いを向けて、配流の途中での詩に、次のようにうたった(《昌黎先生集/卷1-2.6赴江陵途中寄贈王二十補闕李十一拾遺李二十六員外翰林三學士》江陵に赴く途中、三学士に寄す)。
孤臣昔放逐,血泣追愆尤。汗漫不省識,?如乘桴浮。
或自疑上疏,上疏豈其由。是年京師旱,田畝少所收。
#1
孤臣 昔 放逐せられ,血泣【けつきゅう】愆尤【けんゆう】を追う。
汗漫【かんまん】として省識【せいしき】せず,?【きょう】として桴【いかだ】乘って浮ぶが如し。
或いは自ら疑う 上疏【じょうそ】かと,上疏は豈其の由ならんや?
是の年京師【けいし】旱【ひでり】して,田畝【でんは】收むる所少【まれ】なり。
-#2  §1−2
上憐民無食,?賦半已休。有司恤經費,未免煩?求。
富者既云急,貧者固已流。傳聞閭里間,赤子棄渠溝。
#2
上【しょう】民の食無きを憐れみて,征賦【せいふ】半ばは已【すで】に休【や】めらる。
有司 經費を恤【うれ】え,未だ徴求【ちょうきゅう】を煩【わずら】わすを免れず。
富者は既に雲【ここ】に急に,貧者は固より已に流る。
傳え聞く閭裏【りょり】の間,赤子【せきし】渠溝【きょこう】に棄つと。
-#3  §1−3
持男易斗粟,掉臂莫肯酬。我時出衢路,餓者何其稠。
親逢道邊死,佇立久??。歸舍不能食,有如魚中鉤。
#3
男を持して鬥粟【とぞく】易【か】うるも,臂【ひじ】を掉【ふる】って肯えて酬【むく】ゆる莫【な】し。
我時に衢路【くろ】に出ずるも,餓えたる者 何んぞ其れ稠【おお】き。
親しく道邊の死に逢い,佇立【ちょりつ】して久しく?憂【いゆう】す。
舍に歸るも食うこと能わず,魚の鉤に中【あた】れるが如き有り。
-#4  §1−4
適會除御史,誠當得言秋。拜疏移閤門,為忠寧自謀。
上陳人疾苦,無令?其喉。下陳畿甸?,根本理宜優。
-#5  §1−5
積雪驗豐熟,幸ェ待蠶?。天子惻然感,司空歎綢繆。
謂言即施設,乃反遷炎州。同官盡才俊,偏善柳與劉。
-#6  §1−6
或慮語言洩,傳之落冤讎。二子不宜爾,將疑斷還不。
中使臨門遣,頃刻不得留。病妹臥床褥,分知隔明幽。
-#7  §1−7
悲啼乞就別,百請不頷頭。弱妻抱稚子,出拜忘漸羞。
?俛不回顧,行行詣連州。
-#8  §-2-1
朝為青雲士,暮作白頭囚。商山季冬月,冰凍?行?。
春風洞庭浪,出沒驚孤舟。
-#9  §-2-2
逾嶺到所任,低顏奉君侯。酸寒何足道,隨事生瘡疣。
遠地觸途異,吏民似猿猴。
-#10  §-2-3
生獰多忿很,辭舌紛嘲?。白日屋簷下,雙鳴鬥??。
有蛇類兩首,有蠱群飛遊。
-#11  §-2-4
窮冬或搖扇,盛夏或重裘。颶起最可畏,?哮簸陵丘。
雷霆助光怪,氣象難比r。癘疫忽潛遘,十家無一?。
猜嫌動置毒,對案輒懷愁。
-#12 §-3-1
前日遇恩赦,私心喜還憂。果然又羈?,不得歸耡?。
此府雄且大,騰凌盡戈矛。
-#13 §-3-2
棲棲法曹掾,何處事卑陬。生平企仁義,所學皆孔周。
早知大理官,不列三后儔。何況親?獄,敲?發姦?。
-#14 §-3-3
懸知失事勢,恐自罹?罘。湘水清且急,涼風日修修。
胡為首歸路,旅泊尚夷猶。
-#15 §-4-1
昨者京使至,嗣皇傅冕旒。赫然下明詔,首罪誅共兜。
復聞顛夭輩,峨冠進鴻疇。班行再肅穆,?珮鳴琅?。
-#16 §-4-1
佇繼貞觀烈,邊封?兜?。三賢推侍從,卓犖傾枚鄒。
高議參造化,清文煥皇猷。協心輔齊聖,致理同毛?。
-#17 §-4-2
〈小雅〉詠鹿,食苹貴??。遺風?不嗣,豈憶嘗同?。
失志早衰換,前期擬蜉蝣。
-#18 §-4-3
自從齒牙缺,始慕舌為柔。因疾鼻又塞,漸能等槫C。
深思罷官去,畢命依松楸。空懷焉能果,但見?已遒。
-#19 §-4-4
殷湯閔禽獸,解網祝蛛?。雷煥掘寶劍,冤氛消斗牛。
茲道誠可尚,誰能借前籌。殷勤答吾友,明月非暗投。

 監察御史の同僚の中では、柳宗元と劉馬錫(この人物も中唐を代表する詩人の一人である)の二人と、特に仲がよかった。だから自分の意見書の内容は、本来ならば天子と宰相だけが知っているはずなのに、この二人の口からよそに漏れて、それが自分を憎む者の耳に入り、こんな結果になったのかもしれない。しかし、あの二人が、そのようなことをするとも考えられないから、そうだと断定してよいかどうか、まだ定めかねるというのである。
 終生を通じ、愈の最もよい理解者であった柳宗元と、詩人として共感を抱いていた劉萬錫をすら、この時の愈は疑惑の眼で見ていたのである。だが、それにはまた、それなりの理由もあった。
 時の皇帝である徳宗の治世はすでに長く、朝廷の百官は遠からすその終末が来ることを予測して、皇太子、すなわち後の順宗の方へと眼を向けていた。皇太子のお気に入りの側近は王任と王叔文の二人である。この二人を中心にして、次の政権を夢みる役人たちの結束が進行しつつあった。柳宗元と劉萬錫も、その一員である。
 王任と王叔文は、『唐書』などの記録では奸臣として扱われ、近ごろの研究では、むしろ評判がよい。二人は徳宗の政策に不満を抱き、同志の役人たちを集めて、皇太子が即位したらすぐに革新的な政策を打ち出そうと企劃した。しかし、その改革があまりに急であったのと、皇太子の病気のため、保守派の捲き返しを受けて、結局は挫析した。だから、王任・王叔文およびその傘下に集まった人々は、当時の進歩的な官僚たちであり、彼らが失敗した後、保守派が記録を曲げて、彼らの革新的な意図を私利私欲による薄ぎたないものにしてしまったというのが、近ごろの解釈である。
 たしかに、彼らは革新を志した。柳宗元などは、最も純粋にそれを志向した一人といえよう。しかし、意図はどうであろうとも、彼らは次の皇帝となるべき人を錦の御旗として、自分たちが権力を握ろうと計劃した。そこに集まった人々が、すべて進歩的な、憂国の士であったとは限るまい。
ここで出世をつかもうとする野心家が含まれていたとしても、しかたのないことであろう。彼らの間には、皇太子が即位したときのために、自分たちのグループで朝廷の高官を独占する秘密の名簿もできていたという。これも保守派が作り上げた根も葉もない噂と言いすててもよかろうが、革新政策を断行するためには、そのくらいの準備をするのは当然である。とすれば、その名簿に入りたいための革新派が出現しても、無理はない。
 いずれにしても、この準備行動は隠密のうちに進められる必要があった。そこで、同志以外でこの事情を多少とも知った者があれば、裏から手をまわし、朝廷から追い出したという。これは後に彼らの非状の一つとされたもので、保守派が作った記録は、彼らがどれほど陰険に敵を陥れたかを力説する。手口が陰険であったかどうかは判定のしようもないか、秘密を知った第三者をそのままにしておけないのは、当然であろう。
 意がその第三者と見なされる可能性は大きかった。彼は王任・王叔文の一党に属していない。そして、一党のうちの幹部クラスである柳宗元・劉馬錫と特に親しい。柳・劉の二人が愈に大事を漏らすはすはないが、何かのはすみに、薄々にでも愈が気づくようなことをロ走らないとも限らない。少なくとも、愈が薄々感づいたと二人が判断する可能性はあるわけで、そうなれば親友であっても、放置することはできない。そのあたりの事情を考えたのが、前の詩に見える屈折した表現となったのかもしれなかった。
 また、別の説もある。愈は宮市の弊害を論じた意見書を上奏した。宮市とは、宮中で必要な物資を業者から買い入れることをいう。当然なことのようだか、これが購入担当の宦官たちの役得となった。彼らは宮中御用と言いたて、法外に安い価格で物資を買いあげてしまう。ほとんど掠奪といえる場合さえあった。白居易の「新彭雁」のうちの「売炭翁」は、このために泣かされた炭焼きの爺さんを描き出した。爺さんは炭を牛車に積み、苦労して長安の町まで売りに来るが、そこで宮市の使者につかまり、中しわけ程度の代価とひきかえに、炭を全部持って行かれてしまう。このように民衆を苦しめる宮市を廃止すべきだと愈が主張したのが、彼の流罪のほんとうの原因であったというのである。
 ここで思いあたるのは、皇太子がかつて王叔文たちと雑談のおり、宮市の廃止を天子に進言しようと思うと語った、という話である。そのとき、一同は大いに賛成したが、王叔文だけが反対した。
宮市の弊害は誰もが感じている。その廃止を言い出せば、人望は皇太子に集まる。皇太子が人望を集めようとしていると見られれぱ、自分の地位に不安を感じる天子が、そのままではすまさないだろうというのである。皇太子は忠告に感謝し、宮市の件は口に出さぬこととした。
 その一件を、愈が上奏文にしたわけである。むろん、皇太子の側近でどんな会話があったのか、愈が知るはずもないのだが、皇太子の方では秘密が漏れたと感じたかもしれない。そのため、皇太子一派の策動で愈が追い出されたと考えることもできる。いちおう筋の立った説ではあるが、ただ、宮市に関する愈の上奏文なるものは、現存しない。少なくとも、今日に伝わる披の文集の中には見えない。
 ともかく、愈は都から追われた。護送の兵士に囲まれ、妻子を残して、彼はあわただしく南へと
旅立つ。その情景を、彼は前にあげた詩《昌黎先生集/卷21-1送區冊序》(韓文二一、区冊を送る序)。の中に、引き続いてうたった。

中使臨門遣,頃刻不得留。
病妹臥床褥,分知隔明幽。
悲啼乞就別,百請不頷頭。
弱妻抱稚子,出拜忘漸羞。
?俛不回顧,行行詣連州。
朝為青雲士,暮作白頭囚。
商山季冬月,冰凍?行?。
春風洞庭浪,出沒驚孤舟。

中使 門に臨みて遣り、頃刻も留まるを得ず。
病妹は床褥に臥す、分めて知る 明幽を隔てんと。
悲啼して就いて別れんと乞ひ、百たび請ふも頷頭かず。
弱妻は稚子を抱き、出で拝して惹羞を忘る。
俑挽として廻顧せす、行く行く連州に詣らん。
朝には青雲の士と為り、暮には白首の囚と作れり。
86-#1 送區册序 韓愈(韓退之) 804年貞元20年 37歳<1503> U 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6499

 そして翌貞元二十年(八〇四)、愈は陽山に着いた。現在の広東省の北部、湖南との省境に近いあたりでる。彼は言う。

陽山,天下之窮處也。陸有丘陵之險,虎豹之虞;
江流悍急,波之石,廉利r劍戟,舟上下失勢,
破碎淪溺者,往往有之。縣郭無居民,官無丞尉,
夾江荒茅篁竹之間,小吏十餘家,皆鳥言夷面。
始至,言語不通,畫地為字,然後可告以出租賦,奉期約。
陽山は天下の窮処なり。陸に丘陵の険、虎豹の虞れ有り。江流悍急、横波の石、廉利なること剣戟に伴し。舟の上下して勢を失ひ、破砕論溺する者、往往にしてこれ有り。県郭に居民無く(県城の内に住民がなく)、官に丞尉無し(補佐役もない)。江を央む荒茅篁竹の間、小吏十余家あり。皆鳥言夷面、言語通ぜず。地に画いて字と為し、然る後に告ぐるに祖賦を出し、期約を奉ずるを以てす可し

たいへんな辺地なのである。彼は都恋しさに堪えられない。そのころ、はるばる手紙をよこした竇存亮という若い後輩への返書(《昌黎先生集/卷15-2答竇秀才書》、竇秀才に答ふる書)に、彼はこう書いた。
   今又罪を以て朝廷より詣けられ、遠く蛮県に宰たり。愁憂無聊、雍痍浸く加はり、喘喘とし
て以て朝夕を翼ふ無し。

 南方は高温多湿である。風土病も多い。乾燥した北方から移って来た人々は、とかく病気にかか
りやすかった。当時の人たちはこれを、南方には毒気を含んだ霧のようなものが立ちこめているの
であって、それに触れた者が病気にかかるのだと考え、「雍痍の気」または「雍気」と呼んで恐れ
た。その諏痍の気がしだいに愈の身に泌み込んで、もう虫の息となり(喘喘)、朝は生きていても、
夕方まで命がもつかどうか、おぼつかないありさまだというのである。


《昌黎先生集/卷37-4禦史臺上論天旱人饑?》
禦史臺上論天旱人饑?
右臣伏以今年已來,京畿諸縣,夏逢亢旱,秋又早霜,田種所收,十不存一。
陛下恩逾慈母,仁過春陽,租賦之間,例皆?免。所征至少,所放至多;上
恩雖弘,下困猶甚。至聞有棄子逐妻,以求口食;?屋伐樹,以納?錢;寒
餒道途,斃?溝壑。有者皆已輸納,無者徒被追征。臣愚以為此皆群臣之所
未言,陛下之所未知者也。

臣竊見陛下憐念黎元,同於赤子,至或犯法當戮,猶且ェ而宥之,況此無辜
之人,豈有知而不救?又京師者,四方之腹心,國家之根本,其百姓實宜倍
加憂恤。今瑞雪頻降,來年必豐,急之則得少而人傷,緩之則事存而利遠。
伏乞特敕京兆府,應今年?錢及草粟等在百姓腹?征未得者,並且停征,容
至來年,蠶麥庶得,少有存立。
臣至陋至愚,無所知識。受恩思效,有見輒言,無任懇款慚懼之至。謹?奏
聞。謹奏。



白居易 《白氏文集卷第一6 觀刈麥》
田家少閑月,五月人倍忙。夜來南風起,小麥覆隴?。
婦姑荷簟食,童稚攜壺漿。相隨餉田去,丁壯在南岡。
足蒸暑土氣,背灼炎天光。力盡不知熱,但惜夏日長。
複有貧婦人,抱子在其傍。右手秉遺穗,左臂懸敝筐。
聽其相顧言,聞者為悲傷。家田輸?盡,拾此充饑腸。
今我何功コ,曾不事農桑。吏祿三百石,?晏有餘糧。
念此私自愧,盡日不能忘。



送區冊序
陽山,天下之窮處也。陸有丘陵之險,虎豹之虞;
江流悍急,波之石,廉利r劍戟,舟上下失勢,
破碎淪溺者,往往有之。縣郭無居民,官無丞尉,
夾江荒茅篁竹之間,小吏十餘家,皆鳥言夷面。
始至,言語不通,畫地為字,然後可告以出租賦,
奉期約。是以賓客遊從之士,無所為而至。
愈待罪於斯,且半?矣。有區生者,誓言相好,
自南海?舟而來,升自賓階,儀觀甚偉,坐與之
語,文義卓然。莊周云:「逃空?者,聞人足音,
跫然而喜矣。」況如斯人者,豈易得哉!入吾室,
聞《詩》《書》仁義之?,欣然喜,若有志於其間也。
與之翳嘉林,坐石磯,投竿而漁,陶然以樂,若能遺
外聲利,而不厭乎貧賤也。?之初吉,歸拜其親,酒
壺既傾,序以識別。



答竇秀才書
愈白:愈少駑怯,於他藝能,自度無可努力,又不通時事,而與世多齟齬。
念終無以樹立,遂發憤篤專於文學。學不得其術,凡所辛苦而僅有之者,
皆符於空言,而不適於實用,又重以自廢。是故學成而道益窮,年老而智
愈困。今又以罪黜於朝廷,遠宰蠻縣,愁憂無聊,瘴癘侵加,喘喘焉無以
冀朝夕。足下年少才俊,辭雅而氣?,當朝廷求賢如不及之時,當道者又
皆良有司,操數寸之管,書盈尺之紙,高可以釣爵位,循次而進,亦不失
萬一於甲科。今乃乘不測之舟,入無人之地,以相從問文章為事。身勤而
事左,辭重而請約,非計之得也。雖使古之君子,積道藏コ,遁其光而不
曜,膠其口而不傳者,遇足下之請懇懇,猶將倒廩傾?,羅列而進也。若
愈之愚不肖,又安敢有愛於左右哉!顧足下之能,足以自奮。愈之所有,
如前所陳,是以臨事愧恥而不敢答也。錢財不足以賄左右之匱急,文章不
足以發足下之事業。?載而往,垂?而歸,足下亮之而已。愈白。



原道
博愛之謂仁,行而宜之之謂義。由是而之焉之謂道,足乎己無待於外之謂コ。
仁與義為定名,道與コ為?位。故道有君子小人,而コ有凶有吉。

老子之小仁義,非毀之也,其見者小也。坐井而觀天,曰「天小」者,非天
小也。彼以煦煦為仁,孑孑為義,其小之也則宜。其所謂道,道其所道,非
吾所謂道也。其所謂コ,コ其所コ,非吾所謂コ也。凡吾所謂道コ云者,合
仁與義言之也,天下之公言也。老子之所謂道コ云者,去仁與義言之也,一
人之私言也。

周道衰,孔子沒,火於秦,?老於漢,佛於晉、魏、梁、隋之間。其言道コ
仁義者,不入於楊,則入於墨。不入於老,則入於佛。入於彼,必出於此。
入者主之,出者奴之。入者附之,出者?之。噫!後之人其欲聞仁義道コ之
?,孰從而聽之?老者曰:「孔子,吾師之弟子。」佛者曰:「孔子,吾師
之弟子也。」為孔子者,習聞其?,樂其誕而自小也,亦曰:「吾師亦嘗師
之云爾。」不惟舉之於其口,而又筆之於其書。噫!後之人,雖欲聞仁義道
コ之?,其孰從而求之?甚矣!人之好怪也。不求其端,不訊其末,惟怪之
欲聞。

古之為民者四,今之為民者六。古之教者處其一,今之教者處其三。農之家
一,而食粟之家六。工之家一,而用器之家六。賈之家一,而資焉之家六。
奈之何民不窮且盜也!

古之時,人之害多矣。有聖人者立,然後教之以相生養之道。為之君,為之
師,驅其蟲蛇禽獸,而處之中土。寒,然後為之衣。饑,然後為之食。木處
而顛,土處而病也,然後為之宮室。為之工,以贍其器用。為之賈,以通其
有無。為之醫藥,以濟其夭死。為之葬埋祭祀,以長其恩愛。為之禮,以次
其先後。為之樂,以宣其湮鬱。為之政,以率其怠倦。為之刑,以鋤其強梗。
相欺也,為之符璽,斗斛權衡以信之。相奪也,為之城郭甲兵以守之。害至
而為之備,患生而為之防。今其言曰:「聖人不死,大盜不止;剖斗折衡,
而民不爭。」嗚呼!其亦不思而已矣!如古之無聖人,人之類滅久矣。何也?
無羽毛鱗介以居寒熱也,無爪牙以爭食也。

是故君者,出令者也。臣者,行君之令而致之民者也。民者,出粟米麻絲,
作器皿,通貨財,以事其上者也。君不出令,則失其所以為君。臣不行君之
令而致之民,則失其所以為臣。民不出粟米麻絲,作器皿,通貨財,以事其
上,則誅。今其法曰:「必棄而君臣,去而父子,禁而相生養之道。」以求
其所謂清靜寂滅者。嗚呼!其亦幸而出於三代之後,不見黜於禹、湯、文武、
周公、孔子。其亦不幸而不出於三代之前,不見正於禹、湯、文武、周公、
孔子也。

帝之與王,其號名殊,其所以為聖一也。夏葛而冬裘,?飲而饑食,其事雖
殊,其所以為智一也。今其言曰:「曷不為太古之無事?」是亦責冬之裘者
曰: 「曷不為葛之之易也?」責饑之食者曰:「曷不為飲之之易也。」
《傳》曰:「古之欲明明コ於天下者,先治其國。欲治其國者,先齊其家。
欲齊其家者,先修其身。欲修其身者,先正其心。欲正其心者,先誠其意。」
然則古之所謂正心而誠意者,將以有為也。今也欲治其心,而外天下國家,
滅其天常:子焉而不父其父,臣焉而不君其君,民焉而不事其事。孔子之作
《春秋》也,諸侯用夷禮,則夷之。進於中國,則中國之。《經》曰:「夷
狄之有君,不如諸夏之亡!」《詩》曰:「戎狄是膺,荊舒是懲。」今也舉
夷狄之法,而加之先王之教之上,幾何其不胥而為夷也!

夫所謂先王之教育,何也?博愛之謂仁,行而宜之謂義,由是而之焉之謂道,
足乎己無待於外之謂コ。其文,《詩》《書》《易》《春秋》,其法,禮樂
刑政,其民,士農工賈;其位,君臣父子師友賓主昆弟夫婦;其服,麻絲;
其居,宮室;其食,粟米果蔬魚肉。其為道易明,而其為教易行也。是故以
之為己,則順而祥;以之為人,則愛而公;以之為心,則和而平;以之為天
下國家,無所處而不當。是故生則得其情,死則盡其常;郊焉而天神假,廟
焉而人鬼享。曰:「斯道也,何道也?」曰:「斯吾所謂道也,非向所謂老
與佛之道也。」堯以是傳之舜,舜以是傳之禹,禹以是傳之湯,湯以是傳之
文武周公,文武周公傳之孔子,孔子傳之孟軻。軻之死,不得其傳焉。荀與
揚也,擇焉而不精,語焉而不詳。由周公而上,上而為君,故其事行;由周
公而下,下而為臣,故其?長。

然則如之何而可也?曰:「不塞不流,不止不行。」人其人,火其書,廬其
居,明先王之道以道之,鰥寡孤獨廢疾者,有養也。其亦庶乎其可也。



原性
性也者,與生?生也;情也者,接於物而生也。性之品有三,而其所以為性
者五;情之品有三,而其所以為情者七。曰何也?曰性之品有上、中、下三。
上焉者,善焉而已矣;中焉者,可導而上下也;下焉者,惡焉而已矣。其所
以為性者五:曰仁、曰禮、曰信、曰義、曰智。上焉者之於五也,主於一而
行於四;中焉者之於五也,一不少有焉,則少反焉,其於四也混;下焉者之
於五也,反於一而悖於四。性之於情視其品。情之品有上、中、下三,其所
以為情者七:曰喜、曰怒、曰哀、曰懼、曰愛、曰惡、曰欲。上焉者之於七
也,動而處其中;中焉者之於七也,有所甚,有所亡,然而求合其中者也;
下焉者之於七也,亡與甚,直情而行者也。情之於性視其品。

孟子之言性曰:人之性善;苟子之言性曰:人之性惡;揚子之言性曰:人之
性善惡混。夫始善而進惡,與始惡而進善,與始也混而今也善惡,皆舉其中
而遺其上下者也,得其一而失其二者也。叔魚之生也,其母視之,知其必以
賄死;楊食我之生也,叔向之母聞其號也,知必滅其宗;越椒之生也,子文
以為大戚,知若敖氏之鬼不食也。人之性果善乎?後稷之生也,其母無災,
其始匍匐也,則岐岐然、嶷嶷然;文王之在母也,母不憂,既生也,傅不勤,
既學也,師不煩。人之性果惡乎?堯之朱、舜之均、文王之管蔡,習非不善
也,而卒為奸;瞽?之舜、鯀之禹,習非不惡也,而卒為聖。人之性善惡果
混乎?故曰:三子之言性也,舉其中而遺其上下者也,得其一而失其二者也。
曰:然則性之上下者,其終不可移乎?曰:上之性,就學而易明;下之性,
畏威而寡罪。是故上者可教,而下者可制也。其品則孔子謂不移也。

曰:今之言性者異於此,何也?曰:今之言者,雜佛老而言也。雜佛老而言
也者,奚言而不異!



原毀
古之君子,其責己也重以周,其待人也輕以約。重以周,故不怠;輕以約,
故人樂為善。聞古之人有舜者,其為人也,仁義人也。求其所以為舜者,責
於己曰:「彼人也,予人也,彼能是,而我乃不能是。」早夜以思,去其不
如舜者,就其如舜者。聞古之人有周公者,其為人也,多才與藝人也。求其
所以為周公者,責於己曰:「彼人也,予人也,彼能是,而我乃不能是。」
早夜以思,去其不如周公者,就其如周公者。舜,大聖人也,後世無及焉;
周公,大聖人也,後世無及焉。是人也,乃曰:「不如舜,不如周公,吾之
病也。」是不亦責於身者重以周乎!其於人也,曰:「彼人也,能有是,是
足為良人矣;能善是,是足為藝人矣。」取其一,不責其二;即其新,不究
其舊,恐恐然惟懼其人之不得為善之利。一善易修也,一藝易能也,其於人
也,乃曰:「能有是,是亦足矣。」曰:「能善是,是亦足矣。」不亦待於
人者輕以約乎!

今之君子則不然,其責人也詳,其待已也廉。詳,故人難於為善;廉,故自
取也少。己未有善,曰:「我善是,是亦足矣。」己未有能,曰:「我能是,
是亦足矣。」外以欺於人,?以欺於心,未少有得而止矣。不亦待其身者已
廉乎其於人也,曰:「彼雖能是,其人不足稱也;彼雖善是,其用不足稱也。」
舉其一,木計其十;究其舊,不圖其新,恐恐然惟懼其人之有聞也。是不亦
責於人者已詳乎!夫是之謂不以?人待其身,而以聖人望於人,吾未見其尊
己也。雖然,為是者,有本有原,怠與忌之謂也。怠者不能修,而忌者畏人
修。吾常試之矣,常試語於?曰:「某良士。某良土。」其應者必其人之與
也;不然,則其所疏遠不與同其利者也;不然,則其畏也。不若是,強者必
怒於言,懦者必怒於色矣。又?語於?曰:「某非良士。某非良土。」其不
應者,必其人之與也;不然,則其所疏遠不與同其利者也;不然。則其畏也。
不若是,強者必?於言,懦者必?於色矣。是故事修而謗興,コ高而毀來。

嗚呼!士之處此世,而望名譽之光、道コ之行,難已!將有作於上者,得吾
?而存之,其國家可幾而理歟!



原人
形於上者謂之天,形於下者謂之地,命於其兩間者謂之人。形於上,日月星
辰皆天也;形於下,草木山川皆地也;命於其兩間,夷狄禽獸皆人也。曰:
然則吾謂禽獸人,可乎?曰:非也。指山而問焉,曰:山乎?曰:山,可也;
山有草木禽獸,皆舉之矣。指山之一草而問焉,曰:山乎?曰:山,則不可。
故天道亂,而日月星辰不得其行;地道亂,而草木山川不得其平;人道亂,
而夷狄禽獸不得其情。天者,日月星辰之主也;地者,草木山川之主也;人
者,夷狄禽獸之主也。主而暴之,不得其為主之道矣。是故聖人一視而同仁,
篤近而舉遠。



原鬼
有嘯於梁,從而燭之,無見也,斯鬼乎?曰:非也,鬼無聲。有立於堂,」
從而視之,無見也,斯鬼乎?曰:非也,鬼無形。有觸吾躬,從而執之,
無得也,斯鬼乎?曰:非也,鬼無聲與形,安有氣?曰:鬼無聲也,無形也,
無氣也,果無鬼乎?曰:有形而無聲者,物有之矣,土石是也;有聲而無形
者,物有之矣,風霆是也;有聲與形者,物有之矣,人獸是也;無聲與形者,
物有之矣,鬼神是也。曰:然則有怪而與民物接者,何也?曰:是有二,有
鬼有物。漠然無形與聲者,鬼之常也。民有忤於天,有違於時,有爽於物,
逆於倫而感於氣,於是乎鬼有形於形,有憑於聲以應之,而下殃禍焉,皆民
之為之也。其既也,又反乎其常。曰:何謂物?曰:成於形與聲者,土石、
風霆、人獸是也;反乎無聲與形者,鬼神是也;不能有形與聲,不能無形與
聲者,物怪是也。故其作而接於民也無恒,故有動於民而為禍,亦有動於民
而為福,亦有動於民而莫之為禍福,適丁民之有是時也。作《原鬼》。




行難
或問「行孰難」曰:「舍我之矜,從爾之稱。」「孰能之?」曰:「陸先生
參何如?」曰:先生之賢聞天下,是是而非非。貞元中,自越州征拜祠部員
外郎,京師之人日造焉,閉門而拒之滿街。愈?往閑客席,先生矜語其客曰:
「某胥也,某商也,其生某任之,其死某誄之,某與某何人也,任與誄也非
罪歟?」皆曰:「然。」愈曰:「某之胥,某之商,其得任與誄也,有由乎?
抑有罪不足任而誄之邪?」先生曰:「否,吾惡其初。不然,任與誄也何尤?」
愈曰:「苟如是,先生之言過矣!昔者管敬子取盜二人為大夫於公,趙文子
舉管庫之士七十有餘家:夫惡求其初?」先生曰:「不然,彼之取者賢也。」
愈曰」:「先生之所謂賢者,大賢歟,抑賢於人之賢歟?齊也、晉也,且有
二與七十,而可謂今之天下無其人邪?先生之選人也已詳。」先生曰:「然」。
愈曰:「聖人不世出,賢人不時出,千百?之間儻有焉,不幸而有出於胥商
之族者,先生之?傳,吾不忍赤子之不得乳於其母也。先生曰:「然。」他日,
又往坐焉。先生曰:「今之用人也不詳,位乎朝者,吾取某與某而已,在下者
多於朝,凡吾與者若幹人。」愈曰:「先生之與者,盡於此乎?其皆賢乎,抑
猶有舉其多而缺其少乎?」
先生曰:「固然,吾敢求其全。」愈曰:「由宰相至百執事凡幾位?由一方至
一州凡幾位?先生之得者,無乃不足充其位邪!不早圖之,一朝而舉焉,今雖
詳,其後用也必粗。」先生曰: 「然。子之言,孟何不如。」








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