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時代概略


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時代概略


時代の概略; 漢詩理解のための時代の解説


1. 紀元前
元謀 藍田 北京原人 
神話伝説
 (三皇五帝) 
黄河 長江文明
 
夏   前2205〜前1766
殷   前1020〜前770
西周  前1020〜前770
東周 前770〜(前221)
春秋 前770〜(前403)

戦国 前403〜前221
秦  前221〜前206

前漢 紀元前206年 - 8年

■東周    前770〜(前221)
周12代幽王の時代、申から迎えていた皇后を廃し別の皇后たてたため、申は犬戎を伴い王都へと攻め込んだ。幽王は殺され、太子は西の携王と争って打ち勝ち、東の洛邑(王城・成周)(現在の河南省洛陽市付近)へ移った。ここからは東周と呼ばれ、時代区分では春秋時代に移行した。

  呉越の戦い

春秋時代 前770〜(前403)
紀元前770年、周の幽王が犬戎に殺され洛邑(成周)へ都を移してから、晋が三国(韓、魏、趙)に分裂した紀元前403年までである。

 孔子  孟子 


戦国時代 前403〜前221
中国史において、紀元前770年に周が都を洛邑(成周)へ移してから、紀元前221年に秦が中国を統一するまでの時代である。東周時代(とうしゅうじだい)と称されることもある。紀元前403年に晋が韓・魏・趙の三国に分裂する前を春秋時代、それ以降を戦国時代と分けることが多い。

;屈原  宋玉  伯夷  荊軻  西施

楚辞 九歌 屈原
   

秦      前221〜前206
周代、春秋時代、戦国時代に渡って存在し、紀元前221年に中国を統一し、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間(紀元前221年 -紀元前206年)を秦代と呼ぶ。国姓は?(えい)。統一時の首都は咸陽。         万里の長城増築 



鴻門の会: 咸陽占領に関して項羽と劉邦の咸陽城外講和会議。懐王はかって咸陽を陥落させた者を関中王とすると宣していた。咸陽を開城させた劉邦は項羽の接近に対して関門を閉じた。交戦直前、張良・項伯の周旋で鴻門での和睦となる。途中、項羽の軍師の范増は劉邦暗殺を謀ったが、項伯・樊?・張良の機転で果たせず、散会後に項羽を「豎子、ともに図るに足りず」と罵り、これが後の項羽と范増の不和の最初になった。



 皇帝 万里の長城増築   項籍(項羽)  虞美人





2.前漢から三国時代

詩経・楚辞・古詩について 作者とその詩
■前漢   前202〜 8
秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられた。長安を都とした。7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡、その後漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。

 王昭君  高祖(劉邦)  枚乘  東方朔   漢-武帝(劉徹)  劉細君  
李陵  蘇武 
        漢の無名氏「西門行」

■新     8〜 23
前漢の外戚であった王莽が前漢最後の皇太子の孺子嬰より禅譲を受けて立てた。成帝の時、王莽は新都侯(新都は荊州南陽郡に在る)に封じられたことにより国号を新とした。

 卓文君  楊雄  班彪


■後漢   25〜220
漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢と紛らわしいので、現在では東漢と言うことが多くなってきた(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。

 李延年  張角  蔡邑  趙壹  禰衡  関羽  班u、  梁鴻 

 黄巾の乱

三国時代  184〜229
黄巾の乱の蜂起(184年)から西晋による中国再統一(280年)までを指す。229年までに魏(初代皇帝:曹丕)、蜀(蜀漢)(初代皇帝:劉備)、呉(初代皇帝:孫権)が成立。 三県鼎立
■魏     220年 - 265年)
中国の三国時代に華北を支配した王朝。首都は洛陽。曹氏の王朝であることから曹魏、あるいは北魏に対して前魏とも(この場合は北魏を後魏と呼ぶ)いう。45年間しか続かなかった王朝だが、魏・蜀・呉の戦国史を描いた三国志(『三国志』『三国志演義』など)などで伝わり、日本でも魏は卑弥呼を記述した「魏志倭人伝」で知られている。
■呉    222年 - 280年)
三国時代に孫権が長江流域に建てた王朝。姓は孫(そん)氏で、首都は建業(現在の南京付近)。孫呉、東呉とも呼ばれる。222年というのは、それまで魏に対して称臣していた孫権が黄武と言う新しい元号を使い始め、魏からの独立を宣言した年である
■蜀     221年 - 263年
中国の三国時代に劉備が巴蜀の地(益州)に建てた国。蜀は魏、呉と共に三国時代を形成した一国である。巴蜀(現在の四川省・湖北省一帯)を領土とし、成都を都に定めた。実際には魏の文帝曹丕が後漢を滅ぼして即位した時に、漢の正統を継ぐものとしたため漢が正式な国号である。

武帝曹操  文帝曹丕  曹植  繁欽  蔡炎  繆襲  応擧  孫楚  阮籍  けい康  山濤  劉伶  阮咸  向秀  王戎 
 
 230頃 竹林の七賢
 





3.晋、東晋、五胡十六国、南北朝から隋の中国統一

晋     265年 - 420年
司馬炎が魏最後の元帝から禅譲を受けて建国。280年に呉を滅ぼして三国時代を終焉させる。通常は、匈奴(前趙)に華北を奪われ一旦滅亡し、南遷した317年以前を西晋、以後を東晋と呼び分けているが、西晋、東晋もとも単に、晋朝を称していた。東晋時代の華北は五胡十六国時代とも称される。

張華  張協  潘岳  左思  陸機  陸雲  潘尼


■東晋   317年 - 420年
中国の西晋王朝が劉淵の漢(前趙)より滅ぼされた後に、西晋の皇族であった司馬睿によって江南に建てられた王朝である。西晋に対し史書では東晋と呼んで区別する。

五胡十六国時代 304年の漢(前趙)の興起から439年の北魏による華北の統一までを指す。五胡十六国は、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。なお十六国とは北魏末期の史官崔鴻が私撰した『十六国春秋』にもとづくものであり、実際の国数は16国を超える。後漢末期から北方遊牧民族の華北移住が進んでいたが、西晋の八王の乱において諸侯がその軍事力を利用したために力をつけ、永嘉の乱として爆発させた。



 元帝(東晋)  王羲之  陶淵明(陶潜)  僧肇 


南北朝  420589
宋420年の建国から589年隋による統一までの時代
(420〜479)南北朝時代の南朝の王朝。周代の諸侯国の宋や趙匡胤が建てた宋などと区別するために、帝室の姓から劉宋とも呼ばれる。
(479〜502)南北朝時代に江南に存在した国。南朝の一つ。北朝の北斉や春秋戦国時代の斉などと区別するために南斉(なんせい)あるいは蕭斉(しょうせい)とも呼ばれる。
(502〜557)南北朝時代に江南に存在した王朝。
陳(557〜589)南北朝時代に江南に存在した国。南朝の最後の王朝。
■北魏  386〜535
この時期、江南の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。
西魏(535〜556)北朝の国の一つ。函谷関の西側で関中を中心とした版図を持つ国の呼び名。本来の国号はみな魏である。それぞれが魏(北魏)の正統を自認していた。
東魏(534〜550)北朝の国の一つ。函谷関の東側で中原を中心とした版図を持つ国の呼び名。「北魏」「東魏」「西魏」は、いずれも後代の史家が便宜上そう呼びはじめたもので、本来の国号はみな魏である。
北周(556〜581)鮮卑の宇文氏によって建てられた国。国号は単に周であるが、紀元前11世紀の周と区別するために北周と呼ぶ。
北斉(550〜577)高氏によって建てられた国。国号は単に斉であるが、春秋戦国時代や南朝の斉などと区別するために北斉・高斉と呼ぶ。

 謝霊運  顔延之(  鮑照  謝兆   蘇小小  鮑令暉  孔稚珪  任ム  刑邵  沈約(  斛律金  王融  鍾エ  蕭衍梁武帝  何遜  范雲  王籍  陸垂  蕭陳
 


■隋    581〜618
文帝は、均田制・租庸調制・府兵制などを進め、中央集権化を目指した。また同時に九品中正法を廃止し、試験によって実力を測る科挙を採用した。しかし、後継の煬帝は、江南・華北を結ぶ大運河を建設したり、度重なる遠征を行ったために、民衆の負担が増大した。このため農民反乱が起き、618年に隋は滅亡した。


 楊素  薛道衡  観徳王・楊雄 





4.唐  - 初唐、盛唐、中唐、晩唐

■唐    618〜907   唐宋時代と詩人
  李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。日本は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見で停止されるまで、積極的に交流を続けた。なお、690年に武則天により唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述されることが通例である
 唐の歴史は300年にわたり、非常に長く、また唐代の間の社会変動も大きい。一般に、唐の歴史を初唐、盛唐、中唐、晩唐の4期に細分して通観する。

初唐 618年〜712までの約100年。 初唐の詩人たち


 前代の六朝時代の余風を受け、繊細で華麗な詩風を身上とする修辞主義的な詩風が主流である。宮廷の詩壇における皇帝との唱和詩がこの時期の中心的作品となっている。代表的詩人には「初唐の四傑」と呼ばれる、@王勃・A楊炯・B盧照鄰・C駱賓王のほか、近体詩の型式を完成させた武則天期の沈?期・宋之問などがいる。さらにこうした六朝の遺風を批判し、詩歌の復古を提唱して次代の盛唐の先駆的存在となった陳子昂が現れた。


○ 初唐の詩人たち

 
  魏徴  上官儀  王勃  盧照鄰  駱賓王  劉廷芝・劉希夷 楊炯 陳子昴 上官婉兒  宋之問  沈栓期
  

盛唐  712〜765 玄宗皇帝の時代 盛唐の詩人たち


  唐代の最盛期を反映し、多くの優れた詩人を輩出した時期である。修辞と内容が調和した詩風は、それまでの中国詩歌の到達点を示している。代表的詩人には、中国詩歌史上でも最高の存在とされる李白と杜甫を頂点として、王維孟浩然岑参高適王昌齢などがいる。 


○ 盛唐の詩人たち


 張若虚 包融 王翰 蘇廷 僧一行 張説 張九齢 賀知章 張旭 王之渙 孟浩然 李祈  楊貴妃 王維  李白 諸光羲 崔敏童 王昌齢 嚴武 高適 裴迪 荊叔 賈至 崔敏童 崔國輔 杜甫岑參 常建 張敬忠 崔惠童 樓穎 皎然 薛業 顔眞卿


中唐  766〜835  中唐の詩人たち 


 中唐期では、平易な表現を重んじた白居易・元槇らの「元白体」が現れた一方、個性的で難解な表現を愛用する韓愈・李賀などの一派も存在するなど、詩風は前代よりも多様化する傾向を見せ、それぞれが多彩な性格を持つ詩壇を形成した。また韓愈・柳宗元らにより、六朝以来主流となっていた「四六駢儷体」と呼ばれる修辞主義的な文体を改め、漢代以前の達意を重んじる文体を範とする、新たな文体の創出が提唱された(「古文復興運動」)。韓愈らの試みは次の宋代の文学者に引き継がれ、後世、彼ら古文運動の主導者を「唐宋八大家」と総称する。


○ 中唐の詩人たち



 
 張謂   錢起  靈一  朱放   劉長卿   戴叔倫  司空曙  楊巨源  耿夷   陸羽   顧況   盧綸   孟郊   武元衡  崔護  李賀 權コ輿  柳宗元 李益 元槇 白居易・白楽天 劉禹錫 韓愈 張継 張籍 韋應物  賈島  李紳  李渉・李渤   薛瑩   薛濤


晩唐  836〜907 晩唐の詩人たち


 晩唐は繊細で感傷的な詩風が主流となる。代表的な詩人として杜牧・李商隠・温庭均・韋荘・韓癒がいる。さらには王朝の衰退に伴う社会の動乱を憂え、詩歌による社会改革を訴えた皮日休・陸亀蒙などの詩人も現れている。


○ 晩唐の詩人たち



牛嬌  杜牧  張湖  許渾  李商隠  温庭均  陸龜蒙  皮日休  鄭畋  黄巣  劉綺莊  唐彦謙  趙瑕  陳陶  張喬  于武陵  高胼  聶夷中  曹松  魚玄機  杜荀鶴  羅隱  韋荘  秦韜玉  汪遵  

  ●唐時代の詩人初唐の詩人盛唐の詩人中唐の詩人晩唐の詩人




5.五代十国 -北宋南宋


五代十国  唐の滅亡から宋の成立までの間に黄河流域を中心とした華北を統治した五つの王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代である。

  ●五代十国、宋、元、明、清、近現代の詩人たち

■宋   960〜1279年   北宋の詩人
 王朝の興亡と民族の盛衰に伴い、祖国と自民族を想い、壮懐を詩詞句に託した作品が、数多く生まれ、現在に残されています。
      とりわけ、宋代では北方に非漢民族の国家・遼(契丹)、西夏が興り、華北を脅かし、さらに遼の滅亡の後は、女真(後の満州民族)の金が興り、華北を抑え、やがて、靖康之変の後は、漢民族の国家・宋は江南半壁に追いやられた事実があります。(北宋地図) 特に靖康之変後、江南の宋(南宋)は、中原の奪回を目指し、金と、やがては元と抗争し、詞の世界では燃え上がり、媾和に際しては、民族意識が強く盛り上がりました</FONT>
   ・北宋  960〜1127  ・遼 916~1125  ・西夏 1038〜1227
   ・南宋 1127〜1279  ・金 1115〜1234

北宋 960〜1127
  林逋  蘇舜欽  柳永  晏殊  欧陽脩  曾鞏  司馬光  王安石  蘇洵  富弼(ふひつ  蘇軾(蘇東坡)  蘇轍  宋江  孫覿  張元幹


 南宋1127年 - 1279年 
  岳飛  呂祖謙  張蝕  陸象山  朱熹(朱子)  陸游  唐婉  辛棄疾  戴復古  周密  陳亮      杜秉  張元幹  張孝祥  眞山民  楊萬里  劉克莊  文天祥  謝枋得

金  1115〜1234
(きん1115年 -1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、中国北半分を支配した女真族の王朝。
国姓は完顔氏。遼・北宋を滅ぼし、西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、モンゴル帝国(元)に滅ぼされた。都は初め会寧(上京会寧府、現在の黒竜江省)、のち燕京(中都大興府、現在の北京)。
金は北宋を滅ぼしたが、中国への急速な拡大は金の軍事的な限界点をあきらかにした。太宗は過度の負担を避けるため、華北に漢人による傀儡国家を樹立させて宋の残存勢力との間の緩衝体にしようとした。太宗ははじめ宋の宰相であった張邦昌を皇帝に据え、国号を楚とさせた。しかし張邦昌は金軍が引き上げるとすぐに退位を宣言し、欽宗の弟の趙構(高宗)を皇帝位につける運動に加わった。
その後、趙構らは南に逃れ、南方の北宋残存勢力を糾合して南宋を立てた。金はこれに対する懲罰を名目として再度の南征を開始し、淮河の線まで南下して岳飛らが率いる義勇軍と戦った。
金と南宋双方での和平派と戦争継続派の勢力後退の末、1142年に両国の間で最初の和約が結ばれた(紹興の和議)。この和約は宋は金に対して臣下の礼をとり、歳幣を毎年支払うことを定めるなど、金にとって圧倒的に優位な内容であったが、中国の二分化を元による統一まで継続することとなる。

元好問


■元   1271〜1368年    宋時代以降の詩人
元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心とした領域を支配し、その後は北へ逃れ、遊牧政権としては最終的には1635年まで存続したモンゴル人王朝であり、モンゴル帝国の皇帝直轄世襲領である。元朝(げんちょう)とも言う。正式の国号は大元(だいげん)。
     中国王朝としての元は、北宋崩壊(1127年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 -1644年)が中国統治を引き継ぐ。ただし、後述するように、元は制度や政治運営の特徴において、モンゴル帝国に受け継がれた遊牧国家特有の性格が強く、用語上でモンゴル帝国が伝統的な中国王朝の類型に変化したものであるというような誤解を避けるために、遊牧民の国を指すウルスという語を用いて特に大元ウルスと呼ぶべきであるとする意見もある。

馬致遠      
  

■明   1368〜1664年    宋時代以降の詩人
明(みん) 1368年 -1644年  明朝ともいい、中国の歴代王朝の一つ。大明と号した。朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。元に対し、白蓮教徒が1351年に紅巾の乱を起こすと反乱は瞬く間に広がった。紅巾軍の一方の将領であった貧農出身の朱元璋(太祖・洪武帝)は南京を根拠に長江流域の統一に成功し、1368年に明を建国した。万里の長城以南の中国は明に統一される。江南から誕生した王朝が中国を統一したのは明が初めて、唯一である。

  太祖・朱元璋  高 啓  于 謙  方孝孺  文 嘉  王陽明  海瑞  劉基
 

■清   1636〜1912年    宋時代以降の詩人
 このサイトでは特に唐・宋時代を中心に詩詠句を見ていきます。できるだけ、階級論争に触れないことを前提に詩人の背景、思想、等、従来の考え方と対比して行こうと思います。したがって、元以降の歴史的記述は少ないことをお許し願います。


 呉偉業  顧炎武  和申  洪秀全  譚嗣同  張之洞 黄遵憲  孫 文  梁啓超 秋 瑾 魯迅 老舎 毛沢東
 





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