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  韓愈の生涯  

2-1 幕僚生活




第二章 幕僚生活から四門博士


796年貞元12年 29歳  初句  
《昌黎先生集/卷2-27利劍》 利劍光耿耿
797年貞元13年30歳  初句  
《外集•卷3-1送?州監軍?文珍序(並詩)》【案:董晉為?州陳留郡節度使,治?州,?文珍為監軍,愈為觀察推官,文珍將如京師,作序并詩送之。】【案:此首從外集文??入。】 奉使羌池靜,
《昌黎先生集/卷36-2毛穎傳》 毛穎者,中山人也。
798年貞元14年31歳  初句  
《昌黎先生集/卷3-3天星送楊凝郎中賀正》【案:凝以?部郎中為宣武軍判官,愈時與同佐董晉幕。】 天星牢落???,
《昌黎先生集/卷5-2醉留東野》-#1 昔年因讀李白杜甫詩,
《昌黎先生集/卷5-22病中贈張十八》 中?得暴下,
《昌黎先生集/卷5-29答孟郊》 規模背時利,
《遺文-11知音者誠希》【案:見《外集》。】【案:見《遺集》。】 知音者誠希,
《昌黎先生集/卷8-10遠遊聯句》【案:韓愈、李?、孟郊】 別腸車輪轉,
   
799年貞元15年32歳  初句  
《昌黎先生集/卷1-2.7暮行河堤上》 暮行河堤上,
《昌黎先生集/卷2-2此日足可惜贈張籍》 此日足可惜,
《昌黎先生集/卷2-21駑驥》【駑驥吟示歐陽・】【案:・與愈同第進士,愈以徐州從事朝正於京,・時為國子鹽四門助教。】 駑駘誠齷齪,
《昌黎先生集/卷2-24嗟哉董生行》 淮水出桐柏,
《昌黎先生集/卷2-26-1?州亂二首其一》 ?州城門朝不開,
《昌黎先生集/卷2-26-2?州亂二首其二》 母從子走者為誰,
《昌黎先生集/卷2-28齪齪》 齪齪當世士,
《昌黎先生集/卷3-4?泗交流贈張仆射》【案:建封。】 ?泗交流郡城角,
《昌黎先生集/卷3-5忽忽》 忽忽乎余未知生之為樂也,
《昌黎先生集/卷3-6鳴雁》 嗷嗷鳴雁鳴且飛,
《昌黎先生集/卷3-8雉帶箭》【案:此愈佐張僕射於徐,獵而作也。】 原頭火燒靜兀兀,
《昌黎先生集/卷5-30從仕》 居關H不足,
《外集•卷1-5贈河陽李大夫》【案:李?,河陽節度使。】【案:見《外集》。】 四海失?穴,
《遺文-6贈族?(贈徐州族姪)》【案:見《外集》。】【案:見《遺集》。】 我年十八九,
《遺文-9贈張徐州莫辭酒》【案:見《外集》。】【案:見《遺集》。】 莫辭酒,
《昌黎先生集/卷17-1上張仆射書》 九月一日,愈再拜
《昌黎先生集/卷14-10太學生何蕃傳》 太學生何蕃、入太學者廿餘年矣。


2-1 幕僚生活


 貞元十二年(七九六)、愈は二十九歳。この年六月、防州(河南省開封)にある宜武軍節度使の募府に内紛が起った。
 節度使は李万栄という人であったが、このころ重病にかかったので、息子の酒が職務を代行していた。ところが酒は気の荒い人だったらしく、気に入らぬ部下は手あたり次第に殺してしまう。無法とわかっていても、募府の中では節度使に専決権があるので、文句のつけようがない。そこで万栄の側近であった郡惟恭という人かクーデターを決行し、洒を抽縛して、都へ送ってしまった。朝廷ではこれを受けて、洒を処罰し、東都留守(洛陽の長官である)の董晋に宜武軍節度使の職務を代行せよと命じた。
 前にも述べたとおり、節度使は自分が人選して、募府を構成する。董廿も東都留守としての部下を連れて行くわけにはいかないので、新たに募僚を集めなければ’ならない。とりあえす洛陽で人員を構成し、それを従えて注州へ乗りこむわけである。そこで選ばれた幕僚の一人に、愈か入っていた。
 なぜ董晋が愈を選んだのか、詳しいことはわからない。それまでに深いつきあいがあったとも見えないし、晋が愈の才能を特に買っていたわけでもないらしいのである。愈にしてみれば、以前には貿耽の幕僚になりたいと志願してことわられたのに、こんどは思いがけなく、募僚の職がころがりこんで来たことになる
 ただ、多少の推測は可能であろう。董晋は突然に、宜武軍節度使の任命を受けた。しかもクーデターの直後だけに、赴任は急を要する。内示があって、しかるべき準備期開を経て、用意を整えてから赴任するという、通常の転任とは違う。緊急に募僚を集めたいとなれば、広く天下の人材に思いを及ぼす余裕はあるまい。どうしても手近の人間でまにあわせなければならない、となれば、南陽から洛陽に出て来ていた愈は、ちょうど都合のよい人貝であった。
 愈の立場も、買耽にことわられた時とは違っている。あのときの愈は、まだ郷貢の進士であった。進士の科の受験資格はあっても、まだ合格はしていない、いわば海のものとも山のものともわからぬ存在である。だが、こんどは進士の科に及第という履歴が加わっていた。吏部では落第しても、学問・文学に関しては、いちおう礼部が保証してくれた形になっている。節度使の幕僚としては、最も使いやすい。幕僚にならないかと声をかけて、辞退される恐れも、まずない。
 ただし、董晋の赴任には危険がともなっていた。彼が任命を受けた直後、李万栄が死んでしまったので、彼は代行でなく、正式の節度使ということになったのである。しかし、クーデターの張本人である郡惟恭は、そうは考えない。もともと、洒を追いはらって自分が節度使になるつもりだったのである。しかも防州の軍隊は、クーデターから引き続き、彼が掌握していた。
 だから、董晋の一行が防州まであと百キロ足らすの鄭州まで来ても、宜武軍からは音沙汰がない。新任の節度使か来るのだから、本来ならばしかるべき部隊を出迎えによこし、先導して防州に入城させる礼をとるべきところなのである。幕僚だけで手兵を持たぬ晋が入城しようとし、那惟恭の抵抗にあったとすれば、重大な問題に発展する恐れがあった。
 しかし、記録によれぱ、董晋はしごく温和な人物であった。出迎えが来ないからといって怒りもせす、べつに意気ごむこともなく、何ごともなかったような顔でまっすぐ注州に入城し、緊張している郡惟恭にはおだやかに挨拶をして、即座に軍事は一任すると告げた。みなが拍子ぬけした形になって、内紛は自然におさまってしまう。
 これが、愈が政治に直接触れた最初の体験であった。このときの事件に、彼はべつに働きがあったとも見えないが、「天下を憂える」と壮語した披のことだから、やる気は十分にあったであろう。あるいは、自分の運勢もここから開けると希望を抱いたかもしれない。しかも董晋の募僚中、彼は最年少であった。それを採用してくれた晋の知遇に、彼は感激せざるを得ない。
 晋のもとでの募僚生活は足かけ四年間続くのだが、その二年目の貞元十三年(七九七)七月、病気にかかって、一時休職となった。そのとき、過去を追懐し、現状を述べようとして作ったのが、さきに引用した「復志賦」(韓文一)である。その中で彼は、洛陽でぷらぶらしていた自分を招いてくれた晋の恩義を述べ、「小人の恵みを懐ふすら、猶其の至愚を献ぜんことを知る。余は牛馬に異なれるに因り、寧んぞ水を飲み穏を求め、門下に伏して黙黙とし、歳年を竟ふるまで以て康娯するに止まらんや」と、決意のほどを示した。
 だから、病気がなおって晋の幕府にもどった後も、彼は熱心に勤務を続けたと判断してよかろう。だが、それよりも重要なのは、このころから彼について文学を学ぼうとする人々が出てきたことであった。
 たとえば馮宿という人があって、愈に指導を求め尭らしく、それに答えた于紙が残っている《昌黎先生集/卷17-9與馮宿論文書》(韓文一七、馮宿に与へて文を論する書)。それによれば、宿は自作の賦一首を愈に送って批評を求めたが、愈は「実に意思有り、但力めてこれを為れ」とほめてから、文学についての自分の体験を語ってい
 自分は長いこと文章を書いてきたが、いつも自分でよい出来だと思っていると、人は必す悪いと言う。いくらかよい出来だと思えば、いくらかけなされる。大いによい出来だと思えば、大いにけなされる。時には行きがかり上、世俗の文章を書くこともあって、自分では恥ずかしいのだが、人に見せると、よい出来だと言う。いくらか恥すかしいと思えば、いくらかほめられる。大いに恥ずかしいと思えば、大いにほめられる。してみれば、「知らず、古文は、真に今の世に何の用かあらん。然れども知者の知るを埃たんのみ」。
 愈はここで、自分が「古文」の道に進むことを、はっきりと宜言した。古文にいくら熟違しても、ほめてはもらえない。古文は今の世においては、役に立たないものなのである。しかし、それが正しいことは、わかる者にはわかる。あるいは百世の後、聖人が現れて正しさを証明してくれるかもしれない。馮宿にこう訓誠を与えてから、彼は近況について語る。
……
近ごろダ鰍、僕に従って文を学び、鮮び得る所有り。然れども其の人、齢鉛しくして事
多く、未だ其の業を卒ふる能はす。張籍なる者有り、年は翻より長じたれども、亦僕に学ぷ。
其の文、翻と相上下す(よい勝負である)。回一年これを業とせば、至るに庶幾からん。

 李翔は後年、節度使にまで出世し、師の学風を継いで、学者・文人として名を得た人物である。張籍は散文作家よりむしろ詩人として、中唐期の詩壇の一方の雄となった。後世の学者が言う「韓門」は、このころから形をなし始めたと見てよかろう。自分の若い時代とほぼ同様の境遇にある後輩たちに対して、今の世には無用のものだと言いながら、愈は古文の道を教えた。それでも教えを受けたいと希望する後輩は、愈にとっては同志の士である。同志も得られたし、上官の晋の知遇もある。生計の道も、どうやら立った。愈の心境も、ようやく落ちついたのであろう。「知者の知る
を埃たんのみ」というような余裕のある言葉は、こうした心のゆとりが生み出したものに違いない。 ところが貞元十五年(七九九)、愈が三十二歳の二月、節度使董晋が病死した。前にも書いたが、慣例として、人が郷里を離れた土地で(役人の任地もその一っに該当する)死んだ場合、無名の庶民が行き倒れにでもなったのならば別だが、遺族が遺体を引き取り、郷里にある先祖代々の幕地まで運んで、埋葬しなければならぬ。火葬の風習がないため、遺体を棺に入れたまま運搬するので、日数も費用もかかるが、これだけは遺族のはたすべき鮒めとされた。むろん、遺族にそれだけの費用がない場合もあり、そのときは近所の寺などに棺を一時あすけて、金策に奔走することになる。貧窮と放浪のうちに死んだ杜甫などは、棺があすけられたままになり、郷里まで運ばれて埋められたのは、彼の孫の代になってからであった。
 節度使ともなれば、費用に問題はない。むしろりっぱな行列を組んで、荘重に遺体を運ばなければ、体面にもかかわる。晋の郷里は虞郷(山西省)で、注州からはほぼ真西、直線距離で三百キロあまりになるが、中国の広い国土の中では、まず近い方であった。知己と惑謝した晋に対する最後の恩返しのつもりであろう、愈は葬送の行列に加わって、注州を出た。節度使の後任には、晋の補佐役をつとめていた睦長源があてられた。
 睦長源は苛酷な男であった。もともと微温的な荒廿の性格に不安を感じた朝廷が、この人物を袖佐役につけてよこしたのである。部下の過失を晋が見のがしてやると、長源が容赦なく摘発するというようなことが、これまでに何度もあった。その長源が節度使に就任しての第一声は、綱紀の粛正であり、しかもそれをただちに実行した。
 董晋の寛仁に慣れていた宜武軍の将士が不安を抱いたのは、当然であろう。不安は動揺となり、睦長源への怒りに変った。晋の遺体を捧じた葬列が注州の城門を出てから四日の後、ついに将士の反乱が起る。長源は怒り狂った兵士たちの手にかかり、むざんな最期をとげた。
 その知らせが葬送の一行にとどいたのは、彼らが洛陽の東の報師という町に一泊した夜であった。このあたりの事実は、事態がいちおう鎮静してから、愈が弟子の張籍に贈った「《昌黎先生集/卷2-2此日足可惜贈張籍》此の日惜しむに足る可し」と題する五言古詩(韓文二)に詳しい。
 この時、愈は汁‥州に妻子を残していた。彼がいつ結婚したのかは明らかでないが、もう長女があった。長男の昶はこの年の生まれだが、詩中に言及するところがないのを見ると、まだ母親の胎内にあったと思われる。妻ももちろんのことだが、まだ乳離れもしていない長女が、戦乱の中でどうしていることか。「騏女 未だ乳を絶たす/これを念うて忘るる能はす/忽ち我が所に在るが如く/耳に啼声を聞くが若し」というのが、この時の愈の思いであった。
 しかし、そのうちに東から来た旅人があって、情報をもたらした。愈の妻子は無事である。ただ、防州にいては危険なので、船で説出し、洛陽とは反対方向、東方の徐州へ落ちのびたという。愈は葬列を洛陽まで送ってから、単身で東へと引き返した。防州の南を迂回して徐州に着き、妻子と落ちあって、ここに仮の住居を定めたのは、二月も末のことであった。
 防州の反乱はほどなく鎮圧されたが、愈はもう、防州には帰れない。節度使の幕僚は公式に任命されたものであるか、任命は私的な人選によるので、身分の保証はなかった。節度使が死んだ場合 (転任のときも同じことであるが)、後任の節度使は、前任者の募僚を引き継ぐ義務はない。むしろ自分の人選によって新たに幕僚を任じ、幕府を構成しようとする。もとの幕僚は失業するわけだが、文句は言えないのであって、この点が科挙を経て正式に任命された役人と違うところである。
 愈もせっかく得た募僚の職を失ったが、運のよいことに、徐州に根拠を置く武寧軍節度使の張建封が、どれほどのつきあいがあったのかはわからないけれども、以前から愈を知っていた。注州から避難して来た愈の一家に住居を与え、どうやら衣食にも困らぬ程度に援助してくれたのは、張建劃であった。もっとも、愈の方ではいつまでも仮住居をしてはおられず、建封に甘えてもいられないので、秋になると、徐州を去ろうとした。郷里へ引きあげるつもりだったのかもしれない。その時、建封が愈を引きとめ、自分のところの草僚に任命してくれた。


與馮宿論文書
辱示《初筮賦》,實有意思。但力為之,古人不難到。但不知直似古人,亦何得於今人也?
仆為文久,?自則意中以為好,則人必以為惡矣。小稱意,人亦小怪之;大稱意,即人必
大怪之也。時時應事作俗下文字,下筆令人慚,及示人,則人以為好矣。小慚者,亦蒙謂
之小好;大慚者,即必以為大好矣。不知古文直何用於今世也,然以俟知者知耳。昔揚子
雲著《太元》,人皆笑之,子雲之言曰:「世不我知,無害也。後世複有揚子雲,必好之
矣。」子雲死近千載,竟未有揚子雲,可歎也。其時桓譚亦以為雄書勝《老子》。老子未
足道也,子雲豈止與老子爭強而已乎?此未為知雄者。其弟子侯芭頗知之,以為其師之書
勝《周易》,然侯之他文不見於世,不知其人果如何耳。以此而言,作者不祈人之知也明
矣。直百世以俟聖人而不惑,質鬼神而不疑耳。足下豈不謂然乎?近李?從仆學文,頗有
所得,然其人家貧多事,未能卒其業。有張籍者,年長於?,而亦學於仆,其文與?相上
下,一二年業之,庶幾乎至也;然閔其棄俗尚而從於寂寞之道,以之爭名於時也。久不談,
聊感足下能自進於此,故複發憤一道。愈再拜。






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