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  韓愈の生涯  

1-5 衣食の道




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1-5 衣食の道
愈のように、進士の科の受験資格を得た者を、「進士」と呼ぶ。また、進士の科にめでたく合格した者も、やはり「進士」と呼ばれる。後世の科拳制では、この。両者に別々の名称をつけて区別したが、唐代には、まだ区別がなかった。したがって、受験者も(そして落第者も)合格者も同じ名で呼ばれることになり、混乱の生するおそれがある。そこで、まだ合格していない者は、区別のため 「郷貢の進士」と称するのが通例であった。長安における愈は、まず「郷貢の進士」としての生活を送ったわけである。
 ただし、「郷貢の進士」とは肩書きだけのものであり、べつに俸給や乎当か支給されるわけではない。長安に身寄りのある人なら、そこに寄食して受験勉強に専念できようし、家が裕福な人なら、仕送りもしてもらえよう。げんに、余裕のありすきるほどの生活費をもらって上京した郷貢の進士か、つい長安の色街に誘いこまれ、女に入れあげて丸裸にされる経緯を、唐代小説の傑作の一つである「李娃伝」が、精細に描写している。
 愈が「私の家は貧乏で」と言ったのは、そのような受験生と比較してのことであり、宜州でつましい生活を送る限りは、飢え死にすることもなかったであろう。しかし、長安に出た披が生計に窮したことには、嘘はない。十分な生活費を彼に与えるほど、宜州の家に余裕はなかったであろうし、父にも兄にも早く死に別れた彼には、長安の町に頼るべき人もなかった。
 ここで、科挙制度に関する当時の通念について、一言しておく必要があろう。科挙が競争試験であることは言うまでもなく、その競争を公平にするために、さまざまの配慮もなされていた。ただ、競争試験というものについての観念か、現代の日本のわれわれの、たとえば大学の入学試験に対する観念とは、かなり違っていたのである。
 根本は、一回のペーパーテストで、はたして確実に英才が選抜できるかという、当然の疑問から出発する。科挙制ではそれを、試験の方法を考えることによって解決しようとはせずに、試験官の良識にまとうとした。進士の科について言えば、試験課目は経義(経書に対する知識及び理解を問うもの)・詩賦(詩及び賦を作らせる)・策論(政治・経済などにっいての論文を書かせる)の三つであったが、いずれにしても採点者の主観的な判断によって評価が決定される方式である。
 したがって試験は、もちろん受験生の能力を評価するものであったが、同時に、試験官の判断力も評価されるものと考えられた。たとえば、ある年の科挙に、誰が見ても優秀で合格確実と下馬評の高い受験生がいたとする。しかし、試験である以上、どれほど優秀でも必ず合格とは保証できないのが当然であって、かりに運悪く、その受験生が落第したとしよう。この場合、本人が失望するのはもちろんのことだが、周囲の人々は、落第したのは彼の学力や才能が乏しかったためとは、必ずしも考えない。むしろ、採点にあたった試験官に眼識がなくて、むざむざ有為の士を落第させたと考えることの方が多いのである。逆に、そのような受験生が優秀な成績で合格したときには、本人の名誉はもちろんであるが、試験官もまた、人を見る眼があった、人材を得たと言って賞讃される・完全に主観的な方法によるテストなので、テストされるのは受験生の能力だけでなく、試験官の主観でもあった。
 試験官は一回の科挙ごとに任命されるが、礼部の役人を中心とし、その推薦による若干名の採点委貝が加わるのを原則とする。彼らにとっては、科挙は彼らの能力が試される場でもあるわけで、大げさに言えば、将来の出世に響くことも考えられた。そこで、彼らはその年の受験生の中にどのような優秀な人物がいるか、事前に情報を得ようとする。先入観念を持ちながら採点しては不公平になるとは考えないのであって、予備知識もなしに採点し、まぐれ当りによくできた答案を首席合格と判定したのでは、あとで自分たちの恥となるのである。
 ただ、情報を得るといっても、試験官自身が受験生たちの中へ入って行くことは’できない。主要な情報源は、都に住む高位高官の人々である。科拳を目ざして上京した受験生たちは、通常、郷党の先輩である高位高官の人の星敷を訪れ、あいさつをする。高官の方でも、その受験生が合格し、官界に入れば、自分の派閥の数が増すわけだから、冷たくは扱わない。それらの高官たちが朝廷に集まれば、自然、今回の科挙の受験生たちの下馬評も出ようというものである。
 しかし、万事は、きれいごとばかりではすまないのが世の習いである。受験生としては(よほど自信のある人物は別だが)、まぐれ当りでもよいから合格したいと願うのが当然であって、試験官が情報を得ようとするのは、受験生の側から見れば自分を売りこむ絶好の機会となる。そこで、郷党の先輩の高官にあいさつをするだけではなく、さまざまの縁故をたどり、紹介状をもらって、高官たちの屋敷を歴訪した。高官の一人でも、あれは優秀な男だと、自分の名を試験官に吹きこんでくれれば所期の目的は達成されるわけだし、高官の三人も四人もか、口をそろえて自分を推薦してくれたら、なお強力な援護となるはすであった。
 高官の方でも、前に述べたとおり、自分の派閥を増大させる機会でもあるし、それに当時の官界は年功序列制ではないため、いまの受験生か、ことによると将来は自分の上官にならないとも限らないのだから、おろそかには扱わない。非常に優秀な受験生で、大物になる素質があると判断すれば、試験官やその他の高官たちに吹聴してまわるのはもちろんだが、自分の家に住め、生活の世話はしてやるから、受験勉強に専念しろと、親切に言ってくれる。つまり、その受験生は高官の家の居侯となり、そこから試験場へ出かけるわけで、これが最も恵まれた場合であった。
 しかし、それを狙って訪れる受験生の数かあまりに多いと、高官の方でも応待がめんどうになる。また、いくら派閥を大きくしたいからといっても、それほど能力もない受験生を推薦したのでは、自分の名に傷がつく。あの人が吹聴した受験生は、合格の後、全部有能な若手官僚になったと言われるほどでなければ、高官としても顔が立たないことになるし、その推薦も効果か乏しくなるわけで、受験生の全部によい顔をすればすむというものでもない。
 そこで、いつのころからかはわからないか、高官と受験生との間に、一つの慣習が成立した。すなわち、よほど有力な人の紹介状でも持たない限り、高官はすぐには受験生に会ってくれない。受験生の方も心得ていて、あらかじめ自分が作った詩文のうちで自信のある作を一巻に仕立て、持って行く。そして、玄関払いは予期しているので、おひまのおりにお読みいただきたいと、その一巻を置いて帰る。詩文を読めば、およその人がらや才能はわかるという通念にもとづくのである。高官の方でも、ひまな時にそれを読んで、これは優秀だと判定すれば、あらためてその受験生を屋敷に招く。会って話をし、ほんとうに優秀と見きわめれば、うちの一室を提供するから引越しておいでとか、または、ときどき屋敷へ遊びに来いとか、声をかけるのである。
 ところが、一巻を置いて帰ったのに、なかなかお呼びがかからないこともある。これは、高官が一巻を読み、この受験生はだめだと見捨てたか、それとも御用繁多などの理由で、まだ読んでいないかの、どちらかであろう。受験生の心理として‐は、もちろん前者とは考えたくない。そこで、適当な期間をおき、別の詩文を一巻に仕立てて、もう一度持参する。これを「温巻」という。二度も持って行けば、先方でも熱意に感じて、忙がしくても読んでくれるだろうというのが趣旨であるか、実際にはたいがいの受験生が同じことをするわけで、高官の家には詩文の巻物の山ができたであろうから、どれほどの効果があったかは疑わしい。
 さて、愈の場合にもどろう。彼が十分な生活費も持たすに上京したらしいことは、前に述べた。しかも、高官の星敷を訪問する手づるさえ持たなかった。いきなり高官の屋敷へ押しかけて、一巻を置いて来てもかまわないわけだが、紹介状の有無はやはり影響するので、熱心に「温巻」をしてまわっても、声をかけてもらえないのが道理である。これでは合格がおぼつかないどころか、その日の生活にも窮することとなる。愈よりも四歳年下の白居易(楽天)がやはり科挙のために初めて上京した時、当時著名な詩人の顧況をたずねたところ、長安という所は物価が高いので、「居ることが易く」はないぞ、とからかわれた。同じ事情が意にもあったはずで、長安の物価高は、地方から出て来た彼には予想以上のものだったかもしれない。

 そこで、愈が生きるためにとった方法は、後年の彼がみすから《昌黎先生集/卷33-5殿中少監馬君墓誌》書き残している。
殿中少監馬君墓誌
君諱繼祖,司徒贈太師北平莊武王之孫,少府監贈太子少傅諱暢之子。
生四?,以門功拜太子舍人。積三十四年,五轉而至殿中少監,年三
十七以卒。有男八人,女二人。
始余初冠,應進士貢在京師,窮不自存,以故人稚弟拜北平王於馬前,
王問而憐之,因得見於安邑里第。王軫其寒饑,賜食與衣。召二子使
為之主,其季遇我特厚,少府監贈太子少傅者也。姆抱幼子立側,眉
眼如畫,髮漆K,肌肉玉雪可念,殿中君也。當是時,見王於北亭,
猶高山深林巨谷,龍虎變化不測,傑魁人也。退見少傅,翠竹碧梧,
鸞鵠停峙,能守其業者也。幼子娟好靜秀,瑤環瑜珥,蘭淘エ芽,稱
其家兒也。後四五年,吾成進士,去而東遊,哭北平王於客舍。後十
五六年,吾為尚書都官郎,分司東都,而分府少傅卒,哭之。又十餘
年,至今,哭少監焉。嗚呼!吾未耋老,自始至今,未四十年,而哭
其祖子孫三世,於人世何如也!人欲久不死,而觀居此世者,何也?
 ……
始め、余初めて冠せしとき、進士に応じて貢せられて京師に在り。窮して自ら存せす。
故人の稚弟を以て、北平王を馬前に拝したり。王問うてこれを憐れみ、因りて安邑里の第に見
ゆるを得。王、其の寒飢を転て、食と衣とを賜ひ、二子を召してこれが主為らしむ。
 ……

 つまり、進士の科に応ずるため、推薦状をもらって都へ出たはよいが、貧乏のため生活して行けなかった。そこで北平王の行列の前に立って、あなたの旧友の末弟でございます、お助けを願いますと直訴に及んだのである。
 北平王とは、粛宗・代宗・徳宗の三代に仕えて名将とうたわれた馬燧のことである。その勲功のゆえに北平王に封ぜられ、この時は宰相の地位にあり、副元帥を兼ねていた。中し分のない大官である。その旧友の末弟と自称したところから見ると、馬燧と韓会の開に友人関係があったのかと思うのが自然だが、それを証拠立てる資料はない。馬燧は武将であり、韓会は純粋な文官なので、つきあいがあったとすれば、何か特別の機縁がなければならず、特別のことならどこかに記録か残っていてもよさそうなのに、一つも残っていない。
 そこで、愈が称した「故人」とは、韓弁のこととする説が有力である。亦は前に記した雲卿の次男で、には従兄にあたる。貞元二年(すなわち愈が圭尽した年である)、馬燧は西北から侵入した吐蕃族の征討に出陣し、敵に欺かれて和親条約を結んだ。翌年、吐蕃へ派遣された和親の使節団は、案に相違して吐蕃族の奇襲を受け、全滅に近い損害を受けた。韓弁も使節のこ貝として戦死したといわれる。
 そこで、愈が馬燧を「馬前に拝した」のは、披が上京した翌年の貞元三年、馬燧が吐蕃と和親を約して都に帰った後と見るのが穏当であろう。いくら長安の物価が高くとも、愈もある程度の生活費は持って上京したに相違ないので、上京した年にすぐさま生活に窮したとすれば、あまりにも見通しがなさすぎる。翌年ならば、ます無理がないともいえよう。そして貞元三年には和親の使節団が出発するので、人選には馬燧もタ″チしたはずであり、韓非とのつきあいがあったとしても、おかしくはない。しかも、その使節団が仝滅した後とすれば、韓弁には気の毒だが、愈にとってはよいタイミングとなったはずで、韓弁の戦死について馬燧は負い目を惑じなければならぬ立場にあるから、その縁者を冷たく扱うことはできなかったであろう。
 韓非の従弟にあたる愈が「稚弟」と自称したのは、当時の通念では、ふしぎでない。会・非・愈たちは、どれほど年齢の差があろうと、韓氏一族の中では同世代に属するわけで、大家族制のもとでは、厳密に区別を立てればもちろん兄弟と従兄弟の相違はあるが、対外的に漠然と言うときは、「兄弟」と称してもさしつかえはない。だが、それにしても奔と愈とは、従兄弟の関係にあるというだけで、たぶんほとんど話をしたこともなかったであろう。その弁をひきあいに出して「稚弟」と称するのは、愈にしても多少面映ゆい点かあったのではないかと思われるが、困窮の際、他人の思惑などにはかかずらわっていられなかったことであろう。
  「馬前に拝した」のは非常乎段であって、本来ならば屋敷を訪問すべきである。あるいは、愈はすでに馬燧の屋敷を訪れていたのかもしれない。しかし、貧書生か紹介状も持たすに行ったのでは、体よく玄関払いを食うのが落ちである。だから直訴に及んだわけで、一つまちがえば行列を乱す不届者と縛り上げられる可能性もあったのだが、結果的にはこれが成功した。馬燧は愈を憐れに思い、路上では話もできかねるからと、試耐里(長安城内の東隅近くにあった町)の屋敷へ来させ、あらためて愈と対面した。
 馬燧は一目見て、愈の困窮を察し、衣食を支給してくれた。ただ、北平王ともあろう人が、一介の貧書生に細かい点まで世話をするのは、ふさわしくない。家来に命じて、よろしく面倒を見てやるようにと声をかけるべきところを、馬燧は二人の息子を呼び出して言いつけた。「故人の稚弟」とはいっても、無名の青年に対して、これは格別の待遇と見てよかろう。
 ただ、馬燧の頭には、また別の配慮が働いたのかもしれない。彼はもともと武将の出身であり、文官優位の原則が徹底していた当時では、武将は学問・文学などと関係のないのが通例であった。だから馬の家は、たぶん学問とは縁が薄かったと思われるが、馬燧としては、二人の息子を文官にしたいと考えていた(この希望は達成されて、次男の方は少府監の職につき、死後、太子少傅を追贈された)。しかし、べつに学校もない時代なので、家庭教師を雇い、息子たちに学問を授ける必要がある。
 二人の息子は、たぶん愈よりも年長だったと思われる。愈の追憶によれば、彼が馬の家で面倒を見てもらっていた時期、次男の方はすでに二人の子持ちで、その下の方か乳母に抱かれていたという(その赤ん坊が、意が墓誌を書いた殿中少監馬君で、三十七歳で若死にした)。もちろん北平王の家ともなれば、然るべき学者を家庭教師に招くこともできたはすで、二人の息子はかなり学問をしていたと考えてよいが、個人教授の方式には限界かあるし、馬の家が前に述べたとおり、そもそも学問と縁の薄い空気を持っている。馬燧に愈の学問が正しく評価できたとも思えないが、郷貢の進士である以上、地方長官からは成績優秀の析紙づきで上京して来たはすである。このような青年を息子たちの学友としておくことは、決して無意味ではない。
 こうして、長安における意の衣食の道は立った。ただし、それが科拳に有利な道でもあったとはいえない。何度もくりかえすが、馬燧は武将であり、そのような人が試験官に愈を推薦してくれたとしても、効果は薄かった。もっと地位は低くても、学問・文学にかけていちおうは「目のある」文官の推薦の方が、強い影響力を持ったはすである。



《昌黎先生集/卷2-25烽火》
烽火
登高望烽火,誰謂塞塵飛。
王城富且樂,曷不事光輝。
勿言日已暮,相見恐行稀。
願君熟念此,秉燭夜中歸。
我歌寧自感,乃獨?霑衣。
(烽火)
重陽の節句で高い山に登って遠く故郷を臨んだ時、烽火が紅く見えた。無論遠い国境での事だろうが、その塞の戦塵がここまで飛んでくるのだろうかと誰が言うのだろう。
ここはむかし、王城があったところで、豪富を極め、且つ、歓楽で満ちていたところなのだ。どうして、自分の力で出来るだけ栄華を極め、光華なことをできるものではないだろう。
ところで、日がくれれば帰らねばならないから、暮れたなどとは言わぬ方がいいが、朝になれば、互いに酒を酌み交わして楽しむことできないかもしれない。
願わくば、君はこの事を考えてみてくれ、夜になっても構わない、燭をとって夜中になってかえればよいから、ここでは、ともし火を掲げて、飲み尽くし、遊びをつくすべきなのだ。
私がこうして歌っても、考えてみればここでどんなに楽しんでみても、兵乱がいつ起こるかもしれないし、このまま科挙に及第しないかもしれない。そう考えれば、自然感慨を免れず、涙は溢れて衣を濡らしていくのだ。
(烽火)
登高 烽火を望み,誰か謂う 塞塵飛ぶ。
王城 富み且つ樂み,曷【なん】ぞ 光輝を事せざる。
言う勿れ 日已に暮ると,相見る 恐らくは行く稀れならん。
願わくば君 熟【つらつ】ら 此を念い,燭を秉って夜中に歸れ。
我が歌 寧ろ自ら感ずるならんや,乃ち 獨り ? 衣を霑す。






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漢文委員会  紀 頌之