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六朝文化と詩人





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トピックス  六朝文化【りくちょうぶんか】   222年 - 589年

建安の武骨者は、竹林の七賢であるが、この7人は一緒に清談をしたのではないことは周知のことと思う。建安の思想的背景は道教にあると考えている。道教と老荘思想と関係ないという学説もあるが、儒教国学から嫌気を老荘思想に映っていく時代背景に戦国時代があり、道教に老荘思想が取り込まれ、また変化している。



六朝(りくちょう)は、中国史上で建康(建業)に都をおいた、三国時代の呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳の総称。

呉の滅亡(280年)から東晋の成立(317年)までの時代を含め、この時代(222年 - 589年)を六朝時代(りくちょうじだい)とも呼び、この時期の文化を特に六朝文化(りくちょうぶんか)と称することもある。



中国で,3世紀初頭から6世紀末におよぶ時代の文化をいう。政治史では後漢の滅亡(220年)から隋による統一(589年)までの分裂時代を魏晋南北朝時代というが,この時期を文化史では六朝時代(文化)と呼びならわす。六朝とは呉(222年―280年)に始まる,東晋(晋を参照)・宋・斉・梁・陳の6王朝をいうが,いずれも長江下流の建業(建康,現在の南京)を首都とした。この時代の華北は五胡十六国や北朝諸王朝が北方や西北方の異民族政権であったのに対し,漢人の6王朝が興亡した江南では,漢代以来の中国の伝統が温存されており,華北から戦乱を嫌って移住してきた貴族・豪族も含めて貴族社会が形成され,貴族が皇帝権力をも左右していた。加えて,江南の温和な気候・風土を背景に,優雅・華麗にして中国的貴族文化が開花した。文学では陶潜や謝霊運がおり,散文では対句を駆使する四六駢儷体(しろくべんれいたい)(駢文)が盛行し,これらの諸作品は梁の昭明太子が編纂(へんさん)した《文選(もんぜん)》に集められた。絵画の顧【がい】之(こがいし),書の王羲之(おうぎし)・王献之父子が有名。宗教では来世救済を説く仏教が盛んとなり,西域から僧侶が北朝に来中して仏典の翻訳に努める一方,中国からは法顕(ほっけん)がインドを訪れた。また,春秋戦国時代の老荘思想に後漢末以来の現世利益を求める民間信仰が加味された道教が成立し,北魏の寇謙之(こうけんし)によって初めて教団化された(442年)。一方,儒教では仏教や老荘思想の影響もあって,世俗を超越して論議にふける清談の風潮がうまれた(竹林の七賢など)。仏教の盛行にともなって仏寺・仏像が盛んにつくられ,敦煌莫高窟・雲岡石窟・竜門石窟などの石仏・仏画はインドのガンダーラ様式・グプタ様式やヘレニズム様式をいきいきと伝えている。このように,六朝文化は江南の貴族文化を中心にするとはいえ,華北における北方民族の質実剛健な気風も中国に受け入れられたので(例えば書における北朝独特の鋭利な筆法など),南北を併せて,秦漢時代と隋唐時代の中間に位置する一つの独自な文化世界を築いたといえ,特に宗教・思想史上では,春秋戦国時代に次ぐ躍動期を迎えたといってよい。

六朝時代は、中国における宗教の時代であり、六朝文化はこの時代に興隆した宗教を基に花開いた。一方では、後漢代に盛行した神秘的傾向の濃厚な讖緯の説・陰陽五行説の流れの延長上に位置づけられる。また、後漢末より三国に始まる動乱と社会の激変に伴う精神文化の動揺が、従来の儒教的な聖人を超越した原理を求める力となったものと考えられる。


儒教・老荘
儒教では、魏の王弼が、五行説や讖緯説を排した立場で、経書に対する注を撰した。それと同時に、老荘思想の影響を受けた解釈を『易経』に施したことで、その後の晋および南朝に受け入れられることとなった。その一方で、北朝では、後漢代の鄭玄の解釈が踏襲され、経学の南北差を生じさせるに至った。

魏晋の貴族社会は、清談が尊重された時代であり、王弼や何晏が無為の思想に基づいた清談を行い、それが「正始の音」として持て囃された。次いで、竹林の七賢が、思想的・文学的な実践によって、それを更に推進した。その後、郭象が老荘の思想(玄学)を大成した。

仏教・道教
仏教の伝来は、後漢代のこととされる。但し、伝来当初は、外来の宗教として受容され、なかなか浸透しなかった。六朝代になると、後漢以来の神秘的傾向が維持され、老荘思想が盛行し、清談が仏教教理をも取り込む形で受け入れられたことから、深く漢民族の間にも受容されるに至った。そこで重要な役割を果たしたのは、仏図澄、釈道安であり、道安は鳩摩羅什の長安への招致を進言し、その仏教は門弟子である廬山の慧遠の教団に継承された。慧遠は「沙門不敬王者論」を著して、覇者の桓玄に対抗した。

道教は、後漢代の五斗米道に始まる。その教団が三国の魏によって制圧されると、一時、その系統は表には現われなくなるが、4世紀初頭に、葛洪が現われ、『抱朴子』を著わして不老不死を説く道教の教理体系を整備した。この時代の道教信徒として知られるのは、書聖の王羲之である。その系統は、南朝梁の時代の陶弘景に受け継がれ、茅山派(上清派)道教の教団が形成された。一方、北朝では、寇謙之の新天師道が開創され、やはりその制度面での整備が、仏教教理も吸収する形で行なわれた。







六朝楷書(りくちょうかいしょ)は、中国の南北朝時代、北朝で発達した独自の楷書体の総称。現在の楷書の起源となった書体の一つであり、書道では楷書の書風の一つとしてとらえられている。現代中国では魏楷、北魏楷とも称する。

なお、「六朝」とは本来南朝側に立った時代呼称であるが、書道を含む芸術の分野ではこの時代を「六朝時代」と呼ぶことが多いため、この呼称が使われている。


書風
一般的な楷書体によく似るが、その書風は洗練されたものではなく、荒削りな部分が多い素朴・雄渾なものである。中には龍門二十品など、楷書体に似ても似つかない書風のものも少なくない。

さらに決まった筆法が存在せず、10個書蹟があれば10通りの書き方が存在するというくらい多彩である。これを分類すると、大きく分けて次の二種類になる。

方筆
起筆や転折(おれ)を角張らせて力強く線を引き、石をごつごつと刻むように書く筆法。六朝楷書の主流である。張猛龍碑のように自然な勢いに任せて大胆に書くものと、高貞碑のように骨太ながら正方形の辞界に収まるように緊密な書き方をするものとがある。
円筆
起筆や転折を丸め、全体的に柔らかい筆致で書く筆法。六朝楷書の一部に見られ、鄭文公碑を筆頭とする鄭道昭の書蹟に代表される書法である。南朝の筆法の影響を指摘する向きもある。
また字体に目立った統一が行われなかったため、異体字が極めて多いのが特徴である。その数はこれだけで一つの字典が出来るほどで、現に清の羅振玉は六朝楷書の異体字のみを集めた『碑別字』という字典を上梓している。

歴史と展開
時代背景
南北朝時代の項も参照のこと

316年に内乱のため著しく国力低下した西晋が、北方異民族に追われて南に逃げ東晋となったことにより、実質的に中国は南北に分断されることになった。西晋の故地にあたる北側では「五胡十六国」と呼ばれる異民族王朝が覇権をめぐって勃興し、南側では東晋が前秦に猛攻をかけられたり、重臣に内乱を起こされたりと不安定な状態ながらも、失地回復を狙っていた。

しかし420年、南側の東晋は努力虚しく禅譲を迫られ、宋が成立。さらに439年に北側で北魏が並みいる他王朝を征し北の覇者となったことによって南北の決裂は決定的なものとなり、本格的に南北朝時代が始まる。北朝と南朝は表向きは末期の頃を除くと大きな衝突を起こすことはなかったが、片や漢民族の土地を乗っ取った異民族、片やその異民族に追われて都落ちした漢民族という立場関係は反目をもたらすに充分で、両者は冷戦にも似た関係にあった。

このため文化的・芸術的な交流もそれほど盛んではなく、書道もある程度まで南北に分かれた状態で発展することになったのである。

発生と淵源
北朝を作った北方異民族は元はモンゴル周辺を本拠とする遊牧民族であって定住する習慣がなく、また漢民族とはまったく異なる統治システムを持っていた。しかし漢民族の故地を手に入れ漢民族的王朝を作り上げたことにより、そのシステムを変更する必要性に迫られた。

そこで彼らがとったのが、漢民族の制度や文化を吸収する漢化政策であった。幸い北朝の領域内には西晋の遺民が取り残されており、彼らが漢民族文化の伝道者となることでその目的が達成されることになった。当然のごとく、漢民族の文字である漢字も彼らによって北朝側に伝えられることになった。

六朝楷書の淵源はこの遺民が伝えた西晋の書蹟にあると見られている。西晋の書は基本こそ隷書であるが、末期の頃は本来横長の隷書が正方形になるなどやや楷書寄りとも取れる書風となっている。南朝では芸術的観点から行書・草書が優先され、そこから楷書に発展するが、北朝では漢字の受容を優先し、これをそのまま発展させて彼らなりの色づけをして六朝楷書としたと見られる。

北魏での隆盛
北朝を統一した北魏は、五胡十六国の頃から漢化政策に積極的な王朝であった。統一後もその路線を取り続け、なかんずく第6代皇帝の孝文帝は平城から漢民族王朝伝統の首都・洛陽に遷都し、姓名や官職名、習俗や言語に至るまで徹底した漢化を進めた。また漢化と人心統一の二つの効果を狙って漢民族の宗教である仏教に深く帰依し、多くの寺院や仏像を建立した。

これに後押しされる形で、六朝楷書が爆発的な発展を遂げることになった。特に書風は漢化政策の影響で、当時既に楷書が一書体として確立していた南朝の書にある程度まで学び、それを彼らなりに消化したことにより、西晋代のスタイルを引きずっていた状態から脱皮して独自の個性が確立されるようになる。

このような書蹟は、紙にあまりなじみのなかった北朝では写経を除いて紙に書かれることは少なく、碑や磨崖、造像記や墓碑などの金石文の形で残され、後世に「北碑」と呼ばれる巨大な書蹟群を造り上げることになった。

この時期、5世紀末から6世紀初頭までの期間が六朝楷書の最盛期であった。

東魏・西魏以降の変容
しかし534年に北魏が帝位争いにより東魏と西魏に分裂し、さらに550年に東魏が北斉へ、556年に西魏が北周へそれぞれ交替する頃になると、六朝楷書を取り巻く状況に変化が生じる。西魏で554年に王羲之・王献之、いわゆる「二王」の法帖が戦利品として持ち込まれるなど、南朝の書蹟である「南帖」やそれに類する書蹟が流入し始め、強い影響を与え始めたのである。

これによって北朝の書家の中には「二王」を手本として六朝楷書をかなり南朝寄りに変容させた書風を確立し、後世の隋や唐の楷書にも似た書蹟をものする者も現れた。従来型の六朝楷書も多くものされている中に混じっての出現ではあったが、この積極的な南朝書法の摂取は、後の南北合一の先駆をなすものであったと言ってよい。

発展的消滅
ここにとどめを刺したのが、581年に北周皇室の外戚であった楊堅が禅譲を受けて隋を建て、中国統一に乗り出したことである。8年後の589年に南朝の陳は隋の猛攻の前にあっさりと滅亡し、中国は約270年ぶりに統一されることになった。

この統一により南北を隔てていた政治的な壁は一気に取り払われ、南北の文化交流が雪崩をうって開始された。以前から垢抜けない自分たちの文化に劣等感を持ち、南朝の文化に憧れていた北朝側の人々はこれを好機と南朝側に急接近し、南北の文化は発展的に融合して行くことになった。特に第2代皇帝・煬帝は南北を貫流する運河を造営しており、この頃までには南北の文化は完全に融合していたと考えられている。

その中で、楷書も融合の対象となった。六朝楷書と同時期、南側でも隷書の走り書きにより成立した行書が整えられて発生した原初的な楷書が、南朝につながる東晋の王羲之や王献之によって行書とともに書道の一書体として定着し、既にその時点で一つの書体として完成されていたからである。

両者は発生経路(南朝=隷書→行書→楷書、北朝=隷書→楷書)も発達経路(南朝=書道の書体として発達、北朝=漢字受容のうちに自然発達)も異なり、それぞれ単独の存在ではあったが、その書風の近似性は融合を招くだけの親和性を充分に持っていた。さらに上記の通り隋以前より南朝の書法は北朝側にある程度知れており、最末期には大きな影響を与えるほどであったため、南北統一により一気に両者の融合が進み、六朝楷書は筆法や書法など技巧面で融合して発展的に消滅することになったのであった。

しかしそのように楷書成立の片棒を担いだ存在でありながら、六朝楷書の過去の書蹟はあくまで「異民族王朝の書蹟」扱いされてこれ以降注目されることがなくなり、忘れられたまま長い眠りにつくことになる。

再評価
六朝楷書がその眠りを覚まされたのは、実に1200年以上も後の清代のことである。康熙帝の時代に儒学の一環として始まった考証学は、考古学や文字学の分野にも進出し、書道にも大きな影響を与えつつあった。

そんな時、18世紀中頃から「北碑」の出土や発見が相次ぐようになる。考証学者たちはこれまで無視されてきた異民族の書蹟のレベルの高さと独特の書風に驚嘆し、多くの学者が研究に身を投じることになった。

なかんずく阮元は「北碑」と「南帖」として北朝・南朝の書蹟を比較して「南北書派論」「北碑南帖論」を唱え、北朝・南朝での書道の発展はまったく別個であり、模刻の連続で誤りが累積した南帖よりも、石に彫られて原形がある程度まで残っている北碑の方が価値があると断じ、これにより北碑の書体である六朝楷書にも折り紙が与えられることになった。さらに包世臣がこれを絶賛、清末の康有為も南北単独発展の説は否定したものの、北碑の優秀性は認めてとどめをさし、六朝楷書の書としての立場は確固たるものとなった。現在では書道や書体研究、特に楷書の学書・研究において、六朝楷書は不可欠の存在とされるまでになっている。

日本での受容
古代における伝来
日本での六朝楷書の受容は、中国側では隋末から唐代初頭に当たる飛鳥時代から奈良時代のごく初期、一部で北碑のような実際の書蹟を経ない間接的な形で行われていたと考えられている。

事実、大化2年(646年)の「宇治橋断碑」、「日本三大古碑」として有名な文武天皇4年(700年)の「那須国造碑」、和銅4年(711年)の「多胡碑」などは、六朝楷書に極めて近い雄渾な楷書の碑である。特に「多胡碑」は鄭道昭とよく似た円筆の書である。また推古天皇23年(615年)筆の「法華義疏」も行書ではあるが、六朝楷書の意が入っているといわれる。

このように六朝楷書の影響が見られるのは、大陸文化の伝達経路が長いこと朝鮮半島経由であったことが大きく関わっている。流入して来たのは直接的には百済の書法であったが、朝鮮半島は中国大陸の北側に接続しており、直接的に北朝との接触があったため、その文化は自然と北朝寄りとなっていた。つまり朝鮮半島を通じて、六朝楷書の書法が間接的に伝わったのである。

一方、この時代には遣隋使や遣唐使により大陸との直接的な文化交流も開始され、南朝の伝統を受け継いだ唐代の書法も流入していた。そのためこの時期においては、六朝楷書と唐の書法=北朝系と南朝系両方の書法が並立していたと考えられている。

しかしこのような南北並立状態は、遣唐使が回数を重ねて唐の文化が移入され、日本文化が唐風に傾くうち、次第に南朝系の唐代書道の方が優勢となって自然消滅してしまった。かくして日本での六朝楷書の系譜は一旦途絶えることになる。

近代の再伝来
その後も中国本土で無視されていたこともあって六朝楷書は忘れられたままであったが、最初の伝来から1300年近くが経った明治13年(1880年)、清国公使に随行して来日した考証学者・楊守敬が、日本に流出した文献類を買収するための資金調達用として北碑の拓本を持参したことで再伝来することになった。

これを見る機会に恵まれた日下部鳴鶴・中林梧竹・巌谷一六は大きな衝撃を受け、これを元に新たな書法を試み始めた。彼らの六朝楷書に対する評価や入れ込み方には根強い異論や反論もあり、「奇怪な書を書く妙な書家」などと陰口をたたかれることもあったが、結果的に彼らの活動は日本の書道界に新風を吹き込み、後世に大きな影響を与えることとなった。

現在では臨書のみならず六朝楷書の筆法を用いた書も多く制作され、また楷書の学書においてもかなりの割合で一度は接することがあるというほどになじみの深い存在となっている。













唐王朝の栄枯盛衰 初唐  盛唐  中唐  晩唐  五代十国  宋・北宋 南宋

金・元  明  清  近代  



(晉、しん、265年 -420年)は、中国の王朝の一つ。司馬炎が魏最後の元帝から禅譲を受けて建国した。280年に呉を滅ぼして三国時代を終焉させる。通常は、匈奴(前趙)に華北を奪われ一旦滅亡し、南遷した317年以前を西晋、以後を東晋と呼び分けているが、西晋、東晋もとも単に、晋、晋朝を称していた。東晋時代の華北は五胡十六国時代とも称される。首都は洛陽、西晋末期に長安に遷った後、南遷後の首都は建業。宋により滅ぼされた。

 西暦301年に始まった帝位継承紛争「八王の乱」によって西晋王朝が崩壊し始めたのを契機に、当時、中国の内外に多数居住していた異民族が華北に侵入した。彼らは略奪を行って引き上げるという遊牧民的な行動の代わりに中華領域内に定住して数多くの国を建国した。国の数がおおよそ十六であり、この時代を担った異民族が五族(匈奴、鮮卑、羯、羌、)であったことからこの名がある。


265〜420
西晋 265年 - 316年
東晋 316〜420
五胡十六国
 一般に、439年、北魏が北涼を滅ぼして華北を統一した時点でこの時代は終わり、南北朝時代に移るとされる。おおまかにいって、華北主要部では、東部と西部に確立した二つの王朝が対立する構図が、王朝が交代しながら続いた。現在の甘粛省付近では、いずれも「涼」と自称する五つの王朝が興亡した。江南はほぼ一貫して西晋王朝の衣鉢を継ぐ東晋王朝が存続した。こうした大勢力の間でいくつかの小国が勃興し滅亡していった。
ID 詩人名  / 事項 よみかな 作品名
68 孫楚  (不詳 - 293年)          (そんそ )
中国・魏および西晋の政治家、武将。字は子荊。男性。本籍は太原郡中都県。祖父は孫資、父は孫宏。子に孫衆、洵(恂とも)、纂。孫に孫盛(洵の子)、孫綽(纂の子)など。若くから卓越した才能があったが、自分の能力を誇るところがあり、周囲の評判はよくなかった。名門の王済と親しく、王済は大中正(九品官人法に基づき官職を決める)に孫楚の人物評を求められると「天才にして知識が広く、群を抜いて優れています」と推薦している。40歳を過ぎてようやく魏に仕え、鎮東参軍事となる。司馬昭の命で呉への使者となった。その後も西晋で石苞の参軍として対呉の最前線にあったが、孫楚は石苞を見下していたので、両者は対立し、石苞は呉の計略もあって謀反の疑いで後方へ召還された。その後、旧知の扶風王司馬駿の参軍となった。
恵帝の初年に馮翊太守となり、293年(元康3年)死去した。
 
69 張華  (232年- 300年)                   (ちょうか)
張華(ちょうか、)は、三国時代から西晋の政治家。魏、晋に仕えた。字は茂先。范陽方城(今河北省固安県)の人。晋書に伝がある。妻は劉放の娘 壯士篇(天地相震蕩)
70 張協  (?〜307?)                       (ちょうきょう)
 安平郡武邑の出身。字は景陽。夙に俊才として知られ、兄の張載・弟の張亢とは“三張”と並称され、詩名は陸機・潘岳と並称された。秘書郎・中書侍郎を経て河間内史まで進んだが、権臣とは親しまず、八王の乱を避けて隠棲し、叙任を拒んで在野のまま天寿を全うした。
 西晋を代表する詩人として、『詩品』では阮籍・左思・陸機・潘岳と共に上品に位し、その評には「王粲の風あり。潘岳より雄にして左思より靡」とある。『苦雨』が代表作とされる。
 
71 潘岳 (247年- 300年)                   (はんがく) 
西晋時代の文人。字は安仁。中牟(河南省)の人。陸機と並んで西晋時代を代表する文人。また友人の夏侯湛と「連璧」と称されるほど、類稀な美貌の持ち主としても知られている。『世説新語』によると、潘岳が弾き弓を持って洛陽の道を歩くと、彼に出会った女性はみな手を取り合って彼を取り囲み、彼が車に乗って出かけると、女性達が果物を投げ入れ、帰る頃には車いっぱいになっていたという。
潘岳の作る文章は修辞を凝らした繊細かつ美しいもので、特に死を悼む哀傷の詩文を得意とした。愛妻の死を嘆く名作「悼亡」詩は以降の詩人に大きな影響を与えた。
 
74 左思  (250頃〜305頃)  さし
中国西晋の文学者。臨(りんし)(山東省)の人。字(あざな)は太沖(たいちゅう)。構想10年で書きあげた「三都賦」の人気が洛陽の紙価を高めた故事で知られる。詩では詠史詩にすぐれる。 詠史詩
75 陸機 (261年- 303年)                   (りく き) 
永安4年(261年)-太安2年(303年))は、呉・西晋の文学者・政治家・武将。字は士衡。呉の四姓(朱・張・顧・陸)の一つ、陸氏の出身で、祖父・父は三国志演義の登場人物としても有名な陸遜・陸抗。本籍は呉郡呉(今の江蘇省蘇州市)。ただし家は呉の都であった建業(現在の江蘇省南京市)の南や、祖父の封地であった華亭(雲間とも。現在の上海市松江区)等にあったようである。七尺もの身の丈を持ち、その声は鐘のように響きわたったという。儒学の教養を身につけ、礼に外れることは行なわなかった。同じく著名な弟の陸雲と合わせて「二陸」とも呼ばれる。文弱で親しみやすい弟に比して、陸機は郷党から畏れられていたが、洛陽に出て西晋に仕えてからは、兄弟ともに呉出身の人士のリーダー的存在であった。西晋のみならず、六朝時代を代表する文学者の一人であり、同時代に活躍した潘岳と共に、「潘陸」と並び称されている。特に「文賦(文の賦)」は、中国文学理論の代表的著作として名高い。また書家としては、彼の「平復帖」(北京故宮博物院所蔵)が現存する最古の有名書家による真跡とされる。  
76 陸雲  (262年- 303年)             (りく うん)
陸雲(りく うん、262年-303年)は、呉・西晋時代の中国の政治家・文学者である。字は士龍。祖父・父がそれぞれ呉の重臣陸遜・陸抗で、陸機の弟である。兄機と共に「ニ陸」と称されるほどの西晋時代きっての文学者であった。6歳で文を能くし生涯に著した文章は349編に及んだという。16歳で呉に出官するも3年後に呉が晋に降服すると、兄と共に郷里に蟄居してしまう。以後10年間は学問に励む生活を送ったのち、兄陸機と共に上洛、晋に出仕する。
温和な性格で、出身地の呉方言をからかわれその度にいきまく負けん気な陸機をなだめている。晋皇族の司馬晏の郎中令、尚書郎、侍御史、太子中舎人、中書侍郎、清河内史などを歴任した。その後八王の乱に巻き込まれ、陸機共々成都王・司馬穎に殺された。
 
77 潘尼  (約250〜約311)                   (はんに)
 字は正叔。潘岳の弟。太康年間(280〜289)に秀才に挙げられ、太子舎人・尚書郎・著作郎などを歴任した。趙王の簒奪で致仕帰郷したが、斉王が挙兵するとその参軍となり、乱後に安昌公とされた。後に中書令まで進んだが、八王の乱の中ではまったくの無力であり、永嘉の洛陽陥落で郷里に逃げる途中に病死した。潘尼(約250〜約311),西晉文學家。字正叔。?陽中牟(今屬河南)人。潘岳?。少有才,與潘岳?以文章知名。性格恬淡,不喜交遊,專心著述。太康年間,舉秀才。?任尚書郎、著作郎、中書令。永嘉年間任太常卿。洛陽被劉聰攻破之前,潘尼攜家還?,中途病卒。《隋書·經籍志》載有“晉太常卿《潘尼集》十卷”,今不存。明人張溥輯有《潘太常集》1卷,見《漢魏六朝百三家集》。  


唐王朝の栄枯盛衰 初唐  盛唐  中唐  晩唐  五代十国  宋・北宋 南宋

金・元  明  清  近代  


4.五胡十六国

(晉、しん、265年 -420年)は、中国の王朝の一つ。司馬炎が魏最後の元帝から禅譲を受けて建国した。280年に呉を滅ぼして三国時代を終焉させる。通常は、匈奴(前趙)に華北を奪われ一旦滅亡し、南遷した317年以前を西晋、以後を東晋と呼び分けているが、西晋、東晋もとも単に、晋、晋朝を称していた。東晋時代の華北は五胡十六国時代とも称される。首都は洛陽、西晋末期に長安に遷った後、南遷後の首都は建業。宋により滅ぼされた。

 西暦301年に始まった帝位継承紛争「八王の乱」によって西晋王朝が崩壊し始めたのを契機に、当時、中国の内外に多数居住していた異民族が華北に侵入した。彼らは略奪を行って引き上げるという遊牧民的な行動の代わりに中華領域内に定住して数多くの国を建国した。国の数がおおよそ十六であり、この時代を担った異民族が五族(匈奴、鮮卑、羯、羌、)であったことからこの名がある。


265〜420
西晋 265年 - 316年
東晋 316〜420
五胡十六国
 一般に、439年、北魏が北涼を滅ぼして華北を統一した時点でこの時代は終わり、南北朝時代に移るとされる。おおまかにいって、華北主要部では、東部と西部に確立した二つの王朝が対立する構図が、王朝が交代しながら続いた。現在の甘粛省付近では、いずれも「涼」と自称する五つの王朝が興亡した。江南はほぼ一貫して西晋王朝の衣鉢を継ぐ東晋王朝が存続した。こうした大勢力の間でいくつかの小国が勃興し滅亡していった。



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ID 詩人名 (生歿)  / 事項 よみかな 作品名
78 元帝 (東晋)276年 〜322年 (げんてい) 別詩(別罷花枝不共攀) 
元帝は、東晋の初代皇帝。河内郡温県の人。魏の司馬懿の曾孫に当たる。祖父は瑯邪武王司馬?、父は瑯邪恭王司馬覲。生母は夏侯光姫(魏の夏侯淵の曾孫)。弟に東安王司馬渾がいる。
79 王羲之  303年 - 361年 おうぎし
東晋の政治家・書家。字は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれる。本籍は琅邪郡臨沂(現在の山東省)。魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の出身である。行書・楷書・草書において古今に冠絶、その子王献之と共に二王と呼ばれる。「蘭亭序」「楽毅論」「十七帖」などの作がある。 「蘭亭序」(353)「楽毅論」「十七帖」
80 陶淵明(陶潜) 365〜427 とうえんめい
六朝時代の東晋の詩人。江西の人。名は潜。淵明は字(あざな)。一説に名は淵明、字は元亮(げんりょう)。官職に就いたが、束縛を嫌い、彭沢(ほうたく)県の県令を最後に「帰去来辞(ききょらいのじ)」を作って官を辞し、故郷へ戻った。自然を愛する田園生活を送り、すぐれた詩を残した。詩では「飲酒」、文では「桃花源記」が有名。五柳先生。 「飲酒」  「桃花源記」  五柳先生。
51.責子 陶淵明
81 僧肇   (374/384―414) (そうじょう)
魏晋時代,東晋の僧。鳩摩羅什の門下で〈解空(げくう)第一〉と称され,竜樹の空の思想を仏教の基礎としようとした。著書《肇論》4巻は魏晋仏教の代表的著作。  《肇論》4巻


唐王朝の栄枯盛衰 初唐  盛唐  中唐  晩唐  五代十国  宋・北宋 南宋

金・元  明  清  近代  



南北朝時代 439〜589
 中国史における南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。

三国時代
西晉
東晉 十六国
南北朝(439〜589)
北魏
西魏
東魏
北周
北斉




隋(ずい、581年 -618年)
唐(とう、618年 -907年)


この時期、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。同じく建康(建業)に都をおいた三国時代の呉、東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、この時代を六朝時代とも呼ぶ。この時期、江南の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。

 また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国時代の戦乱を収め、北方遊牧民の部族制を解体し、貴族制に基づく中国的国家に脱皮しつつあった。北魏は六鎮の乱を経て、534年に東魏、西魏に分裂した。東魏は550年に西魏は556年にそれぞれ北斉、北周に取って代わられた。577年、北周は北斉を滅ぼして再び華北を統一する。その後、581年に隋の楊堅が北周の譲りを受けて帝位についた。589年、隋は南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一した。普通は北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝を北朝と呼ぶが、これに隋を加える説もある。李延寿の『北史』が隋を北朝に列しているためである。

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唐王朝の栄枯盛衰 初唐  盛唐  中唐  晩唐  五代十国  宋・北宋 南宋

金・元  明  清  近代  



ID 詩人名 (生歿) / 事項 よみかな 作品名
91 謝霊運     385〜433 しゃれいうん
南朝の宋の詩人。陽夏(河南省)の人。永嘉太守・侍中などを歴任。のち、反逆を疑われ、広州で処刑された。江南の自然美を精緻(せいち)な表現によって山水詩にうたった。 東陽谿中贈答
92 顔 延之   384年- 456年 (がん えんし)
中国南北朝時代、宋の文学者。字は延年。本籍地は琅邪郡臨沂県(現在の山東省臨沂市)。宋の文帝や孝武帝の宮廷文人として活躍し、謝霊運・鮑照らと「元嘉三大家」に総称される。また謝霊運と併称され「顔謝」とも呼ばれる。
93 鮑照    412頃-466 ほうしょう
六朝時代、宋の詩人。字(あざな)は明遠。元嘉年間の三大詩人の一人として謝霊運・顔延之と併称された。擬行路難, 代出自薊北門行
玉臺新詠 巻四

4.雜詩九首其一   翫月城西門廨中


5.雜詩九首其二   代京?篇


6.雜詩九首其三   擬樂府白頭吟


7.雜詩九首其四   採桑詩


8.雜詩九首其五    夢還詩


9.雜詩九首其六   擬古


10.雜詩九首其七   詠双燕


11.雜詩九首其八(一)   贈故人馬子喬  二首  寒灰?更然


12.雜詩九首其八(二)   贈故人馬子喬  二首  双劒將?離

竟陵八友:南斉の皇族、竟陵王蕭子良の西邸に集った文人 (@蕭衍・A沈約・B謝眺・C王融・D蕭沈・E范雲・F任ム・G陸游)
95 鮑令暉    生卒年不詳。 ほうれいこん
南朝宋女詩人。東海(現在山東?城)の人。鮑照の妹。鮑令暉も詩人として知られる。 略歴いわゆる寒門の貧しい家柄に生まれる。元嘉 ( 南朝宋)ごろに臨川王劉義慶に認められて国侍郎、太学博士、中書舎人となる。荊州刺史の臨海王劉子?のもとで前軍参軍の職につく。劉子?の反乱で乱戦のうちに殺害された 鍾エ《詩品》??是南齊人,但從鮑照的《請假?》中講到僅有的一個妹妹死去等語看來,?似乎在宋孝武帝時就已去世。 其詩見於《玉台新詠》。今人錢仲聯《鮑參軍集注》附有鮑令暉詩。 
玉臺新詠 巻四  雜詩六首 

18 巻四-18 雜詩六首其一 1.  擬青青河畔草


19 巻四-19 雜詩六首其二 2.  擬客從遠方來


20 巻四-20 雜詩六首其三 3.  題書後寄行人


21 巻四-21 雜詩六首其四 4.  古意贈今人


21 巻四-21 雜詩六首其五 5.1.  代葛沙門妻郭小玉詩二首(明月何皎皎)


22 巻四-22           5.2.  代葛沙門妻郭小玉詩二首(君子將遙役)

96 F任 ム     460年- 508年 (じん ぼう)
中国南北朝時代の文学者。字は彦昇。小字は阿堆。楽安博昌(現山東省寿光市)の人。南斉の竟陵王蕭子良のもとに集まった文人「竟陵八友」の1人。散文の分野で高く評価され、南斉・梁の時代に多くの表奏を手がけた。同じ八友の1人で、詩にすぐれた沈約に対し、「任筆沈詩」と称される。 『述異記』『文章縁起』(偽作説もあり)。
97 A沈約      441年- 513年 (しんやく)
南朝を代表する文学者、政治家。呉興武康(現在の浙江省武康県)の人。字は休文。沈氏は元来軍事で頭角を現した江南の豪族であるが、沈約自身は幼いときに父を孝武帝に殺されたこともあり、学問に精励し学識を蓄え、宋・斉・梁の3朝に仕えた。南斉の竟陵王蕭子良の招きに応じ、その文学サロンで重きをなし、「竟陵八友」の一人に数えられた。その後蕭衍(後の梁の武帝)の挙兵に協力し、梁が建てられると尚書令に任ぜられ、建昌県侯に封ぜられた。晩年は武帝の不興をこうむり、憂愁のうちに死去したという。 二十一史・宋書
玉臺新詠巻五-7   登高望春
玉臺新詠巻五-8   昭君辭
玉臺新詠巻五-9   少年新婚爲之詠
玉臺新詠巻五-10   携手曲
玉臺新詠巻五-11   有所思
玉臺新詠巻五-12   夜夜曲
玉臺新詠巻五-13   詠春
玉臺新詠巻五-14   詠桃
玉臺新詠巻五-15   詠月
玉臺新詠巻五-16   詠?
(次の四首 三言五言の雜言体)
玉臺新詠巻五-17六憶詩四首其一 憶來時
玉臺新詠巻五-18 六憶詩四首其二 憶坐時
玉臺新詠巻五-19 六憶詩四首其三 憶食時
玉臺新詠巻五-20 六憶詩四首其四 憶眠時
玉臺新詠巻五-21   領邊?
玉臺新詠巻五-22   脚下履
玉臺新詠巻五-23   擬河邊草
玉臺新詠巻五-24   擬三婦
玉臺新詠巻五-25   古意
玉臺新詠巻五-26   夢見美人
玉臺新詠巻五-27   効古
玉臺新詠巻五-28   初春
玉臺新詠巻五-29   悼往
98 C王融      467年- 493年 おうゆう
南北朝時代、南斉の政治家・文学者。字は元長。琅邪臨沂(現山東省臨沂市)の人。六朝時代を代表する名門貴族、琅邪王氏の出身。名門の出身に加えて文才にも優れ、南斉の皇族、竟陵王蕭子良の西邸に集った文人「竟陵八友」の1人に数えられ、同じく八友の仲間である沈約・謝?らとともに「永明体」と呼ばれる詩風を生み出した。 三月三日曲水詩序
99 蘇小小       未詳 そしょうしょう
錢唐蘇小:南斉(南齊)時代の銭塘の名妓。才色兼備の誉れが高かった。銭塘の蘇小小。 ・銭唐:現・浙江省杭州市。「銭塘」のこと。唐代に「唐」字を避けて「錢唐」を「銭塘」とした。 歌一首
100 孔稚珪       447〜501 こうちけい
 会稽郡山陰の出身。字は徳璋。学問・詩文に優れ、蕭道成に文才を認められて起室参軍とされ、永明年間に王植の『晋律』改修にも参与した。廷尉、御史中丞と進み、493年の鬱林王即位に際して王融を告発して自殺させ、明帝より南郡太守とされ、東昏侯のときに太子・事・散騎常侍に至った。 
101 刑邵        496〜561 (けいしょう)
北朝斉文学家。字は子才。河?□(今の河北任丘北)人。 思公子(綺羅日減帶)
102     488年- 567年 (こくりつきん)
中国の東魏・北斉の軍人。騎射を得意とし、用兵は匈奴の法を学び、塵を見て敵軍の数を知り、地を嗅いで敵軍の遠近を知ったと言われる。 ?勒歌 五噫歌
103 鍾エ          469〜518 (しょうえい)
字は仲偉。潁川郡長社の人。斉の永明年間に国子生となる。秀才に挙げられ、王国侍郎に任ぜられた。のち安国令となった。梁に入って、晋安王・蕭綱の記室をつとめた。漢魏以来の五言詩の優劣を論じ、『詩評』にまとめた。 『詩品』
104 @蕭衍   梁武帝   464〜502〜549 (しょうえん)
南朝梁の初代皇帝。蕭衍(しょうえん)南蘭陵(江蘇省)の蕭氏の一門であり、南斉宗室の支族に当たる。父の順之は南斉の高帝蕭道成の族弟であり、丹陽の尹であった。若い頃より文武両面において注目され、南斉時代で文化の中心であった竟陵王蕭子良の西邸にも出入りし、沈約らと共に八友の一人に数えられた。 河中之水歌   遊女曲(氛?蘭麝體芳滑)   子夜歌(朝日照綺錢)
105 E范雲      451年- 503 はんうん
南朝の梁を代表する文人。字は彦龍。451年(元嘉8年)、南郷舞陽(現在の河南省沁陽)で生まれる。斉及び梁に仕え、竟陵王蕭子良八友のひとりに数えられ、蕭衍を沈約と共に助けた。永明10年(492年)、蕭?と共に北魏に派遣された際には孝文帝の称賞を受けている。梁では尚書左僕射(502年からは尚書右僕射)に任じられ、その清麗な風格の詩風は当時から高い評価を受けた。503年(天監2年)没。 別詩  「贈張徐州稷」    「古意贈王中書」
106 何遜       未詳〜518 (かそん)
何 遜(か そん、467年? -518年?)は中国南北朝時代の文学者。東海?の人。字は仲言。曾祖父は何承天。幼少より文才に優れ、8歳で詩を作り、20歳の時、州から秀才に選ばれた。南斉の永明年間に、当時の文壇の重鎮であった范雲に文才を認められ、年齢を超えた交際を結ぶ。現存する詩は110首あまり。生涯の大半を地方の幕僚として勤めたことから、友人や同僚たちとの間の応酬・離別の詩や行旅を主題とする詩が多くを占める。その詩風は、寒門の出身者であるが故の、官途の不遇から発せられた心情表現がしばしば見られることが特徴である。その一方で、詩中における自然描写は、精巧であるとともに、豊かな抒情性をたたえており、謝?とならび、唐詩の先駆とみなされている。
107 王籍         502〜519 おうせき
南梁(502〜557)(おうせき 502〜519) 南北朝時代・梁の詩人。五言詩「入若耶溪」中の「蝉噪林逾静 鳥鳴山更幽」対句はあまりに有名です。 入若耶渓
108 G陸垂 (りくすい) 


109 D蕭鎮 (しょうちん)


110 萸信            513年-581年 (ゆしん)
中国南北朝時代の文学者。字は子山。南陽郡新野の人。?肩吾の子。南朝の梁に生まれ、前半生は皇太子蕭綱(後の簡文帝)配下の文人として活躍した。侯景の乱後の後半生は、やむなく北朝の北周に身を置くことになり、代表作「哀江南賦」をはじめ、江南を追慕する哀切な内容の作品を残した。 寄王琳 
秋夜望単飛雁
111 王褒          513〜576  (おうほう)
琅邪郡臨沂の出身。字は子淵。梁の武帝に仕えて清官を歴任し、蕭子雲に草書・隷書を学んで師と共に令名があり、顧野王とも二絶と併称され、元帝が即位すると 吏部尚書・右僕射に進んだ。
112 徐 陵           507年- 583年 (じょりょう)
中国南北朝時代、梁・陳の文学者・政治家。字は孝穆。本籍地は東海郡?県(現山東省)。梁では父親の徐?、?肩吾・?信父子とともに、皇太子蕭綱(後の簡文帝)配下の文人として活躍し、「徐?体」という艶麗な詩風を確立した。侯景の乱の混乱により、一時期北朝の東魏・北斉に抑留されたが、後に江南に帰り、陳でも文壇の大御所的存在として「一代の文宗」と称えられた。詩集『玉台新詠』は、皇太子蕭綱の命により徐陵が編纂したとされ、その序文は六朝時代の駢文の傑作として名高い。 『玉台新詠』序文































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