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  韓愈の生涯  

7-1 潮州にて



潮州にて 元和一四(819)年《52歳〉………………………………   159

  韓愈の生涯
第一章 科挙への道と挫折   大暦三(768)年 〜 貞元十一(795)年
   〈1〜2歳》家 系 / 〈3〜6歳》父の死 / 〈7〜18歳》兄の死 / 〈19歳〉科挙への道
   《19〜20歳》衣食の道 / 《20〜23歳》最初の挫析 / 〈24〜25歳〉進士及第
   〈25〜27歳》第二の挫折 / 《28歳〉自負と失意と
第二章 幕僚生活から四門博士  貞元十二(796)年 〜 貞元一八(802)年
   《29〜32歳》幕僚生活 / 《33歳〉再び幕僚生活 / 〈34歳》四たび吏部の試 / 《35歳》四門博士
第三章 陽山貶謫と中央朝廷復帰と、韓愈一門 貞元一九(803)年 〜 元和元(806)年
   《36歳》監察御史 / 第三の挫折 / 荊蛮の地
第四章 永貞革新と韓愈一門     永貞事件  永貞元(805)年八月 
   永貞革新とその経緯 / 永貞革新集団と春秋学 / 『春秋』と大中の説 / 大中の説と堯・舜の治績
   順宗実録
第五章 中央朝廷へ復帰    元和元(806)年 〜 元和九(814)年
   《39〜41歳》国子博士 / 《42〜43歳》河南県令 / 《44歳》送 窮
 / 《45〜46歳》進学の解 / 《46〜47歳》処世の術

第六章 「平淮西碑」から「論佛骨表」 元和一〇(815) 〜 元和一四(819)年

  《48歳》淮西の乱 / 《49歳》太子右庶子 / 《50〜51歳》栄達への道 / 《52歳》平淮西碑
   《52歳》論佛骨表 / 《52歳》潮州への道

第七章 潮州左遷から袁州刺史 元和一四(819)年 〜 元和一五(820)年

      《52歳〉潮州にて  /  《53歳〉袁州刺史

第八章 ふたたび長安へ、そして晩年 元和一五(820)年 〜 慶四(834)年

   《53歳》長安への道 / 《54歳〉国子祭酒 / 《55歳〉吏部侍郎 / 《56歳〉京兆の尹 / 《57歳》晩年


7-1 潮州にて          (2)
広州から一度海へ出て、海岸づたいに東進したのか、それとも東江をさかのぼって内睦の道をたどったのか、いずれにしても潮州に着いたのは、三月二十五日のことであった。彼は早速、「潮州剌史謝上表」(韓文三九)という長文の報告書を都へ送る。《潮州刺史謝上表》 韓愈(韓退之) <933> 
臣某言:臣以狂妄?愚,不識禮度,
上表陳佛骨事,言?不敬,
正名定罪,萬死猶輕。
陛下哀臣愚忠,恕臣狂直,
謂臣言雖可罪,心亦無他,
特屈刑章,以臣為潮州刺史。
既免刑誅,又獲祿食,
聖恩宏大,天地莫量,
破腦刳心,豈足為謝!
臣某誠惶誠恐,頓首頓首
(潮州刺史【しし】謝【しゃ】上表【じょうひょう】)#1
臣の某は言う:臣 狂妄【きょうぼう】?愚【とうぐ】,不識禮度をらざるを以てす。,
上表して佛骨の事を陳べ,言 不敬【ふけい】に?る,
名を正し罪を定めば,萬死も猶お輕し。
陛下 臣が愚忠を哀み,臣が狂直を恕す。
謂【おもえ】らく臣の言 罪とす可しと雖も,心は亦た他無しと。
特に刑章を屈し,臣を以て潮州の刺史と為す。
既に刑誅を免れ,又 祿食を獲たり。
聖恩 宏大にして,天地 量る莫れ。
腦を破り刳心を【さ】くとも,豈に謝を為すに足らんや!
臣某 誠惶し誠恐せる,頓首とし頓首とす。

 こういう書き出しで始まるこの上奏文は、次に潮州の民に天子の恩徳を告げ、悦服せしめた旨を報告したのち、哀訴の調子に変る。この土地は偏鄙な上に気候も悪く、多病の上に精神的打撃を受けている自分には、生存もおぼつかない。といっても、朝廷内の党派に属せぬ自分には昧方もなく、陛下が哀れみを垂れてくださらぬ限り、助かる道はないのだ。「臣は性を受くること愚階にして、人事に通ぜざる所多し。惟酷く学問文章を好み、未だ官て一日も暫く廃せす。実に時輩に推許せらるる所と為れり」。つまり、ほかに取りえはない自分だが、学問と文学には努力を積み、世間からも認められているというのである。
 その学問と文学とをもって、自分は陛下に仕えたい。「陛下の功徳を論述し」、さらに詩を作ってたたえたならば、陛下の偉業は天地の間に広まり、後世に残るであろう。それが自分のつとめである。「古人をして復た生まれしむると雖も、臣亦肯て多くは譲らじ」。しかも今、陛下は天宝の乱の後をうけ、唐の天下を中興する大業を成しとげられた。これは詩に作って祖宗に告げ、神々にも知らせるべきことである。この「千載一時、逢ふ可からざるの嘉会」に、自分は罪人として南海の一隅にいる。死んでも死にきれぬ思いである。どうかこの窮状を救っていただきたい。

 この上奏文にも、これまでの詩にも共通する点は、披がこのたびの事件を完全に自分の罪と認めていることである。むろん彼は自己の文学にやはり絶大の自信を持っているし、仏骨を論じたことも「弊事」を除くためなので、それ自体が誤りとは考えていない。しかし、従前の披ならば、だから自分にはいささかの罪もなく、処罰した方が誤りなので、自分は殉難者だという態度をとったであろう。それが今度は見られない。あるものといえば自分の失敗に対する後悔であり、「滝吏」のロを借りて語られる自責であり、上奏文に見られる恭順の意であった。

 それは彼の老年が招いた気の弱さであったかもしれないし、この窮地から一刻も早く脱出しようとする焦噪感のためであったかもしれぬ。だが、最も大きな原因は、今度の処罰が皇帝の意志によるものであった点にあろう。彼に対するこれまでの何回かの処罰は、形式上は勅命によるものであっても、実際は宰相など上官の機嫌を損じたのが原因となっていた。今度は違う。彼はほんとうに皇帝を怒らせてしまったのである。それは彼にとって、致命的な打撃であった。
 ここでもう一度、当時の進士というものの地位を考えてみたい。進士の制度、すなわち門地門閥を問わす、選抜試験によって有能の士を朝廷に採用することは、さきに述べたとおり、門閥貴族に対抗する于段の一つとして唐帝室が選んだものであった。だから進士は皇帝の名によって選抜され、皇帝から直接に地位と名誉を与えられる代償として、皇帝に対する絶対の忠誠を要求されるのである。門閥貴族の場合は、これとは立場が異なる。彼らは世襲的に朝廷の高官となる既得権を持っており、それは王朝とか皇帝とかにかかわらない。彼らにとって、この既得権を承認さえするならば、皇帝は誰であってもかまわないのである。

 一つの王朝が倒れたとき、甚だしい場合には一人の皇帝が死んだときにすら、進士はその地位を奪われる。恥を忍んで二君に仕えぬ限り、失業者となってしまう。だが門閥貴族には、私有する広大な荘園があった。彼らの生活は常に保証されているのである。その経済力が無視できないために、新しい主権者は必す彼らに握手を求めて来る。すでに宋・斉・梁・陳・隋・唐と、門閥貴族は(その間にも勢力の消長はあったが)交替する王朝を送り迎えて、その地位を保ち続けたのであった。

 もちろん個々の事情は、それほど単純ではない。門閥貴族が没落することもあったし、進士の中にも、皇帝と運命をともにするよりは別の実力者、すなわち貴族・節度使・宦官などと結託して、地位の保全をはかる者があった。しかし愈は、帝室の要求する意味においての真の進士を念願としてきたのである。それは当時の風潮からすれば珍しいことであり、処世のためには拙劣な方法でもあったろう。皇帝の権力は、ほとんど有名無実のものとなりかけていたからである。だがそのゆえに、皇帝の権力を再び唐初のごとき絶大なものにもどそうと志す憲宗にとって、愈は得がたい臣下のはすであった。

 憲宗と愈とのその結びつきが、仏骨の事件を境として完全に崩壊したのである。愈にとっては、彼の立つ政治的基盤が崩れ落ちたにひとしい。経済的にも危機に陥ったのは、言うまでもないことである。こうなっては、自分の主張か正しく、それを認めない皇帝の方が誤りだなどと、すましこんではいられない。彼が哀訴嘆願してひたすら憲宗の哀れみを乞うたのも、当然のことといえよう。

 憲宗の方でもまた、この忠実な男を追放してしまったことを、怒りの鎮まるとともに後悔し始めたようである。「潮州剌史謝上表」が手もとにとどいた時、憲宗はそれを宰相たちに示しながら言った。韓愈が朕の身のためを思って諌言してくれた誠意は、よくわかっている。だが、天子が仏教を信するようになってから寿命が縮まったとは、やはり臣下の口にすべきことではない。

 憲宗の吐は、愈を赦免しようと決まっていたのである。ただ、一度追放した者をすぐに赦すとは、皇帝の口からは言いにくい。そこで宰相たちに話しかけ、気をひいてみたのであろう。ところが宰相の一人に、皇甫縛という人物があった。平素から愈とは仲か悪かった男である。これが憲宗の吐を見ぬいたので、真先に口を切った。愈を赦免するのはよろしいが、あのようなわがまま者を都ヘ呼び帰すのは、いかがかと思われる。潮州よりは都に近い土地の地方官に転任させるのがよろしかろう。

 皇甫鋳にそう先乎を打たれて、ほかの宰相は口の出しようがなくなったと見える。結局は鋳の思いどおりに運んだ。この年の七月には群臣が憲宗に「元和聖文神武法天応道皇帝」の尊号を献じたのを機に、大赦令が出されているから、愈もその適用を受けたに違いない。そして十月には、袁州(江西)の剌史に任ずる旨の辞令が出た。それを受けた意は、ただちに旅装をととのえ、七か月の間生活した潮州をあとに、北へと出発した。


(819)
1.琴操十首:將歸操【案:孔子之趙,聞殺鳴犢作。(趙殺鳴犢,孔子臨河,歎而作歌曰:「秋之水兮風揚波,舟楫顛倒更相加,歸來歸來胡為斯?」)】
2.琴操十首:猗蘭操【案:孔子傷不逢時作。(〈古琴操〉云:「習習谷風,以陰以雨。之子于歸,遠送于野。何彼蒼天,不得其所。逍遙九州,無有定處。世人闇蔽,不知賢者。年紀逝邁,一身將老。」)】
3.琴操十首:龜山操【案:孔子以季桓子受齊女樂,諫不從,望龜山而作。(龜山在太山博縣。〈古琴操〉云:「予欲望魯兮,龜山蔽之,手無斧柯,奈龜山何?」】
4.琴操十首:越裳操【案:周公作。(〈古琴操〉云:「於戲嗟嗟,非旦之力,乃文王之コ。」)】
5.琴操十首:拘幽操【案:文王?里作。(〈古琴操〉云:「殷道溷溷,浸濁煩兮。朱紫相合,不別分兮。迷亂聲色,信讒言兮。炎炎之虐,使我愆兮。幽閉牢?,由其言兮。遘我四人,憂勤勤兮。」)】
6.琴操十首:岐山操【案:周公為太王作。(本詞云:「狄戎侵兮土地遷移,邦邑適於岐山。烝民不憂兮誰者知,嗟嗟奈何兮,予命遭斯。」)】
7.琴操十首:履霜操【案:尹吉甫子伯奇無罪,為後母譖而見逐,自傷作。(本詞云:「朝履霜兮採晨寒,考不明其心兮信讒言。孤恩別離兮摧肺肝,何辜皇天兮遭斯愆。痛歿不同兮恩有偏,誰能流顧兮知我冤。)】
8.琴操十首:雉朝飛操【案:牧犢子七十無妻【沐?子七十無妻】,見雉雙飛,感之而作。(本詞云:「雉朝飛兮鳴相和,雌雄群遊兮山之阿。我獨何命兮未有家,時將暮兮可奈何,嗟嗟暮兮可奈何。」)】
9.琴操十首:別鵠操【案:商陵穆子,娶妻五年無子,父母欲其改娶,其妻聞之,中夜悲嘯,穆子感之而作。(本詞云:「將乖比翼隔天端,山川悠遠路漫漫,攬衾不寐食忘?。)】
10.琴操十首:殘形操【案:曾子夢見一貍,不見其首作。】
11.
12.華山女
13.路傍?【案:元和十四年出為潮州作。】
14.食曲河驛【案:驛在商ケ間。】【案:元和十四年出為潮州作。】
15.過南陽【案:元和十四年出為潮州作。】
16.瀧吏【案:元和十四年出為潮州作。】
17.贈別元十八協律,六首之一【案:元十八集?,見《白樂天集》。桂林伯,桂管觀察使裴行立也。】
18.贈別元十八協律,六首之二【案:元十八集?,見《白樂天集》。桂林伯,桂管觀察使裴行立也。】
19.贈別元十八協律,六首之三【案:元十八集?,見《白樂天集》。桂林伯,桂管觀察使裴行立也。】
20.贈別元十八協律,六首之四【案:元十八集?,見《白樂天集》。桂林伯,桂管觀察使裴行立也。】
21.贈別元十八協律,六首之五【案:元十八集?,見《白樂天集》。桂林伯,桂管觀察使裴行立也。】
22.贈別元十八協律,六首之六【案:元十八集?,見《白樂天集》。桂林伯,桂管觀察使裴行立也。】
23.初南食貽元十八協律
24.宿曾江口示姪孫湘,二首之一【案:湘,字北渚,老成之子,愈兄?之孫。此赴潮州作也。】
25.宿曾江口示姪孫湘,二首之二【案:湘,字北渚,老成之子,愈兄?之孫。此赴潮州作也。】
26.答柳柳州食蝦蟆
27.別趙子【案:趙子名コ,潮州人。愈刺潮,コ攝海陽尉,督州學生徒,愈移袁州,欲與?,不可,詩以別之。】
28.題楚昭王廟【案:襄州宜城縣驛東北有井,傳是王井,井東北數十?,有昭王廟。】
29.元日酬蔡州馬十二尚書去年蔡州元日見寄之什
30.左遷至藍關示姪孫湘【案:湘,愈姪十二郎之子,登長慶三年進士第。】
31.武關西逢配流吐蕃【案:謫潮州時途中作。】
32.次ケ州界
33.題臨瀧寺
34.?次宣溪辱韶州張端公使君惠書敘別酬以?句二章,二首之一【?次宣溪,二首之一】
35.?次宣溪辱韶州張端公使君惠書敘別酬以?句二章,二首之二【?次宣溪,二首之二】
36.過始興江口感懷【案:大?十四年,起居舍人韓會以罪貶韶刺史,愈隨會而遷,時年十?。至是貶潮州,道過始興,有感而作。】
37.從潮州量移袁州,張韶州端公以詩相賀,因酬之【案:時憲宗元和十四年十月。】








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